指導力

東洋経済オンラインの6月1日の記事に横浜DeNAベイスターズファーム監督の仁志敏久さんの記事で「『うさぎ跳びを選手に強要する』指導者の無教養」という記事が載っていました。そこには野球の指導者が「意味のない練習をさせること」や「指導者の思い付きや一方的な解釈の押し付けは絶対にさけなければならない」ということを言われています。代表されるものが「うさぎ跳び」であり、仁志さんからするとうさぎ跳びは「何を鍛えているのか?それによって鍛えられたものはどんな時に役に立つのか?おそらくですがきついからやらせていたのだと思います。選手がヘロヘロになって、転びそうになると『さぼるな!』という罵声が飛び、クタクタになった姿を見て指導者は満足をする」のではないかと言っています。

 

また、その他にも「きついことをとりあえず一度はやっておかなければいけない」という趣旨もあるのではないかとも話しています。きつい練習が「レギュラーになるために乗り越えなければならない壁」というように選手に言いますが、果たしてそうなのだろうかというのです。それを乗り越えることでそれまでの自分を越えるような変身ができるのだろうかと、これはやらせる側の一方的な満足で終わり、選手の成長や技術の向上にはあまり役に立っていないということが言えるのではないかというのです。

 

しかし、その一方で、きつい練習がダメだと言っているわけではないと言います。楽な練習はないですし、向上するには労力が必要であり、意味のある練習ほど、きつくつらいものだというのです。しかし、そこに労力を費やす意味があるからこそ、選手はその練習に取り組み、つらい変えを乗り越え、その練習に納得するから継続もできると仁志さんは言っています。つまり、その練習が誰にとっていい練習だったのかを問わなければいけないというのです。

 

こういった一連の考え方は何も野球だけに言えることではなく、学習や勉強、保育においても、同様なことが言えます。よく保育の中で「これまでそうだったから」と言われることがあります。しかし、その始まりの年のクラスの子どもたちにはあっていても、それが今のクラスの子どもたちにとって、良いことであるとは限らないのです。子どもは常に違いますし、それぞれの発達も違います。そのため、今の最適のものを子どもたちに提供していかなければいけないのです。そうすることで、時代や社会に合わせた教育形態を作ることが出来るのです。今の保育業界や教育業界においても変化があまり起きていないことが多く見られます。それというのも、「これまでそうだったから」ということが多いからなのだろうと思います。それがいったい「誰のためのものなのか」ということを考えていくと、教育や保育においては「これからの社会に生きる力を子どもたちに与えるためには」を中心に添えると、「これまでそうだったから」というだけでは、変化のある社会に対応することが出来なくなります。だからこそ、保育において「ねらい」を大切にする必要があるのです。勉強や学習においても、ただ漠然とするのは「うさぎ跳び」をするのと対して変わらないことなのかもしれません。それが何のために必要で、どういったことに意味があるのかが分からなければ、身につくものでもないのだろうと思います。

 

何かを誰かに教えるときにその「意図」と「意味」がなければ、モチベーションは上がっていかないのはどの分野でも、どの年代であっても、同じことであるのだろうとことが分かります。