ルールをつくる基

新しい状況に適応できるよう人々の行動を変えたいときには、それに見合ったルールをつくることが効果的だとゴプニックは言います。確かに何か大きく変化が起きるときはそれに見合った一つの指針があると人の行動をコントロールしやすくもありますし、実際動く人自体もマニュアルのようなものがあると行動に一つの道筋ができます。ただ、そのルール自体が納得できるものかどうかが重要になってきます。

 

そのため、ゴプニックはそのルールにおいて他人への共感に根差した善悪の判断を拠り所にすれば、道徳的相対主義に陥るのを防げると言います。どの人にも共感できるような判断を下すことで、どちらか一方に偏ったものにはならないというのです。これは「世界についての理論を改良するときも基本的前提だけは変えないようにすれば判断基準を失わずに済みます。私たちは常に一定の歯止めのもとに適切なルール、適切な理論を探っているのです。」と言っています。法律や憲法に至っても、時代や社会状況によって「適切」というものが変わってきます。当然それによって改訂していくべきところも出てきます。しかし、その際に、基本的前提を変えなければその基準からブレないルールを作り上げることが出来るのです。

 

このことについて私はこの「基本的前提」をいかに自分の中にしっかりと考えるかは非常に重要な要素であると考えています。これは保育や教育にも言えることですし、政治においても言えます。人が人とつながっていくことにおいて、できるだけ理性的な関わりの社会をつくるためにはその前提となるもののとらえ方は非常に重要です。それが最近ではどうも、違ってきているようにも感じます。以前、工藤勇一先生の著書を紹介しましたが、そこに合った言葉「目的のために手段があるのに、いつのまにか手段が目的になっている」ということが最近は多いように思います。どうも本質的な原理原則から物事をみるのではなく、目の間にあるルールや規範といった手段にばかり目が行っているようにも思います。ルールやマニュアルを作ることに力がそそがれ、それがそもそも何のために必要なのかが置いてきぼりになっていることも多いのではないでしょうか。そのため、根本的に基本的前提や本質といったことを意識することから考えを巡らせるということは非常に重要で、かつ難しいことであると感じています。