あいさつ

GWが終わる、、

今、GWを終えて新幹線で新大阪駅に向かっています。明日から仕事だと思うと気が重いのですか、決して仕事が嫌いなわけではありません。色々と悩まされることもあるし、楽しいだけではないのですが、保育という仕事はやりがいのあるものです。

 

自分は今役職について先生たちとコミュニケーションをとりながら保育をしていますが、先日保育園でこんなことを話しました。「私は先生たちの相談には乗りますし、保育のビジョンは話せます。しかし、それを実行に移すことはでしないですし、それをするのは先生たちです。私ができるのは思いを託すことだけです。」そうなんです。私ができることはない思いを託すことしかできないのです。いくらいいことを思っても、それを先生たちが良いと思ってくれないと実現はできません。これはどの仕事でもそうだと思います。

 

どうやったらこのことが実現するのか、永遠の課題となりそうです。でも、今はそう言わせてもらえる環境があるだけマシかとも思います。ここまで言い切るのはこれまで怖かったということもあります。「はいはい、また言ってるわ」と、思われることが怖かったのもあります。しかし、今は言えるのは職員の皆さんを信じることができるようになったからなのだろうと思います。今ある環境をありがたいと思える。これは自分の成長なのかなと思います。

ファシリテーション

最近、マネジメントに対して悩むことが多くあります。特に職員に対して、どうあるべきなのか、以前ここでも紹介した吉田松陰の松下村塾の塾生のように自分たちで議論をし、意識を高く持つような集団をつくるにはどうしたらいいのかと思うことがたびたびあります。以前の話の中でも、松陰の的確なやりとりには自分自身感じることが沢山ありました。

そんな中、最近よく聞くワードに「ファシリテーター」という言葉をたびたび聞きます。ファシリテーターとは「促進」を意味する言葉であり、会議などの進行を司る役割もこれに含まれます。つまりは、様々な会議や研修などにおいて参加者の発言を促したり流れをまとめる人のことを指します。このファシリテーションについて、新宿せいがこども園の藤森先生のブログ「臥龍塾」で「ファシリテーター」についてこんなことが書かれていました。

『子どもの参画を助けるファシリテーターが備えているべき資質は、教師や子どもとともに活動するための訓練を受けてきた人の多くが従来持っている資質と同じでないことは明らかだとハート氏は言います。ファシリテーターは、知識を伝える人として働くのではなく、子どもが自分たちで活動できるよう舞台を整え、そのことによって子どもたちを助ける人っだというのです。これはファシリテーターが、自分の知識や技術を隠すべきであるという意味ではないといいます。子どもたちが自分自身で問題を発見し、その答えを見つけ出すようにするためにこそ、ファシリテーターは知識や技術を使うべきなのだろうというのです。ファシリテーターは子どもと同じレベルにあるのではなく、いろいろなリソース〔材料、人材、資金、参考資料など〕があることを知らせて、子どもたちを助ける人だというのです』と書かれてありました。

つまりは、従来の教科を教えたり、子どもに知識や技術を伝えたりするということではなく、子どもたちが自ら活動する場所を整え、援助する人であるということを意味しているのです。そして、子どもたちが自分で問題を発見し、その答えを見つけるようにするために知識や技術を使う必要があるのです。これは子どもに対するファシリテーションであるのですが、私はこのような距離感を持つことは大人においても必要なことであり、組織における部下との関係性においても同様のことが言えるのではないかと思うのです。

「伝えなければいけない」ことの「伝えかた」というものは非常に難しいと思うことがよくあります。「伝えなければ伝わらない」ですし、「注意を伝えると、モチベーションがさがってしまうこともあります」そのため、いささか集団において、モチベーションを下げず、当事者意識をもって、職員が主体性をもって自ら進めていくことが出来る場をどうやったら作ることができるのかと考えることがたびたびありました。その実現を考えると管理者がやらなければいけないのは「ファシリテーション」をする役割になることになるのだろうと思うのです。ただ、「援助」という距離感が意外と難しい。相手に責任を持たせることや、自分で考えさせるためには、自分たちでコントロールできているという状況を作らなければいけません。そういったどこで出て、どこは任せなければいけなのかという行動における取捨選択が求められるのであろうと思います。そして、そのためにはどういった職場を作ることが理想なのかという大局を見たビジョンを持つことが必要なのでしょうね。なかなか、そこに域に至るほどの器を持つのは難しいものです。

謹賀新年

新年、あけましておめでとうございます。今年も未だ新型コロナウィルスの猛威は変わらず感染者は減るどころか増えるような様相を呈しています。しかし、この新型コロナウィルスは決して悪いことばかりをもたらしたわけではありません。新しい生活様式、家庭でのテレワーク、デジタル媒体の活用など、そんな中でも新しい技術や様式は深まってきています。

 

そんな新しい生活様式になってきている中でも、乳幼児教育の在り方は基本的に変わってきているわけではなく、むしろこのように新しい時代だからこそ、その時代にあった教育の在り方を見通したうえで過ごしていかなければいけないのだと思います。

 

私は教育においても、保育においても、「本質的に物事を見る」ということが重要であるように思います。「何のためにしているのか」「それがどういった意味を持つのか」こういった一つ一つの意図を考えることが保育において重要な意味があると思います。しかし、逆に言えば、こういった本質を考えていけば社会はもっとよくなるのではないかとも思うのです。

 

実際、自分自身こういったことを心掛けていても、無理なことや思いつかないことは多々あり、その都度、未熟さを感じます。しかし、だからこそ、良いのかもしれません。一人では思いつかないことが、他の人や仲間を通じて思いつくことは多くあります。それが「イノベーション」なのでしょう。つまり、1人で思いつくということよりも、複数の意見をより良い社会に向けて選択していく力がこれからの時代には必要なのです。そのためには自己中心的なプライドよりも、人の意見を取り入れるだけの器や度量が必要になってくるのだろうと思います。

 

これからの時代は新しいことを常に生み出していく時代です。そのためにはひとりだけの力より、人と協働的に動くことができる力が必要になってきます。常に新しい時代に向けて、教育を見通していかなければいけない時代にこういったことを振り返り考えることは非常に重要なことです。今後の未来に向けて成長していく子どもたちに向かって、我々大人はどういった社会を子どもたちに用意できるのでしょうか。そして、子どもたちにとって生きる力を与えるといった教育目標において、どういったことが提供できるのでしょうか。

 

まだまだ、自分は勉強不足であり、人としての研鑽が足りていないのを常々感じます。このブログはあくまで自分の思ったことや学びの過程をアウトプットすることで自分の学びにつなげていくことを目的としています。そんな中、もし、見ていただいているかたがいるのであれば、ともに学んでもらえたらこれほど幸せなことはありません。

 

今年も、自分自身を磨き学んでいこうと思います。

今年を振り返って

今年は新型コロナウィルスが起こり、毎年と全く違った一年でした。それと同時に、保育と向き合った年でもありました。どうすれば子どもたちの発達を保障できるのか。どうすれば、自宅にいる子どもたちに保育を届けることができるのか。

 

新型コロナウィルスは確かに怖く深い問題です。しかし、だからといって怖がってばかりで入れません。子どもたちにとっては、今があるわけで、ここで立ち止まることは子どもたちにとって将来に影響を出してしまうかもしれません。正しい知識と知恵を持って乗り越えていきたいものです。

 

こういった時代だからこそ、本当に大切なものをしっかりと見据えて、保育というものをしっかりと考えていきたいと思います。

 

どれだけの人がこのブログを見ているかはわからないのですが、今年もありがとうございました。

来年もよろしくお願いいたします。

人を知る

アンドレアス氏は「現代教育におけるもっとも困難な課題は、どのようにして教育に価値観を組み込むかである」といっています。それは暗黙の願望から明示的な教育目標や実践へと移行し、地域社会が「できる範囲でやります」という限定的なものから、信頼や社会的な結びつきと希望を生み出す持続可能なものへと変わるべきであるということがこれからの社会においては求められるべきだからです。

 

このことについてニューヨークタイムズのコラムニスト トーマス・フリードマン氏は「氷山のように強固で恒久であるように見えた観点、伝統、社会通念が、今では一世代のうちに突然溶けてしまう」と指摘しています。さらに「社会が人々の下に土台を築かなければ、どんなに自滅的であろうとも、多くの人々が壁を築こうとするだろう」とも指摘しています。

 

この言葉の意味することはどういったことでしょうか。私はこの言葉を聞いて、いくら技術が進歩し、便利な世の中になっても、それを使う人間がうまく使いこなせなければかえって人々に不利益が被る場合があるということなのではないかと指摘しているように思います。これは昨今のSNSを見ていると感じます。ソーシャルネットワークというのは使い方によっては非常に便利であり、情報を共有することにおいては便利な技術です。しかし、その一方で、SNSを基にしたイジメやそれに応じて自殺者がでたり、プライバシーが侵害されたりと様々な問題が起きているのも事実です。なぜうまく使いこなせないのでしょうか。なぜ、思いやりのある使い方ができないのでしょうか。アンドレアス氏は「信頼や社会的な結びつきと希望を生み出す持続可能なものと変わるべき」といっています。今の時代、この信頼や社会的な結びつきが希薄になってきている時代です。こういったことについて、どう保育や教育は変わっていくべきなのでしょうか。

 

アンドレアス氏は東日本大震災のあと、岩手県に訪問したとき感じた感銘を語っています。その時、最も感動的だったのは日本の教員であったそうです。日本の教員は仕事とプライベートとの間に協会がないと言われています。教員は、生徒の知的な発達だけでなく、学校や家庭での社会情動的な生活にも深い責任を感じています。しかし、この地震において教員は物質的および心理的な支援がほとんどないまま、信じられないほどの量の新たな責任を引き受けていたとアンドレアス氏は言っています。多くの教員が生徒を救うために命を危険にさらしたのです。こういった教員の姿に深い感銘を受けたと言っています。

 

アンドレアス氏は「重要なのは、技術の進歩を先取りしたければ、私たち人類ならではの特性を見つけ、改善しなければならないということである。それは私たちがコンピューターを通じて生み出した能力を補完するものである、競合するものではない」といっています。

 

技術は使うためにあるのです。そのため、コンピューターのように知識を暗記することが教育なのでしょうか。大切なのはコンピューターのようなデジタル技術を使って「何をするか」が重要であり、そのためには人は人間を知らなければいけないのだと思います。