11月2019

トップマネジメントの役割

トップマネジメントには多元的な役割があるとドラッカーは言っています。これからマネジメントをしていくにあたって、その役割を意識するというのは大きな影響を与えそうです。そして、その役割とは6つに分けられます。

 

1つ目は事業の目的を考える役割。「我々の事業は何か。何であるべきか」といってことを考えることです。2つ目に基準を設定する役割。それは組織全体の規範を定める役割であって、目的と実績との違いに取り組まなければいけないのです。その主たる活動分野において、ビジョンと価値基準を設定しなければならない。3つ目は組織を作り上げ、それを維持する役割。明日のための人材。特に明日のトップマネジメントを育成し、組織の精神を作り上げなければいけません。そして、トップマネジメントの行動、価値観、信条は、組織にとっての基準となり、組織全体の精神を決めます。それに加えて、組織構造を設計しなければならない。4つ目はトップの座にある者だけの仕事として渉外の役割がある。様々な機関とのやり取りにおいて、それらの関係から様々な姿勢についての決定や行動の影響を受ける。5つ目の役割は行事や夕食会への出席など数限りない儀礼的な役割。こういった付き合いは逃れることができない時間のかかる仕事である。6つ目は重大な危機に際しては、自ら出動するという役割。著しく悪化した問題に取り組むという役割です。有事には最も経験があり、最も賢明で、もっとも傑出したものが出動しなければいけない。法的な責任もあり、放棄することのできない仕事である。

 

6つの役割を見ていくとそれは決して企業だけにいえることではなく、非営利の組織においても例外ではないように思います。どのような組織においてもマネジメントをするということは6つの役割が同じように求められます。

 

ドラッカーはあらゆる組織にとって、トップマネジメントの機能は不可欠であると言っています。もちろんトップマネジメントが行う具体的な機能は個々の組織によって特有ではあります。問題は「トップマネジメントは何かではなく、組織の成功と存続に致命的に重要な意味を持ち、かつトップマネジメントだけが行いうる仕事は何かである」とドラッカーは言います。

 

マネジメントする側に立った時に、では、自分の役割は何なのだろうかと悩んだ時期がありました。現場に入るわけではない、しかし、現場に対してのアプローチはしていかなければいけない。自分自身現場にいた経験もあるので、どういった話を聞きたくて、どういわれたら嫌なのかということはわかってはいたつもりなのですが、なかなかそれがうまくいかない時がありました。しかし、信念や理念をもったことや、自分から試行錯誤して行動していくことで見えてきたこともあり、なにより、自己評価をし続けることが一番大切であったことのように思います。そのうえで、「トップマネジメントだけが行いうる仕事は何か」と問い続けることは重要になってきます。そして、理念や信念は変わらなくとも、時代よみ、社会を知るためには柔軟でなければいけません。そこを見通すことの必要性、物事をマクロで見ながら、その反面、大局も見なければいけないのを感じます。ドラッカーはトップマネジメントの役割が、課題としては常に存在していながら仕事としては常に存在しているわけではないという事実と、トップマネジメントの役割が多様な能力と性格を要求しているという事実がトップマネジメントにはあると言っています。確かにこういったことを考えていくとなるほどなと考えさせられることが多くあります。

コミュニケーションの前提

自分自身が園という組織を運営していく中で、職員の先生と話していると、様々なことが見えてきます。その中で、理念の共有ができていないといくら話をしていても、こちらばかりが熱くなって話が響いてないように見えることがあります。組織における理念や目的意識は非常に重要なものであるというのはとても感じます。ドラッカーにおいても、目標管理こそコミュニケーションの前提となると言っています。

 

この目標管理において、部下は上司に向かい「企業もしくは自らの部門に対して、いかなる貢献を行うべきであると考えている」を明らかにしなければいけないと言っています。しかし、その部下の考えが、上司の期待通りであることはまれであると言っています。もちろん、上司と部下の知覚が違っていたとしても、それぞれにとっては、それが現実なのです。実はこうして同じ事実を違ったように見えていることをお互いに知ること自体がコミュニケーションであるとドラッカーは言います。コミュニケーションの受け手たる部下は、目標管理によって、他の方法ではできない経験を持つ。この経験から上司を理解するのです。意思決定というものの実体、優先順位の問題、なしたいこととなすべきこととの間の選択、そして、何よりも意思決定の責任など、上司の抱える問題に接することができるのです。それでも、部下は問題を上司と同じように見ないかもしれない。事実、ほとんどの場合同じようには意味ない。しかし、上司の立場の複雑さは理解する。そして、その複雑さこそマネージャーの立場に固有のものであり、なにも上司が好き好んで創り出しているものではないことを理解する。

 

部下の問題と上司の抱える問題はその性質や役割が違うので、当然違ってくるでしょうね。しかし、その問題から見えてくる上司側の景色というものがあります。受け止め方も違います。こういったことを受け手となる部下に伝わるような言い方を考えなければいけないでしょう。そして、こういったやり取りを通じて、理念と現場の実践とがつながり、今後の活動がより、理念とリンクしたものになるのではないかと思います。

 

ドラッカーは「コミュニケーションは組織において、単なる手段ではない。それは組織のあり方である」であると言っています。そして、そこには経験の共有が不可欠であるとも言っています。単にコミュニケーションをとればいいということではなく、それによって伝えられるものがあり、今後の活動に意味のあると思えるものを伝えなければいけない。それが結果として組織のためになるのですね。

 

コミュニケーションの定義というのはやはり組織運営にとって、非常に重要なものであり、その風通しのよさは組織の強みでもあるのでしょう。そして、目的意識の共有、経験の共有ができていくことで組織がまとまっていくプロセスになっていくのですね。

コミュニケーションの質

組織のコミュニケーションにおいて、これまで考えられてきたのが、トップダウン式のコミュニケーションです。トップから必要なことを聞き、それを現実化させていく、        多くの組織の中ででも当たり前のようによくあることが多かった組織形態です。しかし、最近ではトップダウン式の経営手法から、ボトムアップ式の経営に変わってきているという話をよく聞きます。つまり、上から下への関わりだけではなく、下から上への重要性です。

 

ドラッカーもコミュニケーションはこれまで数百年にわたって、上から下へ試みてきた。しかし、上から下へでは、いかに懸命に行おうともコミュニケーションは成立しないと言っています。それは「何を言いたいか」に焦点を合わせているからです。そして、コミュニケーションを成立させる者は発してであると前提しているからです。そうはいっても、はっきりとものをいうことや書いたりする努力は必要ないわけではなく、むしろ逆です。どのように話すかという問題は、何を話すかという問題が解決されて、初めて意味を持ちます。どのように上手に話していても、一方的に話したのでは話は通じないです。そして、一方的という部分に関して言えば、下の者の言うことを聞いたからといって、問題の解決にもなりません。

 

いまから40年前、エルトン・メイヨーは、それまでのコミュニケーションに対するアプローチの欠陥に気づき、上に立つ者は下の者が言わんとすることに耳を傾けなければならないと指摘しました。部下に理解させたいことからではなく、部下が知りたがっていること、興味を持っていること、つまり知覚する用意のあることから着手しなければならないとしました。子どもの保育に関しても、相手に共感し、傾聴するということの重要性が言われていますが、それは大人にも当てはまることなのですね。

 

この傾聴について、ドラッカーは耳を傾けるだけでは効果はなく、下の者の言うことを理解して初めて有効となると言います。そして、下の者がコミュニケーションの能力があって初めて有効となる。といっており、上の者ができないことが、下の者にできる保証はないと言っています。これは耳が痛いですね。つまりは、両者が傾聴する意識や共感することができて初めてコミュニケーションになるのです。

 

たとえ情報が多くなっても、その質がよくなっても、コミュニケーションに関わる問題は解決されない。コミュニケーションギャップも解消されない。むしろ、情報が多くなる分、効果的かつ機能的なコミュニケーションが必要になるのです。

 

こういったやりとりはそのまま、保育に変換することができます。大人が子どもに話すときにやはり、子どもの言い分や話に耳を傾けたり、共感しなければ、子どもはダダをこねたり、かんしゃくを起こしたりとかえって、時間がかかったりします。それと大人の関わりにも似ているのを見ると、人とのコミュニケーションというのは大人も子どもも大切なところは大きく違っていないのでしょうね。

要求と情報

コミュニケーションの3つ目は「要求」です。ドラッカーはここで新聞の例を出しています。新聞では紙面の余白を埋めるために、ニュースにならない些事を2,3行にまとめて、埋め草を使うことがありますが、かえってこの埋め草の記事のほうがよく読まれ、よく記憶されることが多くあります。それはなぜなのでしょうか。ドラッカーは「それらの豆記事が何も要求しないからである。読者の関心と関係がないからである」と言っています。

 

コミュニケーションは受け手に何かを要求します。受け手に何かなること、何かをすること、何かを信じることを要求する。それは常に何かをしたいという受け手の気持ちに訴えようとします。そして、それが受け手の価値観、欲求、目的に合致するとき強力となるのです。逆にそれらのものに合致しない時、まったく受け付けられないか抵抗されるのです。しかし、それらのものに合致しない時でも、コミュニケーションが力を発揮したときには受け手の心を転向させることができるといいます。それは受け手の信念、価値観、性格、欲求までも変えるというのです。しかし、そのようなケースは、人の存在に関わる問題であり、まれであるのです。人の心は、そのような変化に対し、激しく抵抗するというのです。

 

以前、研修の中で、なにかを変えるときに進むベクトルよりも戻るベクトルのほうが強くなり、保育においても変化を起こし続けるのが難しいことがよくあるということが言われていました。大きく人の価値観を変えるのはなかなか難しいことです。そして、一度ついて価値観というのを拭い去るのも難しいのかもしれません。そのため、マネジメントは相手の価値観や欲求、目的を分析し、うまくコミュニケーションを図っていかなければいけないのです。相手を知るための共感や傾聴する力というのはとても重要になってきます。

 

最後の原理は④「コミュニケーションは情報ではない」ということです。ドラッカーはコミュニケーションと情報は別物であると言っています。しかし、その関係は依存関係でもあると言っています。コミュニケーションは近くの対象であり、情報は論理の対象というのです。情報は形式であり、それ自体に意味はない。情報には人間はいなく、人間的な要素はない。情報はむしろ、感情、価値、期待、知覚といった人間的な属性を除去するほど、有効となり、信頼度も高まるのです。しかし、情報はコミュニケーションを前提とすると言います。情報と記号であり、情報の受け手が記号の意味を知らなければ、情報は受け取られることもないのです。情報を発信する送り手と受け手との間に、あらかじめ何らかの了解、コミュニケーションが存在しなければならないのです。

 

確かに情報を流れてきたとしても、それにどういった意味があるかわからなければ理解することはできません。暗号ばかり送られても暗号解読できなければ、その情報に意味はないのです。そのため、コミュニケーションにとって重要なことは、情報ではなく、知覚することだとドラッカーは言うのです。

どうも「コミュニケーションをとらなければいけない」という話になったときに、人は発信するほうにばかり目がいってしまいがちです。しかし、コミュニケーションというのは相手があってこそなのです。当たり前のことですが、ですが実際のところ受け手の期待を察知し、対応していくことが難しくもあるように思います。ドラッカーのコミュニケーションの原則は非常にシンプルなところを冷静に取り出しているように思います。受け手の意識を察知し、知覚できるように、要求や期待に応えるそういったところにコミュニケーションの大切な部分があるのですね。

期待

ドラッカーはコミュニケーションについて「4つの原理がある」と言っています。そして、その一つが前回紹介した「知覚する」ということであり、相手とコミュニケーションをとるにあたり、「相手がわかることを話しているか」やそもそも「聞き手が聞く気があるか」といった、「受け手の知覚能力の範囲内か、受け手は受け止めることができるか」といったことを「知覚」することでした。

 

そして、次にコミュニケーションの原理に挙げているのが②コミュニケーションは期待である。ということです。このことは非常に単純で、「われわれは期待しているものだけを知覚する」と言っています。そして、期待していないものは反発を受け、その反発がコミュニケーションの障害になるというのです。そして、重要なのは、期待していないものは受付けられることさえないというのです。見えもしなければ、聞こえもしない。無視される。あるいは間違って見られ、間違って聞かれます。人の心は期待していないものを知覚することに抵抗し、期待するものを知覚できないことに対しても抵抗します。つまり、期待する者であっても、分からなければ抵抗するというのです。そのため、期待されるものが何かを警告する必要があるのですが、その期待されるものが何なのかを、そもそも知っていなければいけない。そしてさらに、それが期待されないものであった場合、間違いなく伝える方策、つまり、誤解なく伝え、連続した心理状態を断ち切るショックが必要となるというのです。

 

言葉に出してみるとまるで、言葉遊びのようにもきこえますが、つまりは、相手が何を期待し、何を期待していないのかをマネージメントする側はしっかりと理解していなければ、後にも先にも動きずらいのです。期待するものを知って、初めてその期待を利用することができる。あるいはまた、受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショックの必要を知ることができるというのです。

 

保育を変えていくにあたって、こういった壁に当たることはよくあります。とくに「受け手の期待を破壊し、予期せぬことが起こりつつあることを強引に認めさせるためのショック」を与えるというのはとても難解です。「知覚する」ことにおいても「期待する」ことに対しても、相手がどう考えるかというアンテナを張る必要は非常に重要であるということが分かります。自分ばかりが進めていては組織は成り立ちませんし、まとまってはいきません。また、そのためには小手先の「今の状況」や「動き」といった具体的なことよりも、もっと大局の理念や理想といった大きな組織の目標を共有するということがなによりも重要な要素としてあるように思います。その目的に向かって、「期待する」ことが適しているのか、それとも破壊する必要があるのかといったことを伝えていかなければいけないのだと考えています。それは組織の人だけではなく、人との関わりにおいても同じことが言えますね。