日々思うこと

優先順位

前回の実習生の見方を通して考えていくと実習生の設定保育における見方の優先順位も変わってきます。これまで設定保育は何をしなければいけないかといったときに「実習生の設定保育を見る」ということが目的になっていました。しかし、これは誤りです。あくまで「保育時間内で行われている」ということを忘れてはいけません。つまり、優先順位としては「実習生の設定保育」というよりも、「子どもの保育活動をあくまで、実習生が主になって行っている」というようにあくまで子どもが主体といったことからズレてはいけないと思いました。

 

今自分がいる園ではチーム保育で複数の保育者で保育を行っているので、すべてを実習生に任せるのではなく、実習生と共に保育を行うことを念頭に置かなければいけないと思っています。チーム保育においては「設定保育」を行う実習生はその日の、その活動のリーダーであるだけといえます。なので、担当の職員は実習生とともに保育を行います。そうすることでより実践的なものになります。先日の内容にも書いたのですが、あくまで実習生の設定保育は失敗して当たり前です。子どもを見る期間も短く、ノウハウも多くあるわけではありません。そして、なにより、実習生は将来保育士として実践に立ちます。しかし、失敗というのはあまりにも子どもたちに失礼な話です。だからこそ、設定保育とはいえ「保育」ということを忘れてはいけないように思います。

 

このことを踏まえ、実習生に対して職員と話をしたのが「何を伝えるか」ということです。実習生に伝える最も重要なことは「子どもの見方」を伝えることだと思います。そしてそのために、どう現場の中で、理念を解釈して、子どもたちにどのように向き合っているのか、どう子どもたちの見通しを持っているのかを知らせることのほうが、細かく具体的な改善点を話すよりもより有意義であるのだと思います。具体的なテクニックは子どもの本質を理解していると勝手についてくるものだと思います。そして、そのために保育者は園の理念を理解していかなければいけません。そうでなければ、実習生に話すのは難しいと思います。保育者にとっても、実習生を受け持つというのは保育を振り返るいい機会にもなるのかもしれません。

 

私は何を優先にして、保育を進めていくのか、そういったことに気づくときに「そもそも」と考えることはとても重要だなと改めて感じています。「そもそも実習生には何を伝えなければいけないのか」「そもそも保育において実習生とはどういった立ち位置なのか」「設定保育とはいえ、そもそも保育の中で起きること」といったように、根本的なものを順序だてて考えていくことで、大切にしなければいけないことがシンプルに見えてくると同時に、いい意味で道筋の取捨選択ができるようになってくるように思います。

実習生

最近、実習生の受け入れが増えてきています。その際、当然、設定保育を見ることも多くなってくるのですが、現在では、私も職員と一緒に設定保育を見るようにしています。そもそも、実習生はなぜ、幼稚園や保育園での実習を行うのでしょうか。インターネットで検索すると「ほいくis」というサイトにこう書かれていました「保育士養成課程の学生が、保育現場で実際の体験を通して学ぶ活動のことです。実習期間中、学生は保育施設で子どもたちの様子や保育士の援助を観察したり、保育や教育活動に参加したりして、現場体験を重ねていくこと」とあり、続いて「保育実習を通して、保育園や保育士の役割を理解したり、子どもの発達や対応について学んだりすることを目的としています」とありました。大きな目標は「保育士の実践」であることが分かります。

 

私が勤めている幼稚園ではそれだけではなく「保育のすばらしさや楽しさ」といったものも同時に感じてほしいと思っています。よく「保育の厳しさ」や「現場に出たらこんなに甘くないよ」といって、生徒に雑用をばかりをさせたり、ひどいところでは子どもとすら関われない園もあると聞きます。実習生とはいえ、将来自分たちとともに働く人材と考えると、甘やかす必要はありませんが、必要な経験をさせなければいけないと思います。しかし、それ以上にこの仕事に夢や希望、やりがいを感じないと最終的に保育士として働こうとはならないんじゃないかとも思うのです。厳しい現実は働き始めると当然感じます。だからこそ、それ以上の楽しみを知っていないといけないと思うのです。そのため、職員には「実習生をたくさん楽しませてあげてほしい」「保育のすばらしさを知ってもらえるようにしてほしい」といっています。

 

また、実習には「設定保育」が付いてきます。実際に子どもたちを前にどのように保育を実践するかを指導教員に見てもらうのですが、最近この後の実習生の設定保育後のフィードバックについて考えることがありました。これまでの設定保育の観察では私も職員も「設定保育が成功したか、してないか」や「できる。できない」で見ていました。そのためアドバイスも割と具体的なことばかりを言っていました。もちろん現場の職員は具体的なアドバイスも言わなければいけないのですが、たかだかたったの2週間しかおらず、ましてや、現場に立ったこともない実習生です。子どもを理解することも、関わるための引き出しも多いわけではありません。そんな中、行う設定保育は失敗が約束されているようにも思います。それで「やりがいを感じるでしょうか?」むしろ、保育士になるハードルがかえって上がるように思います。そのため、その子たちに「できた。できない」でみるというのは酷なことでもあると、ふとそんなことを感じました。

 

では、何を見てあげればよいのでしょうか。先を考えると、実習生とはいえ、学校を出ると保育士になります。そうしたときに欲しい人材はどういった人材なのかを改めて考えました。そうすると、うちの園では「ピアノや制作などの能力が高いよりも、子どもの成長を楽しめたり、子どもの成長や発達を見通すことや子どもに環境を合わせて作りだす人」といった人であり、その根本には「子どもの見取り」が上手が人材であると言えます。こういった人材になってもらうために何を伝えることが重要かと考えると、「できたか、できないか」ことよりも、実習を通して子どもをどう分析する事かであったり、どう改善点を見つけるかといったことを手助けすることやアドバイスをことが重要なのだろうと思います。そうすると行動の話ではなく、もっと理念的な話になってきます。ここを伝えることこそが実習において重要なことだと今は思っています。そのため、職員も自園の理念を理解し、「実習生にはこうなってほしい」といった願いであったり、期待をもって見てあげなければいけません。

 

将来、実際の現場に立った時に重要になるのが、その園の理念を理解し考えて子どもに伝えることだと思っています。少なくとも、そういった人材がうちの園では欲しい人材です。「人を育てる」というのはそういうことなのだろうと思います。

やりがいを生む

東京新聞Webに「クレーマーだったはずなのに・・世田谷区の『非常識な公園づくり』が住民にもたらした半端ない満足感」という記事がありました。この内容を見ていると保育にもつながりますし、組織運営においても重要な要素があるように思います。内容は題名にもあるように区主導で行われる公園づくりにおいて、世田谷区の住民との対話やその後のことを記事にしていました。

 

もともと以前、何かのニュースで東京世田谷区での公園建設について地域の住民からかなりのクレームが出ているというのを見ました。この公園は東京23区で唯一の自然渓谷・等々力渓谷のすぐそばにある国家公務員宿舎の跡地を国から買い取った世田谷区が公園化をすることから始まります。2017年の宿舎の解体工事からはじまり2018年公園づくりをめぐる主催のシンポジウムにはのべ1530人もの住民が参加し、合意形成を進める話し合いが始まります。

 

当初参加していて住民たちは騒音に関するクレームが噴出していました。これが私が見たニュースなのですが、どうやらその先があったようです。当初区にはフットサル場や大型レストラン建設の建設の要望も寄せられていました。しかし、区が設けた様々な対話の機会や現地見学会などで住民との話し合いを重ねるうちに「大きな建物を作るのではなく、原っぱで寝転がりたい」といった意見にまとまっていったそうです。

 

住民らの考えも当初は「クレームを言う」ということが中心だったところから「どうせこうえんができるならいい場所にしよう」というプレーヤーに変化していったそうです。その際、「まだ決まっていないで詳細を公表できない」や「決定後は計画を変えられない」といった多くの自治体がいう言葉はなく、住民の声を積極的に取り入れようとした姿勢が大きかったようです。これについて、当時の世田谷区の担当係長の津田さんは「住民同士が対話を重ね、普通の公園建築の倍以上の時間をかけて合意形成に至ったため、質や納得度は高いはず」と話しています。住民のかたも「心の満足度は半端ない」という言葉を挙げられていました。

 

「クレーマーからプレーヤーに」つまり「外野から当事者に」なったということ、それと同時に自らが物事をコントロールし、作り上げたということが「満足度」にもつながったのでしょう。ここでの「満足度」は仕事上での「やりがい」とも同義にもいえることだとも思います。やりがいを持って仕事をしてもらうには自分たちで作り上げているという実感がなければいけないのでしょう。これが最近言われている「コーチング」という姿勢なのだろうと思います。そして、これは保育にも言えます。「子ども主体」がなぜ大切なのか、それは自ら遊ぶことで満足感を得ることによって、次の遊びに向かう期待や楽しみにつながります。遊びの広がりは楽しさから生まれるものと私は考えていますが、そうすると大人が楽しませる以上に、子ども自身が楽しむような環境を作る方がいいでしょう。大人はその環境に「面白そうな要素」を置くことが重要になります。これが「環境を通して」ということが大切といわれる所以であると思います。

 

今回の世田谷区の公園づくりの記事の様子からも、ともに作り上げるという姿勢を世田谷区の姿勢から感じます。誰が主に立つかということはあっても進めていく過程は「ともに」ということが重要な姿勢であり、やりがいとともにそこに所属する幸福度のようなものも結果的につながることになるのかもしれません。

展示方法

今でも様々な園で子どもの作品を作品展として展示する園は多いのだろうと思います。この「作品展」ですが、それをする意味とは何にあるのでしょうか。多くの作品展は様々な出店の中から、「佳作」や「優秀作品」「金賞」「銀賞」といったように優劣をつけることが多いのかもしれません。しかし、学校や保育園における作品展というはそういったものではないように思います。本来は学校や保育園の作品展は単なる作品を見てもらうのではなく、その中で子どもたちの成長を発達を見てもらう場としてあるべきなのではないかと思っています。

 

しかし、その中で展示の方法や何を展示するのかということはなかなかに頭を悩ませます。そういった悩みの中、最近大阪の万博公園の近くにある「NIFREL」(ニフレル)に行ってきました。ニフレルは大阪の海遊館プロデュースで「生きているミュージアム」との呼び名をもつ施設で、「感性に触れる」ということをコンセプトにしています。そして、従来の水族館、動物園、美術館のジャンルを超えて、アートの要素をとりいれた生き物の美しさ不思議さを直観的に表現した展示を行っているとしています。

 

そして、それぞれのゾーンに「いろにふれる」「わざにふれる」「WONDER MOMENT」「およぎにふれる」「かくれるにふれる」「みずべにふれる」「うごきにふれる」そして、最後に「つながりにふれる」といった8つにゾーンわけがされています。

 

私が行った感想としては確かに『感性』に触れる感覚はとても分かりました。一般的な水族館や動物園はそれぞれの種別に分かれたエリアを作ったり、生息している地域に分かれて作られていることが多い。その一方でこういったそれぞれの生物の特徴を比べて見ていくというのはなかなか興味深いものがありました。かえって、生き物に興味を持つという事でいえば、ニフレルの構成の方がより興味関心を持つことになるように感じました。

 

こういった展示の方法は保育にも生かせるように感じました。ただ単なる子どもたちの作品を見せていくのではなく、たとえば年齢による違いを見せていくことや乳児期に起きていることが幼児クラスになるとどういった変化が起きているのかということを展示にすると非常に自分の子どものみならず「子ども」というもの自体に興味が出るのではないかと思いました。今わたしの園では「成長展」として子どもたちの成長を感じることが出来るような作品展をしています。これは藤森メソッドとしての考えですが、今回のニフレルのように根本的なコンセプトと、あり方、そこはしっかりと見据えていきたいと思います。

とある芸人の言葉

あるテレビ番組を見ていると江頭2:50さんの言葉が取り上げられていました。それは代々木アニメーション学院の2022年の入学式で言った言葉で、印象に残っている言葉で取り上げられていました。そこには「簡単に手に入らないから夢なんです。それに打ち勝ってつかむのが夢なんです。やりたいと思わないならやらなくていい。でもやりたいと思ったらあきらめずやってください」という言葉でした。そして、「それでもつらいことがあったら、嫌なことがあったら俺を見ろ。そして、笑え。悩むのがばかばかしくなるから」という言葉で締められていました。

 

私は先の言葉よりも後の「いやなことがあったら俺を見ろ、そして笑え」という言葉にとても胸を打たれました。それだけ覚悟をもってやっている人の言葉は美しい。江頭2:50という人が芸風としてはあまり褒められたものではないと思いますが、しかし、それに救われている人は多いことだと思います。私は彼のことは嫌いではないですが、YouTubeを見ていると芸風とは打って変わって、真面目な彼の姿勢はとても感じるところがあります。

 

私は「夢」という言葉はとても大切なことだと思っています。これは保育においても同様で、人の生きる原動力として「夢」は大切にしたいことだと思います。以前、ある小学校の道徳の時間を見学することがありました。それももう十数年も前の話ですが、当時イチロー選手がメジャーで活躍していた時代でその話を取り上げ、教壇に立っていた先生はおそらく「イチロー選手は努力したからメジャーで活躍できた。だから、努力をすることは大切だ」という事を生徒に結論として伝えたいことだったのだろうと思います。しかし、その後、当時ついていっていた私の師匠である先生に言われたのが「イチロー選手は努力したから、メジャーで一流になれたのだろうか?私は一流になろうという思いがあったから努力したんだろうと思う」という話を府とされました。

 

私はその言葉にハッとしました。確かにその通りです。「何のために努力をしたのか」です。手段と目的が逆になっていたのです。闇雲に努力をしてもそれが生かされるものでなければいけないのです。よく勉強についても「選択肢が増えるから」といわれます。しかし、これは「夢」や「目標」がないから起きる言葉ではないでしょうか。これはあまりにも悲しい事実でもあるように思います。子どもたちには夢をもって、進学してほしいと思います。自分はなにがやりたいのかを追い求めてほしいと思います。大人が行う大きな仕事は、子どもたちを操作することではなく、子どもたちの夢を見つける支援やそれを実現できるような支援をしてあげることなのかもしれません。そして、江頭2:50さんのようにつらいときは俺を見ろというように「つらいときはいつでも戻っておいで」と温かく手を広げ見守ってあげる存在として大人はあるべきなのでしょうね。