7月2021

ルールの欠点

ルールは相手とのやり取りを効率的にできるほか、自分自身が論理的推論を行わなくても、ルールに従っておくことで社会がまとまることができます。また、ルールは変えることが出来るのも特徴であり、その時より良い考えがあり、合意と交渉によって変化することが起きます。そんな人間社会にとって合理的なルールですが、そこには落とし穴があります。

 

それは「とっくに役目を失ったルールにいつまでもこだわること」だとゴプニックは言います。これについて一例を挙げています。「ある女性が母親に好物のローストビーフを作ってあげようと思いました。彼女は、母親がいつもやっていた通りの手順なら間違いないだろうと思い、それを忠実に再現していきます。まず、肉の端っこを切り落とします。しかし、この肉の端を切り落とすということを母親がしていたのは、単にフライパンが小さくて肉が入りきらなかったためだったのです。」つまり、娘が大真面目に端を切り落としていたのは、「そうしなければいけない」のではなく、単に「そうしなければ鍋に入らなかった」からであり、作り方の手順として「正しいか」と言われると「どうでもいい」部分だったのです。

 

これと同じように道徳的に正しいと思い込んでいるルールにもこれと似た例はたくさんあると言います。その一つが「食のタブー」です。あるものを食べてイヤな経験をしたネズミは、それがたった一度のことであっても、二度と同じものを食べようとしません。これを「ガルシア効果」と言います。このように人も食中毒を起こした人は原因となった食品を避けるようになります。人類学のダニエル・フェスラーは、このような経験が食のタブーの起源ではないかと言っています。

 

また、このようにたとえばロブスターに当たった人が相当な権力者であった場合、つまりルールを作る側の人であった場合、みんなにもロブスターをタブーとしたルールを作るかもしれません。フェスラーはこうしたタブーが制度化し、やがて宗教や道徳に取り入れられていったのではないかと言います。

 

時にルールは権力の道具にもなります。作った人や、その人の属する集団の利益につながるルールが導入されることがあるのです。ルールを受け入れ、守ろうとする人間の衝動が悪用されてしまうのです。不当な仕打ちや抑圧に反対していた人も、それがルールになれば受け入れてしまう傾向があるのです。

 

日本の言葉に「勝てば官軍」とあります。勝った方が「正しい」ものになってしまうのです。そして、残ったほうは勝った側の論理に従わなければいけなくなります。保育においても、大人が子どもたちにルールを作ることがたびたびあります。それは意識的なものもあれば、無意識的なものもあります。こういったルールは度々子どもたちにとって窮屈なものになってしまうものも多いように思います。だからこそ、今世界中で子どもの権利条約を中心とした、子どもの参画が求められているのでしょうね。

ルールを作る

幼い子どもがルールを理解できているということには、因果的関係を理解しているということができ、その根底には人を助けたいという願いがあるとゴプニックは言っています。また、ルールを持つことで、相手を説得したり、無理強いしなくても、「決まったルールだから」という理由で理解させやすいことも言えるのです。またこういったルールには変更ができ、それを理解することで、人間特有の新しい世界を構想し、実現させるといった能力を有するようになるのです。

 

このように新しいルールを作る能力を生かせば、進化的な起源をもつ道徳的直感でも、有害となれば覆すことができます。たとえば、異性関係をめぐる嫉妬や復讐心、浮気した妻や自分を侮辱した相手を殺害するといった「名誉殺人」には進化的な起源があるという説があります。こういった殺人は道徳的原則からすると人に危害をくわえるというのはいけないことではあっても、殺すことが道徳的と思われたり、法律でそれを認めている社会まであります。しかし、このような道徳的直感に、仮に本当に進化的な起源があったとしても、その直感に従った時の影響をよく検討した末、ルールを修正することが出来ます。

 

このように柔軟性に一定の枠をはめるものが「メタルール」といい、新しいルールをつくったり、既存のルールを修正するときの約束事です。道徳と心理学が人類にもたらした最大の発明品の一つ、民主主義もメタ―ルールであるとゴプニックは言っています。その原則をもとに、合意や交渉によって新しいルールを決めていきます。しかし、時には、専門家に知識人、有力者、あるいは単に人気のあるだけの人がルールを決めてしまうこともあると言います。

 

幼い子どもたちにとっては大人の存在はルールを与える側です。しかし、成長と共に子どもは交渉することも覚えます。遊びを通して、ルールを作ることも学んでいきます。こういった遊びを通した子ども同士の関わりやルールを作っていくことはゆくゆくは裁判所や議会で主張をぶつけ合う準備にもなってくるというのです。

 

子どもたちのやり取りの中には様々な関わりがあります。その中でルールを作るということもあり、それが将来の準備にもなるという事を考えると、大人が介入しすぎるということも考えものなのかもしれません。私は保育に関しては「引き際」が肝心だと思っています。大人が介入することは大切ではあると思うのですが、子どもたちが自分たちで話し合うことが出来るのであれば、大人は子どもの様子を見守る必要があると思っています。子ども同士で話し合い、解決の糸口を自分たちで考えることはとても重要な経験にもなってきます。しかし、そこで大人が全てを解決してしまうというのは、その経験を奪ってしまうことにもなりかねないのです。子どもが自ら感じ、考え、行動するといった主体性はやはりルールという面においても、重要な意味を持つのですね。

未来のためのルール

 

ゴプニックは「道徳の本質をなすものは、親しい人への情緒的共感とそこから広がる人を助けたい、人に危害を加えたくないという願いです」と言っています。そして、赤ちゃんであっても人を助けたいと願っていると言っています。しかし、願っているだけでは助けることはできません。そのため、赤ちゃんが道徳的に有能な主体となるには、この衝動を世界と他人についての因果的理解と結びつけることが必要になってきます。つまり、「自分がこう動くと、物事はこういった変化が起こる」と理解していなければ、自分が人を助けるために行動することも、人に危害を加えるということも予想して動くことが出来なくなります。こういったことを理解することで、赤ちゃんは幼い功利主義者になり、善をもたらし悪を除く効果的方法を考えるとゴプニックは言っています。こういった因果的理解と共に、ルールが及ぼす因果的な作用も知っておくことで初めてルールを使うことが出来るようになるのです。

 

道徳的なものとは少し違いますが、以前、私の子ども(9ヶ月)が階段を上るようになった時に、必ず、声を挙げたり、後ろを振り向いたりしていました。それは自分が階段を上るときに目を合わせたら大人が上らしてくれると言わんばかりに、目線をこちらに送ります。もちろん、気づいたら上っていることもありますが、それに至るまでも必ず目線を通じて、何かしらのサインを送っていたことだろうと思うのです。赤ちゃんは何かを起こすときサインを出しているように思います。つまり、それは因果的理解をしている証拠なのでしょう。そう考えると、赤ちゃんが生まれて間もなくでも「泣く」という行動を行うことで、抱き上げてもらったり、落ち着かせてもらうことで泣くことをやめます。この行為自体が因果的な理解を起こしているのかもしれません。つまり、生まれてすぐに赤ちゃんはある程度の物事の理解をすでに始めているのでしょう。ただそれが生理的なものか意図的なものかは分かりませんが、早い段階でこういったやり取りを通し、因果関係をまなんでおり、道徳に通じているのであれば、赤ちゃんの頃から、しっかりと愛情を通して、大人が関わってあげるということは道徳を子どもに教える一番初めのやり取りであると言えるのかもしれません。

 

ルールは人間の選択を心理的にコントロールするうえで絶大な効果を発揮します。たとえば、どんなに複雑で分かりにくいこともルールがあればすんなりできます。誰かに行動を改めてもらいたいときも、説得することや無理強いすることもなく、決まったルールは守ろうと言えばいいのです。ある意味で、ルールがあるということは問答無用に相手に納得させることが出来るだけの効力があるのです。そして、ルールには変更が聞くという利点もあります。幼い子どもも、人に危害を加えてはいけないというような基本的な道徳原則は変えられないけれど、ルールなら変えられることを理解している。一度決まったことであっても、そこに不都合が生まれればそれを改訂し、より良いルールを作り出すことを知っています。

 

このようにルールを改訂や変革を行うことで新しい世界を構想し実現していきます。このことは人間特有の能力であり、ゴプニックはルールを作ることでこういった能力の本領を発揮すると言っています。ルールを作ることは未来のことを予測していなければ作ることが出来ません。「こういったことが予想されるから、こう変える。そうすればこういった社会になる」と予測するからルールが改訂されるのです。そのためにはその世界を予測し、予見し、かつ実現するようなものを考え出すという「見通し」を持つ力が必要になり、其れこそが人間特有である力なのですね。そして、それは乳幼児期から始まっているというのはよく考えて、保育の中にも意識していく必要がありますね。

論理的推論とルール

3歳の子どもでも他人に危害を加えてはいけないことも、ルールを守らなければいけないこともわかっているようです。そして、さらに、この2つはルールは変更が聞くが、危害を加えることは本質的にいけないことといったように、この二つが性質の違うものだということも理解しているのです。また、ルールの基本的構造も理解していて、ルールには義務と禁止と許可といった大きな構造も理解していると前回紹介しました。

 

また、ゴプニックは子どもには論理よりもルールの方がスッと頭にはいると言っています。論理的推論というは「PならばQである」といった基本的な理屈が分かっていないとできません。これに対して、ゴプニックはある実験を示しています。

 

ジェーンという女の子が「私は外に出たら(P)、帽子をかぶります(Q)」といったという想定で子どもに次の4枚の絵を見せます。

➀ジェーンは外に出ていて、帽子をかぶっている(Pであり、Qである)

➁ジェーンは外に出ているのに、帽子をかぶっていない(Pであるが、Qではない)

③ジェーンは家の中にいて、帽子をかぶっている(Pではないが、Qである)

④ジェーンは家の中にいて、帽子をかぶっていない(Pでなく、Qでもない)

といったものを示して、子どもに「ジェーンが言ったことを守っていない」のはどれ?と質問します。この問題を論理的に考えると正解は(2)であることが分かります。ところが子どもはこの種の推論を行うことが苦手なことが多く、あてずっぽうに絵を選んでしまう傾向があるのです。

 

しかし、この実験には続きがあります。この質問をルールから考えさせると正解率は上がったようです。ジェーンが母親から「お外では帽子をかぶらなくちゃいけません」と言われたという想定で、子どもにさっきと同じ4枚の絵を見せ、「ジェーンが言いつけを守っていない」絵を選ばせました。このやり方であると3歳児でもどれがルールを守っていない絵なのかをよく判別できたのです。

 

どちらにおいても、同じ正解を求める内容ですが、明らかに結果に違いがありました。ただ、確かに前者の「こういった場合はこうである」という論理的な推論を求められるよりも、「これはだめ」とはっきりと言われた方が「そういうもの」という一つの考える視点ができる分理解しやすいように思います。

 

このことは保育においても、よく見かけますね。子どもたちに「こうなったときはどうなる?」と問いかけたとき先生は思い描く「答え」を持っています。しかし、子どもたちはこういった推論から答えを導き出すのは難しく結果、大人の誘導尋問のように答えに誘導しますが、もしかすると子どもはもっと単純に言葉を伝えたほうが理解しやすいのだろうということがよくわかります。こういった実験から導き出される保育のやり取りからよく考えることの重要性を考えさせられます。

乳児のルール

では、赤ちゃんにとっての「ルール」とはどういったものなのでしょうか。模倣の研究から見ると赤ちゃんはルールを自然と覚えることが分かっています。1歳半の子には「過剰模倣」まで見られるとゴプニックは言っています。この「過剰模倣」とは、不必要に手の込んだ動作まで、そっくり真似をしてしまうというものです。たとえば、赤ちゃんの前で大人が3回回って、つまみを2回ひねり、それからレバーを押して機械を作動させたとします。すると赤ちゃんは、この過剰な動きと操作をそっくり真似をします。これに対して、チンパンジーはこの点もっと合理的で、手の込んだ動作をすっ飛ばし、真っ先にレバーを押します。ルールを守るという人間的な行動の基盤になるのは、この赤ちゃんに見られたような模倣の衝動であることが言えるというのです。つまり、ルールを守っているという行動の意味を考えて行動するというのではなく、とにかくここでは「そうすること」になっているからだというのです。

 

3歳になると、このルールの理解はもっと洗練されていきます。スメタナの研究では、子どもは他人に危害を加えてはいけないことも、ルールを守らなければいけないことも分かっていました。さらに、この二つのこと(危害を加えることと、ルールを守ること)は違う性質のものだということも理解していました。ルールのほうは変更が聞くということです。それでも現にあるルールは守らなければいけないということも分かっています。

 

このように子どもたちはルールの基本構造も理解しています。そして、ルールには義務と禁止があるということも理解しています。なにか特定のことが禁止されているのなら、それをしてはいけません。特定のことが許可されているなら、それをするかどうかは、別の理由で決めることができます。

 

たとえば、「お菓子を食べる前は手を洗わなくてはいけない」これは義務ですね。「ミルクの中に泡を立ててはダメ」これは禁止です。「お昼寝の後、ブランコで遊びたければ、遊んでも構わない」これは特定のことが許可されるが、それをするかどうかは別の「自分が遊びたいかどうか」といった理由の動機があります。

 

こういった構造は割と自然と保育の中でも繰り広げられていることが多いですね。特に幼児に至っては子どもの気持ちに寄り添い会話をしようと思えば思うほど、この手のルールを理解させることが多くなります。そして、「選択」させることは一番最後の「特定のことが許可されるが、それをするかどうかは自分次第」といったところにあるように思います。そういった意味では人はどのような状況であれ、一定のルールの中にいるということが分かります。では、こういったことはいつぐらいから始まると研究されているのでしょうか。それはヘンリー・ウェルマンの「CHILDES」で子どもの会話の研究により、明らかになっています。