10月2021

すべては思いから

先日、紹介した横井小楠(よこいしょうなん)は吉田松陰や坂本龍馬なども教えを請いに訪問するような人物であったといいます。その理由はどういったところにあったのでしょうか。横井小楠は「学校一問一答」という問答方式で書かれた文書の冒頭でこう書いています。「古今東西、規制の学校から才能ある人材が育ち、教化が進んで世の中が理想的な社会になった例はない」と断言したのです。そして、「学政一致」の弊害も論じています。

 

小楠の考えでは、「人材を育てて社会の用に立てようとする教育は安易な形で若い学生の心に染み透り、自分こそ有用な人材として抜擢されようとして、競争の原理が学校を支配するようになるのであった」と言っています。結果、学問本来の人格形成の側面が軽視され、学校ではお互いに悪口を言い合うような「喧嘩場所」となってしまうというのです。それ以外にも、才能あるものは自分の利益のために政治を利用しようとする考えを持つようになるとも指摘しました。結果として、教育を行うことが人材を損なうということにつながるというのです。

 

この考えは今の日本においても、同様のことが言えるかもしれませんね。最近でこそ、競争原理を入れることは少なくなってきましたが、それでも、試験や入試などは競争原理が働きます。次第に優劣がつくようになり、学歴や成績が高い人があたかも人格者であるかのような扱いになります。結果、いくら高学歴であっても、成績が良くても、人格が備わっていなければ、社会に出た後に活躍する場が限られますし、場合によっては「使えない人材」となってしまいます。これは現在の社会においても実際起きていることです。また、昨今のポピュリズム的な政治も同様のことが言えるかもしれません。社会のために行われるということよりも、世論の衝動的な感情に流される政治であれば元も子もありません。横井小楠の指摘は今の時代においても、考えなければいけない内容のように思います。

 

では、小楠はどのように「学問と政治」を考えていたのでしょうか。小楠は「学政一致」について、学校を専門学校化して、社会が求める専門技術者を養成するのではなく、「己を修める」ことと「人を治める」ことの一致をはかるような人材教育を意味しました。小楠によると「真の道がおこなわれていた古代中国三代の社会では君主と臣下はお互いに戒め合い、家庭や社会のいたるところで善を勧め悪を戒め過ちを反省する声が天下に満ちていた」というのです。そして、これが「学政一致」の根本的な条件であったのです。

 

「学問とは何か?」「学校とは何か?」という明確な理念なり目的を考えずに、ただ政治の道具と考えたり社会に必要な人材だけを求めようとすると、学生は自分の事だけしか考えない利己的な人間になり、かえって社会に害毒を流す結果になると警鐘をならしました。

 

この考えも実に今の時代に言えることですね。このブログにもたびたび話していますが日本の教育基本法の第一条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とありますが、どれだけの人がこのことを理念において、教育を子どもたちに向かって行っているでしょうか?自分たちの保育や教育が「人格の形成」にどういった意味があると意識しているでしょうか?こういった大志というのは教育において前提を胸に子どもたちに向き合わなければいけないのだろうと感じます。

横井小楠の改革

19世紀の中ごろから新しい時代に向かい様々な改革が構想されました。この時期を「幕末」と言いますが、古い世界から、新しい世界に変わるべくその頃の青年たちは様々な分野で挑戦を試みています。当然、新しい社会への変容には大きな障壁はたくさんあり、保守的な世代との軋轢なども激しいものでした。肥後熊本藩に生まれた横井小楠(よこいしょうなん)(1809~69)もその一人です。禄高150石の藩士の次男に生まれた横井小楠は決して恵まれたかというとそうではありませんでした。しかし、熊本の藩校時習館で頭角を現し、今でいう大学院にあたる居寮生となる。そのまま勉学を続ければ、時習館の教授か、うまくいけば藩政の中核の位置する役職に就くことも可能でした。しかし、小楠は下級武士の困窮や百姓一揆など、現実問題からまったく遊離した時習館の学問に対して批判的な立場をとったのです。

 

彼は学問への志として「天地の為に志を立て、生民のために命を立つ。往聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く。学者発心の初め、須らく此の大志願を立つべし」これは厳しい税金の取り立てに喘ぐ民衆を救済するためにも、虚飾(外見だけを飾る、うわべ)の学問に堕落した学問を本来あるべき姿に再興する「大志願」を立てなければならないといったのです。小楠はその後、改革に挑みますが、結果、藩内の保守派の反対にあい、江戸留学を命じられてしまいます。

 

江戸から帰国した小楠は時習館改革派のメンバーを集め、研究会を開きます。彼らの理想とした学問は「治国安民」を目的とし「利用厚生」を内容とする実学でした。ここでいう実学は「現実の社会に有用な学問」という意味合いではなく、「真理の学」という意味合いが込められています。つまり、人格の形成に資すると同時に民衆の生活安定に役立つ学問を目指したのです。こういった民衆の生活を中心とした考えに同調し、農村のリーダーである豪農出身の若者が集まり勉学に励むようになります。

 

小楠の学問は徹底して今に目が向いています。例えば朱子学の書物を読んでも、「今朱子を学ばんと思ひなば、朱子の学ぶところ如何と思ふべし。左なくして朱子の書に就くときは全く朱子の奴隷なり」と言っています。つまり、朱子学の問題意識や方法論を学ぶといっても、主体的に「現代」を通して考えなければ、ただ朱子の考えを盲目的に学ぶのは奴隷だというのです。小楠は朱子学を思弁的な観念論にすぎないと批判し、物の本質の解明を民衆の生産活動と結びつけて理解する必要を説きました。しかし、肥後熊本藩は結局小楠の思想を受け入れず、越前福井藩における藩政改革構想や、福井藩主松平春嶽を補佐し幕府改革構想に実現されました。

 

彼の名声は瞬く間に全国に広がり、吉田松陰や坂本龍馬も習いに来るほどでありました。

教育制度の変革

島津斉彬は薩摩藩において、藩の教育理念と造士館の改革構想を行い、その内容は実に幕末期における日本の課題を「学問の閉鎖性の打破」と「政治の閉鎖性の打破」といった2つの側面を通して、教育や学校の改革を行っていきました。その取り組みは東洋的な考えの朱子学だけではなく、西洋の文学も幅広く取り入れ、今後の日本が課題に直面した時にしっかりとしたかじ取りができるような資質を目的に変えるといった柔軟な思想は非常にこのときにおいては新しいことであったと思います。

 

また、斉彬はこのほかにも他にはない教育政策を進めます。それは留学の勧めです。武芸において様々な流派から学ぶために武者修行と称して、全国を回ることは珍しいことではありませんでした。学問においても、斉彬は「蘭学稽古」と称して、他藩の蘭学者のもとや大坂の緒方洪庵の適塾に藩士を送っています。こういった留学の奨励について斉彬は「他国で学ぶことはその人間を自律成長させるばかりでなく、とりわけ将来藩の指導者となる上級武士の子弟にとっては一般の人々の苦しみを知ることができ、その国の事情を知り、視野を広めることが出来る」と述べています。

 

他にも西洋科学を取り入れた殖産興業政策を積極的に行いました。殖産興業とは「明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策」(WikiPedia)です。精煉所や反射炉、溶鉱炉の建設、その他にも蒸気船に関する洋書の研究や建造にも積極的に着手していきます。このような開化政策のために、開物館と集成館を開設しました。開物館では、西洋科学に関する洋書の翻訳をはじめ、火薬類やアルコール・硫酸・塩酸等の薬品類およびガラスの製造法や写真技術等の実験研究が行われました。ここでの研究成果をふまえて、集成館は最盛期には千人以上の職人が従事し、兵器・薬品・ガラス・ガス燈・電信機・紡織機・農具・陶磁器などの生産に従事しました。

 

こういった実学も学問の中に取り入れていったのですが、あくまで、造士館の教育の目的は「危機時代に時勢認識を通して、積極的かつ主体的に国家の秩序および統合を担う政治主体の育成」にあります。そして、それは指導者としての武士の教養形成において根底になる文武両道の「文」に関わるところであったのです。

 

こういった斉彬の教育政策は後の西郷隆盛や大久保利通といった明治維新を行い、明治政府の基本構想を立てた政治家や五代友厚のような殖産興業を通して近代日本の富国政策に貢献し、薩摩藩留学生として幕末にイギリスやアメリカにわたり、西洋の政治・教育制度を学んで近代学校制度の確立に寄与した森有札などを輩出することにつながりました。

 

常にこうした意識の高まりの中で、斉彬は先の見通しといった目的はブレず、教育という本分の目的をもって教育変革を行っていったのですね。また、その動きは今の日本においても重ねられるように思います。リーダーシップを持つものがいかに目的を見失わず、今行うべきことを行っていくのか、その見通しを持つことが求められるように思います。

改革のために

島津斉彬は学問の目的を為政者として政務の実際に役立ちうる資質を養成するところにあると教育目標を立てていました。そのために、学ぶ学問を吟味し「正学」を確立することの重要性を説いています。斉彬はこれまでの朱子学を正学と定められていたものから、もともと日本を夷狄(いてき:野蛮人、未開の人)とする儒教偏重を戒め。「律令格式」などの日本の法律や「六国史」などの日本歴史に関する和学を正学としました。そのうえ、これらはあくまでも時勢に適合した実践性をもつものでなければいけないとしたのです。つまり、その時代が学問になにを要求しているのかを認識することによって、学問は実学となり、政治における貢献につながるのだとしたのです。

 

こうした認識によって造士館の教育は2つの点において質が改革されます。

その一つ目は「学問の閉鎖性の打破」です。これはかつて重豪が定めた学規において、教科書は四書五経や「小学」「近思録」が指定され、注釈書は手指の説に沿わなければいけませんでした。しかし、斉彬は外圧がかかる幕末期の政治においては、和漢の書だけではなく、西洋の風俗を含めて西洋の風俗をふくめて西洋を理解する学問や「外夷防御」のための西洋科学の修得を加えています。

 

次に二つ目の質は「政治の閉鎖性の打破」です。重豪は「古道を論じて古人を議して当時のことを是非すべからず」といい、時勢に即した政治的な関心や議論を禁止しました。しかし、斉彬は学問の時勢認識を強調し、個々の藩士が藩もしくは日本が直面する課題に、積極的に取り組むことを要求したのです。

 

このような認識を見ても、いかに斉彬が先の見通しをもち、そこに積極的に取り組むだけのバイタリティのあった人であるということが見えてきます。そして、何よりも、こういった学問を学ぶ意味を藩士たちに伝えたことになっただろうと思います。これまでの学問は教訓といったものが多かったものに対し、これからの学問は藩や国のためにといった重要性を説いたことはとても意味があったことだろうと思います。

 

我々教育や保育をする目的はやはり「社会における貢献」であると思います。そして、いかに「社会につながる人材を育成できるか」ということが大きな目的でもあります。しかし、いつの間にか、日々の保育や教育に追われ、遠くの大きな目標よりも、身近な短期的な目標にばかり目が行ってしまいがちです。そのうえ、保育に関していうとその「成果」というものは目に見えるものではありません。だからこそ、大きな目標を掲げ、意識することが重要になってくるのだと思います。

 

こういった過去の教育の事例や教育史からはこういった教育が形づくられたエネルギーを感じます。そして、そこから学びとき、その熱量にあたることはとてもありがたいものです。こういった先人たちの思いを受け、これからの世界のためにどういった保育をすることが優先されるのか、とても考えさせられます。

島津斉彬の改革

薩摩藩では藩校である造士館の藩校改革が行われてきたが、その藩校改革により、本来的な学校の機能を持つことにつながった一連の流れに大きな影響を与えたのが、島津斉彬です。斉彬は造士館の改革において、その原因を藩士の学問に対する情熱の欠如ではなく、個々の有能な藩士が教育を受けるだけの十分な経済的な余裕がないからだと考え、15人の学生に限って奨学金を与えるように指示しました。また、下級藩士の子弟のために、「屯田土着」の制度を設け、地域ごとに学校を設立する計画を立てました。

 

また、薩摩藩に独特な士風を形成してきた郷中教育にも監督を強化し、藩の教育方針の中に積極的に位置づけようとしました。それは戦闘手段としての武士の特性を強調する郷中教育から、士農工商という封建的身分制の中での統治者としての武士の職分を明確にしました。そうすることで「学問・武芸」だけではなく、「筆算」という日常的な学習の必要性を説いたのです。そして、「学問の要は政治の根本」という認識を持たせたのです。

 

また、斉彬は「儒者流」の考え方や世界観は、当時の状況に対応できるものではないと考え、日本が国際社会で存続を維持するためには世界的な視野を提供する学問と明確な教育理念を持つことが必要だと考え、それが政治の緊急な課題であると捉えました。そして、こういった考えが造士館における時勢にあった内容と機能をもったものに変わる契機となったのです。

 

島津斉彬の考えを見ていると、「何を学ぶか」というものが「何のために学ぶのか」ということに立ちかえったということに気づかされます。朱子学、古道といったことを学ぶということがどういったものにつながり、どういった意味あいがそこにあるのかという事を改めて問い直した意味を考えてきたのだということが見られました。つまり、「手段」が「目的」になっていたものを、「目的」のために「手段」を持つ考えに変えたという事が言えるのかもしれません。そのために、斉彬は藩内で起きている学問が進まない原因を探り出し、解消することで、より意味のあるものとして考えたのです。こういったしっかりとした原因究明と改善というのは斉彬が見通しと目的をもって教育改革に挑んでいたということと、それを改革するためのマネジメント力とリーダーシップ力があったのだろうと感じられました。

 

今、このリーダーシップやマネジメントが保育の業界でも言われることが多くなりました。教育業界というのはある意味で守られています。その中で保育の業界というのはなかなか成績のように数字で表されるものではありません。そのため、目に見えない目的や目標に向かう職員のモチベーションを持たせるには高いリーダーシップが求められるのではないかと思うのです。斉彬もそうですが、これからの社会や国、政治といった長期的な見通しを持ち、そのための道筋を持たせることが教育改革にはとても重要になります。こういった改革における器量は自分も持ち合わせていたいものだと斉彬の姿を見て感じます。