寺院教育

日本の教育の始まりは仏教の教義の「聞き学び」から始まったと言われています。面白いですね。「聞き学び」というのは、乳幼児教育においても、歌を覚えたり、お話を覚えたりというのは「聞いて学んでいる」ことが多いです。では、次に「聞く」から「書いてあるものを見て学ぶ」といった文字を使った学びというのはいつごろから始まったのでしょうか。

 

物語を文字を通して学ぶ「文字学び」の広がりは、鎌倉時代ごろから一般化する寺院教育の世俗化によって加速されました。武家政権が確立する中世において、貴族に代わって僧侶が新しい知識の担い手となってきます。これらの知識僧のなかには新しい武家政権から手厚い保護を受けたものがあったが、なかには 権力抗争の渦巻く世俗から離れて、奥深い山中に寺院を建立して弟子の養成にあたったものもいました。

 

こうした寺院教育はそもそもは僧侶の養成が目的としたものです。しかし、全員が僧侶になるわけでもなく、一定期間、寺で基礎的な教育をうけたのち、元の生活に戻る(還俗)するものも出てきました。この世俗教育の先鞭を切ったのが武家です。たとえば、源義経も幼少期の牛若丸のときに鞍馬寺に預けられていたというのは有名な話です。これとは別に武家が寺院で基礎的な教育を受けるものも少なくはありませんでした。

 

とはいえ、武家だからといって、すべての武士が寺院教育を受けるわけではありません。それは一部の上級武士の子弟に限られたものでした。彼らは厳しい戦乱の中で、棟梁としてふさわしい見識と人格を養うことが必要とされたのです。これにおいては、武田信玄は8歳から甲斐長禅寺に入っています。他にも上杉謙信は7歳から春日林泉寺、徳川家康は10歳の時、駿府智源院に入っていました。

 

その後、時代が進んでいく中で、上級武士だけではなく、武士以外の庶民も入学するようになります。その頃、公家や武士、庶民に至るまでを対象とした教訓書である「世鏡抄」(せきょうしょう)には「貧卑・孤独の人の子であってもしっかり教えよ」とあり、さらに「侍のこの悪事は三度まで許し、それ以上は父母の許に返し、凡下(庶民)の子どもならば十度まで教えよ」と記されていました。この内容を見ると、寺院教育においては、庶民の子どもより侍の子どもを厳しく扱っていたことが分かります。

 

寺院教育では、7歳頃から4~5年寺院に入り、寺院教育を修了するのが一般的であった。そして、「読み書き」といった基礎的な教育、和歌や連歌、管弦などの音楽教育、教科書としては仏教関係の書物の他に、「童子教」「実語教」「庭訓往来」(ていきんおうらい)といった、近世の寺子屋教育に継承されるものも用いられた。また、戦国大名の代表的な家訓書である「多胡辰敬家訓」(たごときたかかくん)では寺院教育の目的は単なる読み書き能力の習得にとどまらず、そこに集まる人間との交流を通して「立ち振る舞い」を学び、将来貴人に仕えるにふさわしい行動様式を学ぶことにあると述べられています。

 

とはいえ、この寺院教育が庶民にも降りてきたことが、寺子屋につながるのかというとどうやらそうではないようです。では、寺子屋の起源とはどういったところにあるのでしょうか。