8月2021

教育に価値

寺子屋は寺院教育から庶民の学習要求に基づいたものへ移行していき、その後に職業としての寺子屋が登場するようになります。それと共に師匠の「教え」に対する報酬としての「授業料」が定められてきます。初めの頃はこの「教えの報酬」といったものは「束脩(そくしゅう)」や「謝儀」といった、いわゆる「お礼」として差し出されたものでした。そこから「授業料」に変えた初めての人が、慶應義塾の創始者でもある福沢諭吉でした。

 

福沢諭吉は「学問は個人が『身を立てる財本』であるから、受益者負担の原則で、等価としての授業料を支払うのは当然であるという」論理からはじめたそうです。しかし、寺子屋は職業として成立していながらも、「教え」が単なる文字の読み書き技術の授受にとどまらず、「人としての学び」の伝統が学び手の側に存在しました。そのため、お礼としての「束脩」や「謝儀」は基本的には「心付け」の意味あいが強く、僧侶へのお布施に近いものがあったと考えられます。

 

「謝儀」の形態は、都市や農村によって異なっており、地域によっては金納よりも物納という方法を取ることもあったようです。物納の場合、平均してみると月に米一升というのが一般的だったそうです。また、個々の寺子が負担する形態のほかに、地域が共同で師匠を雇い入れ、寺子屋の経費を負担するところも少なくはなかった。こうなると寺子屋も公立学校に近い郷学の性格を帯びてきます。明治2年(1869年)には64項の小学校を創設した京都では、竈銭と称して、町組の一家を構える家々から通学児童のあるなしに関わらず、出勤して学校の経営にあてていることもあるように、寺子屋は地域共同体とも強いつながりをもっていたことが伺えます。

 

寺子屋は庶民の地域の中から教育形態として、徐々に形になってきたのです。そして、そこに今度は「授業料」という勉強や学習に「価値」を求めるようになってきたということが分かります。日本においてこういった知識を「価値あるもの」と認識されてきた過程の中に寺子屋の文化というものは非常に大きな影響があったのでしょう。

 

徐々に現在の「学校」に近い形態になってきました。「教育」にはいかに価値があり、必要なことであるのかが明確になってきたように思います。もちろん、現在においても「教育に価値がない」という人はいないでしょう。しかし、「なぜ教育が必要か」と問われたときに答えに窮する人も多いと思います。寺子屋の文化においては、その習う必要性や楽しさといったものが、いまよりも貪欲にあったのだろうことは感じるところがあります。

寺子屋

寺子屋とは「寺小屋」とも記されることがあります。通説によると生徒を意味する「寺子」を集める職業「屋」が近世の寺子屋の原義で、主としては関西で使用された呼称と理解されています。その一方で、寺小屋は文字通り「寺」の「小屋」であり、近世の寺子屋とは区別されて使用されています。しかし、実際のところ、近世の史料を見ると、厳格な区別はないようです。ましてや、そもそも、研究者の中では、寺子屋という呼称自体、妥当かどうかといった議論も出ているようです。

 

文献上では、「寺子」という名称が初めて出てくるのは大阪の書肆(書店)が元禄8年(1695年)に刊行した笹山梅庵の『寺子制誨式目』(てらこせいかいのしきもく)であるとされています。それ以降、「寺子往来」(正徳四年〈1714年〉)や「寺子宝鑑」(享保十四年〈1729年〉)のように「寺子」という名称を用いたテキストが刊行されています。

 

大阪の私塾懐徳堂(かいとくどう)の儒者である中井竹山が松平定信に献上した『草茅危言』(そうぼうきげん)(寛政元年〈1789年〉)の中で、当時の庶民の風俗があらわされており、「村学蒙師」(そんがくもうし)と呼ばれる人が読み書きを教えていたようです。またその村学蒙師は学問に精通した知識人というよりも、子どもに物を教える程度の学力を持った人であったようです。さらにこの時期において、寺院教育は世俗化され無関係になっていたにも関わらず、寺院教育の名称が継承されたと述べられています。これに対し、寺子屋研究の開拓者でもある石川謙はこうした用語そのものが中世寺院教育が一直線の路線を伝って、近世の寺子屋につながったかのような誤解を与えていると言っています。そのため「寺屋、寺子、寺入り」といったこの頃の用語は近世中期に登場する寺子屋特有のものと断定しました。このように、寺院教育の流れがあるという説も、途切れているという説もあるのですが、この頃、中世寺院教育の世俗化は進み、寺院とは全く無関係な形態にまで展開したのが、近世中期の寺子屋の特徴になります。

 

明治の中期に文部省が旧藩時代の全国の藩校・郷校・寺子屋の調査をしました。それに基づいた「日本教育史資料」によると、寺子屋の総数は1万5000あまりあったと記録されています。そして、その開設は十九世紀に入って急激に増加していたようです。しかし、その後、近世の町史や県史といったものを改めて編集しまとめていくと寺子屋の総数は大幅に書き換えられ、実際にはこの倍近い寺子屋が存在していたと推定されています。また、これを人口比率から見てみると、現在の小学校の数に匹敵するほど、その数は増えていたようです。

 

子どもの人口比から見ると現在の小学校の数と同じというのも、面白いですね。また、この頃の子どもたちに勉強を教えていたのは今のように正式な資格をもった知識人というよりも、子どもにものを教えることが出来るくらい程度のものであったというのも、面白いですね。まさに、まだこの頃は生活において必要に応じた知識を教えるという実践的な教育が求められたものが教えの中に多くあったのだろうことが見えてきます。

寺院教育と寺子屋

寺子屋の起源となるものに、中世の寺院教育は少なからず関わっています。しかし、それは庶民の生活の中に浸透していった寺院教育が発展して寺子屋になったというわけではないようです。むしろ、場合によっては封建的な領主政策によって寺院教育を否定する形で行われる場合もあったようです。一般的に近世に登場する寺子屋は、中世の寺院教育とその経営主体や教育内容および、目的など質的に異なるものであると説明されています。

 

近世の「寺子屋」は商品経済の発展にともない、庶民の生活に「読み・書き」能力が欠かせなくなってきたときに、民衆の中から自然発生的に開設されるようになってきたと考えられています。たとえば、農村では、農業技術の改良や新田の開発などにより生産性が高まり、種々の商品経済が日本の津々浦々にまで浸透し、契約書の作成や送り状などの書類作成が必要となってきました。また、訴状の作成など、自分たちの生活を守るうえで文字学習は欠かせないものとなったのです。

 

また、社会組織が複雑になってくると、為政者の側からも法律によって庶民の生活を規制する必要が生じてきます。江戸時代に犯罪などの連帯責任の負担や貢納確保を目的として、五戸を一組として創設された五人組が、守るべき法規や心得が書かれた五人組帳前書や法度や掟書などを記して町や辻や人の集まる場所に立てた高札などを教材化して、庶民に文字の学習を進めるところもあったのです。

 

この様子などは、よく時代劇の中で表されていることが多いですね。よくよく考えると「号外」といった街に紙を投げながら走っている庶民の様子などを見ていても、まずそれだけ庶民全体が文字が読めなければ、そんなことをしても意味がないのです。そして、それと同時に文字の読み書きを学ぶ「寺子屋」が出来た来たのですね。当時の庶民の生活にはそれだけ文字を読むという力が自然と生活の中で親しまれ、養われていたということが見えてきます。

 

では、その当時、否定されてさえいた寺院教育というのは全く途絶え、寺子屋が登場したのかというと、そうではないようで、むしろ寺院教育が世俗化されていく過程と並行して、そうした名残をとどめつつ、新しい種類の教育機関がその世俗化を徹底させて登場してきたと考えたほうが妥当であると沖田氏は言っています。

 

寺子屋というのは庶民が必要として自然発生的に起きたのですね。それも面白い事実です。日本人にとって文字というのは、必要にかられて浸透していったのですね。これは島国であったことも影響しているのかもしれません。大陸では戦争によって王朝や主権がとって代わられることがあり、その都度文化も入れ替わることが多かったかもしれません。それに比べ、日本の場合江戸幕府が出来てから長い期間平穏な時代が過ぎています。文字文化においてもそれが浸透するまでの時間をしっかりとれたということも識字率や読み書きの発展に大きく関わったのではないかと私は感じています。

寺院教育

日本の教育の始まりは仏教の教義の「聞き学び」から始まったと言われています。面白いですね。「聞き学び」というのは、乳幼児教育においても、歌を覚えたり、お話を覚えたりというのは「聞いて学んでいる」ことが多いです。では、次に「聞く」から「書いてあるものを見て学ぶ」といった文字を使った学びというのはいつごろから始まったのでしょうか。

 

物語を文字を通して学ぶ「文字学び」の広がりは、鎌倉時代ごろから一般化する寺院教育の世俗化によって加速されました。武家政権が確立する中世において、貴族に代わって僧侶が新しい知識の担い手となってきます。これらの知識僧のなかには新しい武家政権から手厚い保護を受けたものがあったが、なかには 権力抗争の渦巻く世俗から離れて、奥深い山中に寺院を建立して弟子の養成にあたったものもいました。

 

こうした寺院教育はそもそもは僧侶の養成が目的としたものです。しかし、全員が僧侶になるわけでもなく、一定期間、寺で基礎的な教育をうけたのち、元の生活に戻る(還俗)するものも出てきました。この世俗教育の先鞭を切ったのが武家です。たとえば、源義経も幼少期の牛若丸のときに鞍馬寺に預けられていたというのは有名な話です。これとは別に武家が寺院で基礎的な教育を受けるものも少なくはありませんでした。

 

とはいえ、武家だからといって、すべての武士が寺院教育を受けるわけではありません。それは一部の上級武士の子弟に限られたものでした。彼らは厳しい戦乱の中で、棟梁としてふさわしい見識と人格を養うことが必要とされたのです。これにおいては、武田信玄は8歳から甲斐長禅寺に入っています。他にも上杉謙信は7歳から春日林泉寺、徳川家康は10歳の時、駿府智源院に入っていました。

 

その後、時代が進んでいく中で、上級武士だけではなく、武士以外の庶民も入学するようになります。その頃、公家や武士、庶民に至るまでを対象とした教訓書である「世鏡抄」(せきょうしょう)には「貧卑・孤独の人の子であってもしっかり教えよ」とあり、さらに「侍のこの悪事は三度まで許し、それ以上は父母の許に返し、凡下(庶民)の子どもならば十度まで教えよ」と記されていました。この内容を見ると、寺院教育においては、庶民の子どもより侍の子どもを厳しく扱っていたことが分かります。

 

寺院教育では、7歳頃から4~5年寺院に入り、寺院教育を修了するのが一般的であった。そして、「読み書き」といった基礎的な教育、和歌や連歌、管弦などの音楽教育、教科書としては仏教関係の書物の他に、「童子教」「実語教」「庭訓往来」(ていきんおうらい)といった、近世の寺子屋教育に継承されるものも用いられた。また、戦国大名の代表的な家訓書である「多胡辰敬家訓」(たごときたかかくん)では寺院教育の目的は単なる読み書き能力の習得にとどまらず、そこに集まる人間との交流を通して「立ち振る舞い」を学び、将来貴人に仕えるにふさわしい行動様式を学ぶことにあると述べられています。

 

とはいえ、この寺院教育が庶民にも降りてきたことが、寺子屋につながるのかというとどうやらそうではないようです。では、寺子屋の起源とはどういったところにあるのでしょうか。

教育の原点

寺子屋は昔から庶民の文化から根差した教育体系であるということが分かっています。日本は過去の歴史から見ても、非常に識字率の高い国であると言われています。大陸から漢字が伝来し、漢字はかな文字を生み出します。このように日本では、中国や朝鮮で使用された漢文とは異なる文体を作り上げてきたのです。こうした漢字文化の改良と発展によって18世紀の末には、日本の識字率は世界の先進国と比べても驚異的な高さに到達しました。

 

その後、文字学びは中世末期ごろより、庶民の中で普及し始め、近世に入ると「読み・書き」を中心とする庶民の文字学びの「場」として、寺子屋が自然発生的に登場してきました。こうした寺子屋の普及は庶民経済の活況と町人文化の台頭が、日常的に「文字」を使用する生活を成立させていたことを物語っていると沖田氏は言います。

 

ではそもそも、「文字」というものはどこから来たのでしょうか。古代社会において、文字文化が朝鮮から渡来人によってもたらされたことは、古代の大刀や鏡に刻まれた文字から明らかになっています。しかし、古代の法律である「大宝令」に定められた「学令」によると、学校教育を受けて、文字文化を学び、それを共有したのは、最初は朝廷周辺の限られた人々であったそうです。その後、文字文化は貴族から上級武士、さらには庶民へと徐々に広く伝わってきたと言います。

 

また、庶民が「学ぶ」原点は鎌倉新仏教の登場から始まっているようです。難解な仏教の教義を分かりやすく民衆に理解させるために、様々な工夫を生み出されました。この頃行われたのが、高僧の行状や地獄図・極楽図などの絵画を見せてその教えを説いたり、僧侶が街の辻に立って、民衆に語りかける「辻説法」と呼ばれる方法などで教義を教える「聞き学び」を浸透させました。

 

絵画を見せてその教えを説く方法は「絵解き」といいます。これは今の教育学で言うところの「直感教授法」であり、現在でいえば、視聴覚教育といえると沖田氏は言います。このような「聞き学び」という方法が、教育の原点であり、やがて「文字学び」へと発展する前段階の学びの形態であるのです。たとえば、「御伽草子」も、身分の高い貴人の側にいて様々な話を聞かせて慰めることを「御伽」というがその言葉の通り、その原初は「聞き学び」にあるのです。読み物として普及してくるのは近世に入ってからです。

 

日本における教育の始まりは「聞き学び」から始まったのですね。この様子を見ていると、「漫画」の起源もこういった説法からの絵解きからつながっているように思います。それと同時に、こういった「聞き学び」が説法から入ったということですが、そもそもこういったことを聞く人が多かったというのもあるのでしょう。こういった伝承されていく知識というのは古代からあったのだと思います。人間はこうやって過去の知識を得て、今に生かすことで生存戦略を生き延びてきたのです。「学ぶ」というのは人間における「生きる力」でもあるのです。

 

保育においても、最近はあまり聞きませんが「素話」という文化がありました。その文化は園本の普及とともに聞かなくなりましたが、私は自分の経験上、寝る前にお話を読んでもらっていました。まさに「御伽草子」ですね。こういった文化は今でも残っていますし、学ぶプロセスというは今においても昔においても変わらないものがあるのですね。