3月2021

空想と現実

2,3歳児になると、ごっこ遊びはかなりしっかりとしたイメージを共有するものになります。ごっこ遊びに費やす時間も長くなってきます。かつて、幼児のごっこ遊びは、認知能力の高さでなく、低さを示すものと考えられていました。フロイトもピアジェも、フィクションと真実、お芝居と現実、幻想と事実の区別がついていない証拠だと言っていました。これは大人に当てはめて見ると分かります。もし大人で髪を振り乱して「わらわは妖精の銃王じゃ」と宣言したら、あの人は頭がどうかしたのかしらと思われます。ゴプニックはこういったことと幼児のごっこ遊びは性質が異なると言っています。フロイトもピアジェもそのことをきちんと研究してこなかったというのです。ところが最近になって認知科学者がこの問題に取り組んだところ、2,3歳の幼児でも、空想やごっこ遊びを現実とはっきり区別していることが分かったというのです。

 

それは初期のごっこ遊びの特徴の一つに、お芝居しながらクスクス笑うことがあります。クスクス笑ったり、訳知り顔だったり、大げさな身振りだったり、これらの表情はすべて「これはただのお芝居だよ」というサインだと言います。オモチャのクッキーや携帯電話で遊ぶ子は、本当にそれを食べたり、本気でママに電話を掛けようとすることはないのです。よく、ごっこ遊びの子どもの様子を見ていると、普段の会話では方言が出てくることが多いが、ごっこ遊びの中では標準語で話していることが多いことがいわれます。それはサザエさんなど、テレビの影響ではないかといったようなところがクローズアップされることが多いですが、そもそも、そういった言語の形が変わるということ自体、子どもたちが「演じている」ということに他ならないのでしょう。また、オモチャの食べ物を食べた「ふり」をするというのも、もちろん、実際におもちゃを口に入れる子どももいますが、発達によっては何も2,3歳に限らず、1歳児でも「ふり」をすることがあります。それだけ、子どもたちは現実を理解しており、フロイトやピアジェが言っているように空想の中で生きているというわけでもないのでしょう。

 

しかし、そんな様子の中でも、現実と空想をごっちゃにしているとしか思えない行動があるとゴプニックは言います。それは全くの作り話だと頭でわかっていても、気持ちの方がついていかないときに反応が起きるのです。たとえば、ポール・ハリスは箱の中に鉛筆ならぬ怪物がいるという想像を子どもにしてもらう実験をしました。子どもたちは箱の中に怪物がいるわけないと分かっています。口でもそういっています。しかし、実験者が部屋から出ていってしまうと、こわごわ箱から遠ざかる子がたくさんいたのです。

 

これは大人でもあることです。心理学者のポール・ロージンは大人に対して、瓶に水道水を組んでもらいます。そして、「青酸カリ」と書いたラベルを瓶に貼ってもらいます。すると参加者たちは本当は毒ではないと分かっているのに飲むのをやめたのです。まさに疑心暗鬼になってしまうのは大人でも起きることです。

このことを踏まえ考えてみると、やはり幼児でも現実と空想とを切り話して考えていたり、逆に想像するがゆえにリスクを避けるという行動も大人と同様に想像力を働かせ現実の行動に生かしているということが見えてきます。

子どもの遊びと反実仮想

18ヶ月かそこらの赤ちゃんでも反実仮想は起きているとゴプニックは言います。それは赤ちゃんが模倣やお芝居をする様子からわかるのではないかというのです。模倣やお芝居ができるようになるためには半事実が思い描けないとできないからです。見立て遊びをするというのは1歳児クラスの子どもたちの様子としてはよくあります。また、模倣に関していうと特に1歳児クラスの子どもたちは顕著に模倣活動をしていることが見て取れます。そして、その模倣して学ぶことがよりできるようになるような環境作りも同時に行うからです。よく見つけるのが、赤ちゃんが何か物をもってカチカチ音を鳴らしているのを見ていた他の子どもがそれを真似してカチカチ物をもって音を鳴らしたりします。この見たものを自分で素材を集めて、音を鳴らすというのを1歳児の子どもが行っているのを見ると、目の前で見た光景を自分のまわりにあるもので現実化するというプロセスを踏んでいます。確かにそれは反実仮想によって起きた予測や見通しの行動なのでしょう。

 

こういった行動が起こる中で「オモチャ選び」が重要になります。オモチャ選びは幼児や乳児のこういった行動の志向が反映されるというのです。ごっこや見立て遊びができるようになるのはそういったオモチャがあるわけではなく、子どもがごっこ遊びをするようになるから、その遊びに合ったオモチャを用意するのです。そのため、仮にオモチャがなかったとしても、子どもはその他の石や葉っぱ、親、そして、自分自身までをも何か別のものに見立てて遊ぶでしょうとゴプニックは言います。かりに遊びを禁じる文化の下でも、子どもは自然とこうした遊びを始めるのです。

 

そして、次第にことばの獲得と共に、子どもの想像力は一気に膨らみます。まだ、言葉を話せない時期でも未来の予測や創造がいくらかはできますが、言葉の助けを借りれば、概念を自由に組み合わせることや、そこにないものを表現することもできるようになります。

 

たとえば、ゴプニックは赤ちゃんの最初に言う言葉のうち「ノー」と「アッオー」といった言葉を挙げています。「ノー」は「イヤ」といった拒否の言葉と使われますが、「ダメ」といった禁止する意味や、失敗したときの掛け声、「違う」ということを訴えるときなどに使っています。他に「アッオー」は期待したことが実現しなかったり、できると思ったことができなかったときなど、理想が現実に裏切られたときに発せられることがあるようです。

 

この様子は海外の事例なので、日本とは少しニュアンスが違う部分がありそうですね。ただ「アッ」とか「アッア」といったように声を上げることは日本でもよくあり、言葉のように相手に訴えるときに発せられることがよくあります。

 

このようにちょっとした言葉のようなやり取りが行われる赤ちゃんはもう現実世界だけではなく、反事実と可能性の世界にも足を踏み入れているといえるのではないかとゴプニックは言います。ゴプニックはこれらの表現する言葉を覚える時期は、道具の使い方を思いつけるようになる時期と一致すると言います。なぜなら、言葉を得た幼児は幅広い可能性を思い描けるようになるからだというのです。

過去の反実仮想

ゴプニックは赤ちゃんでも未来の予測ができる反実仮想ができると言っていました。では、過去のものはどうでしょうか。「もし」「たら、れば」でも、予測できるのでしょうか。は幼児の行動を観察して推量した実験から見えてきたようです。この実験が行われたころにおいても、幼児は反実仮想ができないものと思われており、それはごく最近までそうだったようです。しかし、なじみ深い話題であれば、2・3歳の幼児も、現実世界と異なる世界を生き生きと思い描けることが分かってきたそうです。

 

英国の心理学者ポール・ハリスは幼児の空想力についてはエキスパートです。彼はイギリスの田舎の童話を子どもに語りかけます。そして、そのあと、未来と過去の反実仮想を促す質問をしてみました。いたずらアヒルのダッキー君が、どろんこの靴を履いたまま台所に入ってきます。ダッキーが台所を歩いたら、床はどうなるだろうか?きれいになる?汚くなる?長靴を洗ってから入ったら、どうだろう?と質問します。すると、3歳児の子どもでも、ダッキー君が靴を洗えば、床は汚れないということを、正しく答えられました。

 

こういった実験はゴプニックも行ったそうです。正しい順位並べるとストーリーが完成する紙芝居のようなカードを作りました。それぞれのカードには「女の子がクッキーの入った瓶のところへ行く」「瓶のふたを開ける」「中をのぞく」「クッキーを見つける」「喜ぶ」といった連続した場面が書かれています。まずはこの一連のカードを見せます。続いて、これと別に「クッキーが入っていない瓶を描いたカード」と「お腹を空かせて悲しそうな女の子を描いたカード」を見せました。最初の組のカードを正しい順番に並べ、どんなお話か、子ども自身に語らせました。続いて、「それじゃ、女の子が悲しい顔をしていたらどう?」といって、最後のカードを悲しげな女の子の絵に取り換えます。そして、「どうしたのかしら?」と尋ねます。すると3歳の子どもたちはその結末にあうようにカードを動かし始め。クッキーが入った瓶の絵を空っぽの瓶に取り換えたのです。つまり元のストーリーにはない過去を想像し、推論によって新しいストーリーを完成させたのです。

 

この二つの実験を見たときに割とよくある話だと思いました。幼児期だと、特に発表会の取り組みの中でこういったやり取りは多くあるように思います。「このとき○○はどんな気持ちだっただろうね?」とか「なんでこう思ったんだろう?どうしたらこうならないかな?」と子どもたちにセリフを決めさせるときに語りかけの中で、実験にあるようなやり取りが行われているように思います。ただ、最近まで、子どもたちが想像し、それが現実と区別されることで、現実を変えることを役立てる見通しを持つ力を持っているということが考えられていないということの方に驚きを感じます。

 

ゴプニックはさらに子どもたちのごっこ遊びやままごと遊びにも反実仮想が生かされており、反実仮想ができなければごっこ遊びができないとまで言っています。それは、どういったことなのでしょうか。

赤ちゃんの予測する力

ゴプニックは実験の中で1歳児の赤ちゃんでも、反実仮想が起きているのかを実験します。彼女の研究室ではリングを棒に通すおもちゃを使い、実験をします。リングの一つには穴に透明テープが貼られ、見かけは他のリングと似ていますが棒には通せません。通らないリングに対して、1歳5カ月の赤ちゃんは、試行錯誤で問題を解決しようとします。まずはいくつかのリングを棒に通してから、テープを貼ったリングをしげしげと見て、同じように棒に通そうとします。しかし、それができないと分かると、もっと力を込めて棒に通そうとします。その後、困った顔をしたのち、他のリングを手に取って棒に通します。そのあと、再びテープを貼ったリングに挑戦します。この動作を何度か繰り返した後、最後には赤ちゃんはリングを通すことをあきらめました。

 

もう少し成長した1歳8か月の赤ちゃんは世界の仕組みがわかってきています。そして、他のリングを全部通し、穴をふさいだリングを手に取るものの、穴に通しませんでした。他にも、穴のふさいだリングを手に取るや、放り投げてしまう子どもや穴をふさいだリングを棒に近づけ、「ノー」と声を上げる子もいました。これらの赤ちゃんたちはリングに棒をとおそうとしても無駄だろうと想像しこういった行動をとったのだとゴプニックは言います。

 

これに近い行動は保育の中でもよくあります。それは汚れ物袋にうまく荷物が入らない時、1歳児クラスの子どもたちは、様々な試行錯誤をして何とか袋の中に荷物を入れようとします。最終的に入れられなかった時に、周りにいる手伝ってくれそうな人を選び、その人に向けて、「手伝って」というように袋を差し出します。乳児の子どもたちなりに、人を使い分けることやどうすれば、目的が達成できるのかを予想し、仮説を立て、検証しているのだろうと思います。

 

ほかにもゴプニックらは赤ちゃんが物の新しい使用法を見つけられるかどうか、簡単な道具の使い方を思いつけるかどうかを調べました。まず、赤ちゃんが好きなオモチャを手の届かないところに置き、熊手を手の届くところに起きます。この実験でも15カ月の赤ちゃんは熊手を手するものの使い方が分からず左右に動かすばかりで、引き寄せられず、余計に遠くへやってしまったりします。偶然手繰り寄せても、たいていはあきらめました。ところが、もう少し年長になると、熊手を見ると一瞬考えこんで、熊手をつかって、オモチャを手繰り寄せました。このことから、年長の赤ちゃんは熊手が玩具に及ぼす作用をあらかじめ想像したことがわかるのです。いろいろな可能性を思い描き、その中から最適なものを選択したのです。

 

このように新しい課題に対し、単純な試行錯誤によって解決できることもありますが、あらかじめ可能性を思い描き、そのなかから洞察により最適な考えを見つけ出す方が効率的なのです。リングにしても、熊手にしても、仮説をたて、可能性を思い描くことで、でたらめに動かすことからとれる可能性を排除し、そうした行動を回避したのです。

 

ゴプニックはこの能力の境目は生後15カ月と18カ月の間とは限りませんと言っています。もっと早い時期でも、適切な情報さえ与えられれば、頭を使って結果を予測し、それをもとに課題を解決できることが別の研究からも分かっているといっています。つまり、保育環境によっても、この違いというは大きく変わってくるのでしょう。今回のリングや熊手の様子を見ていると、大人の介入にヒントがあるようにも感じます。ゴプニックは「ホモ・サピエンスの成功に大きく貢献したのは、道具を使い、計画を立てる能力であることを人類学者も認めています。頭の中で可能性を予測する能力は、その前提となるものです。まだ言葉も話せない赤ちゃんのうちに、その能力が早くも芽生えていることが見て取れるのです。」と言っています。こういった力を持っていると知っているかどうかは赤ちゃんとの関わり方にも大きく影響しそうです。

反実仮想と進化

反実仮想は私たちが日常的に行っている判断や決定、抱く感情に影響していると心理学者たちは発見しました。その例にノーベル賞を受賞した心理学者のダニエル・カーネルマンの実験があります。この実験では、参加者に次のようなシナリオを提示します。ティー氏とクレイン氏がそれぞれ違う飛行機に乗るため、同じタクシーで空港へ向かいます。どちらの便も6時発です。ところが、渋滞に巻き込まれ、空港についたのは6時半でした。ティー氏の乗る予定だった6時の便は出発し、クレイン氏の乗る予定だった飛行機は出発が遅れ、6時25分に出発しました。さてどちらの方が、落胆が大きかったでしょうか。この質問に対して、たいていの人はわずか5分で出発してしまったクレイン氏だと答えます。それはなぜなのか。ここに関係するのが反実仮想です。そして、クレイン氏の方が落胆する理由はそこにあるのです。

 

クレイン氏のような状況に置かれた人は、タクシーがもうちょっと早く着いていれば、または飛行機があと5分ほど遅れていれば飛行機に乗れたのにと考えます。他にも、オリンピックの銀メダルと銅メダルの場合でも同じことが言えます。客観的に見ると銀メダルの方がうれしそうなものですが、実際のところ、メダルが銀か銅かで、選手の反実仮想は違います。そして、その影響を選手は受けます。銅メダルをもらった選手はメダルを逃す可能性が頭をよぎります。これに対し、銀メダルをもらった選手は金メダルを取り逃がしたと思ってしまうのです。実際、心理学者が表彰式の映像を見て、選手の表情を分析すると、銅メダリストの方が銀メダリストよりもうれしそうな表情をしていることが分かったのです。現実の結果より、起こらなかった結果の方が、選手の気持ちに強く影響を及ぼしたのです。

 

このように人は実現しなかった過去の可能性にこだわります。そして、その根底には反実仮想を重視するからです。しかし、なぜ、この反実仮想を重視するのでしょうか。その理由は進化の観点から説明できるとゴプニックは言います。反実仮想が重要なのは、それが世界に働きかける手掛かりになるからです。「かもしれなかったのに」と悔やむから、新しい可能性を求め世界に介入することができるとゴプニックは言います。未来に向けた働きかけは、どんなに些細なことでも、歴史に影響します。数々の可能世界のうち実現するのは1つです。残りは実現されることなく、実現されず終わります。しかし様々な可能性を思い描けるということ自体に、進化的に大きな意味があるのだと言います。人間は反実仮想によって計画を立て、道具を発明し、新しい環境を創造するのです。

 

過去への反実仮想とそれに伴う後悔は、未来に向けた反実仮想の対価なのかもしれませんとゴプニックは言います。わたしたちは未来に責任を持つからこそ過去のことに罪悪感を持ち、希望を抱くからこそ過去を悔やみ、計画を立てるからこそ失望を味わうというのです。つまり、実現しなかった過去を悔やむことは、豊かな未来を思い描けることとセットだとゴプニックは言っています。

 

「人が悔やむ」過程の中には「こうなるであろう」といった希望があるから悔やむというのはとてもわかります。そして、「こうなるであろう」というのは希望であり、未来の予測でもあります。この「見通し」という感覚が人間にあることで、今のような人間の進化が起きているのですね。よく、保育の中でも「見通しが持てるようにする」という言葉をいうことがあります。よくよく考えるとその言葉が表すものは人間そのものの特徴のことを言っているのだということがよくわかります。そして、それは赤ちゃんにも起きています。真似というのはまさにこの力がなければできないように思います。自分のできる能力とモデルの能力を天秤にかけ、子どもは果敢に挑戦しています。失敗の中で起きている挑戦はまさに進化の過程の中にいるのかもしれませんね。