4月2021

模倣と遊び

これまでの実験を通してわかることは、子どもは赤ちゃんと言われるころから、他の人や養育者の行動を見て、因果学習をしているということが分かります。つまり、幼児に何かして見せたり、真似をさせることが、因果学習を促しているというのです。これは様々な文化特有の技術や道具の使い方もこうした「実演」によって受け継がれてきたというのです。

 

この「実演」による教育は何も工業化された現代だけに言えるものではありません。例えば、グアテマラのマヤ族の母子を研究したバーバラ・ロゴフは、マヤの子どもたちがごく幼いうちから複雑で危険な道具を使いこなす点に注目しました。すると、マヤの子どもたちは赤ん坊のときからいつも道具を使う大人たちと一緒です。それは村の広場が仕事場であり、保育園でもあるからで、そういった環境の中においては、子どもたちは常に大人のすることを見ながら育ちます。そして、この種の実演は、伝えるためだけではなく、変革の手段としてもとても有効だと言います。なぜなら、時としてたまたま発想か運に恵まれた人が思いついた技術によって、集落全体や子どもたちに伝わると、次世代ではそれが半ば天性のようになっているかもしれません。こういった技術革新は今の時代でも数多く起きています。

 

子どもは人のする特定の行動が何をもたらすか、他の人のする実験や介入が何をもたらすかを観察し、それを因果マップにして取り込みます。こうして頭の中に描かれた因果マップは、同じ結果を何度も出せるだけでなく、それとは違う可能性を検討したり、計画を立てたり、色々なことに応用できるのです。大人が歯車オモチャを操るのを見た子どもはそれを真似しているうちに、歯車の仕組みを覚えました。子どもは真似をしながら道具の仕組みを覚えます。基本的な仕組みさえ押さえてしまえば、初めての作業にも応用が利くのだとゴプニックは言っています。

 

こういった子どもの学習のプロセスを見ているとやはりモデルの存在というのは大切ですね。現在、自分が勤務する園では異年齢での保育を行っています。乳児においても、クラスで別れるというよりは子どもの発達によって分けることや、遊びによってクラスを行き来することがあります。幼児になると3~5歳児までを一つの教室で見るので、その中ででも真似をすることや遊びが広がることが多々あります。その中で起きる真似はよく見ると発達にあったものであるということが伺えます。いくら真似をすると言っても、自分が全くできないものはすぐに飽きてしまいます。子どもたちにとっては「もう少しでできそう」というものに一番楽しみ集中する様子を考えると、その答えは、近くに居る大人の環境もあるでしょうが、少し先の発達を見せる年齢の友だちの重要性もあるように思います。大人においても、子どもにおいても、憧れを持つことが真似の意欲にもなるのではないでしょうか。

 

また、遊びの中で、いろんなことを試し、不思議なことを自分なりに検証しつくせるような環境も必要なのだろうと思います。ゴプニックは「時としてたまたま発想か運に恵まれた人が思いついた技術」とありますが、このようにふとした瞬間に遊びの幅が広がる姿はよく見られます。子どもの遊びにおいて、こういったちょっとした発見をたくさんすることが、その先の学習意識や動機にもつながっていくのでしょうね。そう思うと、乳幼児期にしっかりと遊び込む経験というのが後に学習意欲につながるというのも分かる気がします。

真似る。模倣。環境

赤ちゃんは「観察」をもとに、人の行っている行動を自分の行動と認識し、他人のする実験や介入の結果から学ぶことができるようになることで、学習の範囲が一気に広がると言います。こういった観察を通して、物事の因果学習をしているとゴプニックは言います。それは赤ちゃんも同じく行動から学ぶと言っています。

 

この様子は保育の中でも様々な場面で見ます。今自園では、昼食時、自分のエプロンやタオルを汚れ物袋に1歳児クラスの子どもたちはいれています。その様子を見て、0歳児クラスの子どもも先生の手を借りながらですが、同じようにタオルやエプロンを入れているのを見ているとそれだけ、模倣が起きていることが見えてきますし、模倣がおきるということはそれだけ観察を通して学んでいるということでもあるのが伺えます。

 

アンディ・メルツォフは模倣研究の第一人者です。1970年代にはすでに赤ちゃんは生まれたときから、他人の仕草や行動を真似することを研究によって示してきました。9ヶ月の赤ちゃんは模倣を使った因果学習もできます。他人の行動を漠然と真似るのではなく、それをしたらどうなるか知ったうえで、同じ結果を起こそうとして真似をしてみるのです。まさに、0歳児クラスの赤ちゃんの起こしている行動ですね。実験では、研究室にやってきた1歳の子に、実験者が自分の頭で箱を小突くと箱が光るのを見せます。すると、その1週間後に再び研究室にやってきたその子は、机の上に箱があるのに気づくや、自分の頭でそれを小突き光らせようとしたのです。

 

1歳半になるともっと洗練された学習ができるようになります。ジェルジ・ゲルゲイは、先ほどの模倣実験を2つのパターンに分けました。一方は先ほどと同じ、もう一方は毛布で体をくるみ、両手を使えない状態にして行います。この両方を赤ちゃんに見せると、先ほどのように手が使える人が頭で箱を小突いたのを見た赤ちゃんは、真似をして頭を箱につけます。しかし、毛布にくるまれた人が頭で箱を小突くのを見たときは、赤ちゃんは頭ではなく、手を使ったのです。これはつまり、同じことをするだけでなく、手が使えるときは手を使って、手が使えない時は頭を使うのだということも学んだのです。

 

メルツォフの別の実験では、2つに切り離せるダンベルを使って、実験者がそのダンベルを切り離せない様子を赤ちゃんに見せます。それからダンベルを赤ちゃんに渡すと、何と赤ちゃんはこれをあっさり切り離してしまうのです。子どもは他人の成功からだけではなく、失敗からも学ぶことができるのです。赤ちゃんはこのように誰かの真似をしながら、人間がもつ意図、それを果たすための行動、その結果が織りなす複雑な因果関係を徐々に学んでいくのです。

4歳になると、他人のする実験、介入から得た情報をもとにとても複雑な因果推論ができるようになるとゴプニックは言います。たとえば、前回、ゴプニックとシュルツが行ったスイッチを押すと歯車が回る「歯車おもちゃ」実験では、子どもたちはオモチャの仕組みが分かるまで自分自身でいろいろな介入をしたというのを紹介しましたが、大人がやるのを見るだけでも、その仕組みを学べることができたのです。

 

幼児になるにつれ、乳児とは違い、複雑な模倣ができるようになる姿はよく見ます。そこには乳児からの因果構造を知る活動を行っていくことで、次第にその力が深まっているからできるのでしょう。そして、そのためには多くのモデルを見なければいけません。よく、保育において、兄弟がいる子どもと、一人っ子の製作を比べると、兄弟児の方が割と面白いことをすることが多いのはそれだけモデルを見ているということなのだろうと思います。模倣というの活動は今後の子どもの力を伸ばすにあたって非常に重要な「環境」であるということが見えてきます。

行動から学ぶ

これまで、子どもが行う因果学習を2つ紹介しました。一つ目が観察結果の統計分析といった「観察」です。これはブリケット探知機のケースを見ることで、答えを見つけていました。2つ目は自分で行う「実験」です。これもブリケット探知機を改良した装置を使い、自分自身がいじくったりすることで、物事を深く知ろうという探求心をもとに、因果関係を学んでいくということになります。

 

そして、3つ目は他人のする実験の観察です。これは「観察」や「実験」の中間にあたり、人間にとっては3つのうちで一番重要な学びかもしれないとゴプニックは言っています。他人の行動から学ぶといのは、現在に始まったことではなく、人間の文化形成の基本的メカニズムであると言います。他人のすることを見ているだけでも、先祖代々、蓄積されてきた豊かな知識を得られたのです。つまり、伝承ですね。こういったことがなぜ、人間にとって重要な行動となるのか。それは、実験は何かをやってみて、その結果がどうなるかを見ていくことになりますが、因果構造を知るうえで有効であっても、その反面、多くの労力や資源や、意志を必要とします。これに比べ、観察において、他人がやったことも自分でしたことと同等だと考えれば、他人のする実験や介入の結果からも学べるようになり、学習の範囲が一気に広がるのです。知識が豊富な人の実演を見るだけでも、因果学習には役に立ちます。つまりは「モデル」を持つことで見て学ぶということですね。

 

赤ちゃんも他人の行動から学ぶのは上手です。誰かがする介入は自分と同等だと分かっているかのようだと言います。たとえば、生後7か月の赤ちゃんは、他人の行動には何かしらの目的があることを理解しています。アマンダ・ウッドワードは以前紹介した「馴化」の仕組みを使って実験をしました。

 

まずは、赤ちゃんに2種類のおもちゃを見せます。テーブルの上にボールとクマのぬいぐるみが置いてあります。そこに手が伸びてきて、クマだけを取り去ります。次にボールとクマを逆に置いてみます。すると赤ちゃんは、ボールとクマ、どちらが取られると推測するでしょうか?7か月の赤ちゃんはクマだろうと推測しました。それは実際にクマが取られたといより、ボールが取られたときの方が注視時間が長いことからわかります。つまり、ボールが取られたときの方が意外と思ったいうのです。これの面白いところは伸びてくるのが人の手ではなく、棒であったら、赤ちゃんはこうした予測を立てません。意図をもつのは人間だけだと考えたのです。

 

保育の中でも子どもたちがモデルを見て、新しい行動を獲得する様子はよく見ます。それは赤ちゃんなりに、物事を理解し、その意図まで理解できているから、模倣が行うことができるのですね。

実験と遊び

前回は乳児でも簡単な実験を行っていることを紹介していました。幼児の実験に関してはブリケット探知機のような装置を使って行われる実験がほかにもありまが、そのどれも子どもたちは明確に装置の仕組みを理解し、因果関係を理解していきました。ブリケット探知機のような装置で子どもがあそんでいても、すぐに構造を理解してしまうというのは保育をしていてもよく見る姿です。子どもたちは夢中で調べ、挑戦します。ゴプニックは1歳児を捕まえて、おもちゃを30分遊ばせ、その間にその子がやった「実験」を数えたら、それだけも発達心理学のレポートが書けるはずだと言っています。それほど、子どもたちは日々の遊びの中で実験をたくさんしているというのです。

 

では、なぜ、幼児の探求心はこれほど旺盛なのでしょうか。なぜ、世話をされることが必要な子どもたちが、莫大な労力と時間を「実験」に費やすのでしょうか。「実験」をすることは世話をされることには直結しませんし、逆に自分が危険な目に遭いかねません。現に怪我をする場合も多々あります。ゴプニックはこのことは「幼児期の人間とは因果学習をするマシンなのだ」と考えれば、このことも納得がいくと言います。実験は、知らなかった因果関係を発見し、理解するのに最適な手段なのだからというのです。

 

遊びが学習につながるというのは、よく言われますし、自園でもよく使う言葉です。ブリケット探知機などの研究は、直観的にわかっていたことを科学的に裏付けたものです。空想的遊びが可能性を探求する心を育てるように、探索的遊びは因果学習に役立つのです。このことは早期教育において遊びを排除するという人にとってはこの点をもっと理解してくれるといいのですがとゴプニックは言います。

 

これまでの内容においても、実験を通じて物事を深く知ろうという探求心は生まれつき備わっているもので、私たちはその衝動の下に未知の世界を学習していきます。それは常に新しい情報を習得するプログラムが内蔵されていると言い換えても良いのではないかというのです。幼児のする「実験」も科学者による実験も、それまで知らなかった自然の姿を明らかにするのです。

 

ここに最近、STEM教育などで言われる「科学する力」につながっていくのですね。子どもたちが外的世界に自ら働きかけることは、自分自身の内的世界を育てることにも繋がるのです。そして、その中心となる部分に「主体性」というものが多く関わってきます。子ども自らが世界に働きかけることで、このような「実験」が行われていくのです。大人主導で答えを教えるようなことでは、探求心や好奇心は育たないというのはこういった研究の様子を見ていても明らかです。だから、遊びを活発化させる「環境を作る」ことが重要なのです。そして、乳幼児期においては「指導」ではなく、「支援」が大切であり、重要であると言われる所以なのだと分かります。

赤ちゃんの実験

前回の実験の紹介のように、子どもたちでも統計を基にした因果推論や確率計算を行っていることが研究を通して見えてきました。こういった因果学習のための実験は科学者がするように厳密な実験である必要はなく、乳幼児が遊びながらするような介入でも、十分であることが分かっているようです。

 

では、これまでの幼児ではなく、赤ちゃんはどのような因果学習をしているのでしょうか。赤ちゃんにおいても、自分のしたことがどんな結果を引き起こすかには強い関心を示すようです。たとえば、3ヶ月の赤ちゃんの片足と、頭上のモビールをひもで結び、足を蹴るともビールが動くようにすると、赤ちゃんは夢中で足を動かします。これは赤ちゃんにとって「実験」なのでしょうか。それとも、ただモビールを動かしたいだけなのでしょうか。これを確かめるために、足に結んでいないのに動くモビールを、足に結んであるモビールと同時に見せます。すると、赤ちゃんは、足に結んだモビールの方をよく見て、そちらを見たときによく笑い、はしゃぎます。つまり、赤ちゃんは単に動くモビールを見たいのではなく、どうしたらモビールが動くのか確かめたいのです。そして、「実験」がうまくいくと喜んではしゃぐのだとゴプニックは言います。

 

さらに赤ちゃんは足をいろんな風に動かし、それにつれてモビールがどう動くか調べます。一方の足を蹴ったら、次は反対、次は片腕を振ってみるというように調べます。その間ずっとモビールを観察し続けるのです。また、赤ちゃんをいったんベットから出し、再びベットに戻してあげると、すぐに正しい(モビールのついている)ほうの足を蹴ってモビールが動くことを確認します。この実験によって赤ちゃんが確かめているのは単純な動作が直接引き起こす結果だといいます。

 

これが一歳児近くになると、もっと変化にとんだ実験ができるようになります。赤ちゃんが複雑な実験的遊びもし始めます。例えば、ブロックでテーブルをたたく場合も、同じことを延々と繰り返すのではなく、強弱をつけたり、1回コツンと叩いたら次は揺り動かすなど、変化をつけ、その結果を注意深く観察するのです。また、直後の出来事ばかりではなく、もっと「下流」で起こることにも赤ちゃんは注意を向けると言います。一歳半の子どもにブロックを渡せば、その子はきっと、組み合わせや配置、角度を変えながら、どうすれば塔ができるか、どうすれば同じくらい満足のいく「崩壊」を起こせるか調べ始めるというのです。

 

これらの行動を「実験」として観察するのか、単に遊びとして捉えてみるのかはとても大きな違いであります。しかし、見方を変えてみていくと単純に「赤ちゃん」と言われる子どもの様子の中に、様々な学びが起きていることがわかりまし、高度な予測を起こしているということも見えてきます。私の娘も今、6ヶ月ですが、毎日、「できること」が増えてきて、一日一日の成長発達が著しい時期です。人が複雑な社会の中で生きていく中で必要な力であったり、能力は周囲の環境によって影響されていくというのは非常に強く感じます。その環境を変えていくために、大人は子どもの日々の中で起きている変化に「期待」をしなければいけないのではないかと最近保育を見ていて感じます。そして、その期待ということこそ、今回のゴプニックのように「赤ちゃんはこんなことをしているのではないか」といった検証や実験によって見えてくるものなのではないかと最近感じます。ここでいう検証や実験というのは子どもに対する期待や面白がるところと同じなようにおもいます。