5月2021

大人と子どもの思考の違い

赤ちゃんと大人を比べると様々なことが見えてきます。これまでの外部意識にしても、内部意識にしても、大人とは違いあかちゃんは「今を生きている存在」であるということが見えてきます。一度整理してみると、赤ちゃんは過去の具体的な出来事を、現在の出来事と別に記憶して、その記憶を何カ月も保つことができます。計画を立て、可能世界を創造し、それを現実に変える方法を描くこともできます。しかし、赤ちゃんや幼児は大人のように、自分の人生を過去・現在・未来をつなげるように自伝的記憶として見たり、未来のために今の自分を判断する実行制御(機能)をすることはできません。大人のように過去から未来への時系列として人生は実感していないのです。時と共に移り変わる思考や感情の流れに浸るという感覚もないのです。

 

これはどうやら、乳幼児には、過去と未来に投射される「わたし」がないということがわかります。過去の自分の精神状態を思い起こすこともできません。何があったかは覚えていても、それについて自分がどう思ったか、どう感じたかは忘れています。同じように、すぐ先の未来は思い描けても、遠い未来の想像はできません。未来の自分が何を考え、何を感じるかを予測することができないのです。

 

では、この「わたし」というものが赤ちゃんにはないのかというと、ごく幼い赤ちゃんにも多少の自意識はあるとゴプニックは言います。鏡に写った自分を認識し、他人と区別することはできます。ビデオに写った子どもがだれかということも理解しています。しかし、赤ちゃんの心の中には、大人のような内なる監視人、自伝作家、経営者といった客観的に自分を見る視点というは持ち合わせてはいません。

 

ゴプニックはこのような赤ちゃんの様子を見て、「幼児の意識には大人の意識がもつ要素がすべて含まれているのだ」と言っています。過去の出来事のイメージ、立てた目的の見通し、奇妙な空想やごっこ遊びの反事実、さらに抽象的な概念まで、すべてがそろっているというのです。そして、これらの違い、今感じていることと過去の記憶との違い、空想と未来の目標との違いも区別がついているのですが、時系列としてそれらのことが過去から未来へとつながっているようにまとめられないというのです。

 

これらのことをゴプニックは「大人は外部意識がスポットライトであれば、内部意識は道と言える」と言い、子どもの場合は「注意はランタンの光のように拡散していて、その内部意識はあてどなく放浪しています」と表しています。大人は未来にも過去にも道を敷き、予測したり、振り返ったりしていくなか、子どもはランタンが映し出すものそれぞれに反応し、冒険していくのです。

 

こういった思考の違いを保育者は子どもと関わる際、理解しておくようにしなければいけないかもしれませんね。大人と子どもとでは、そもそもの思考の方法が違うと言えるのです。こういった子どもの発達における理解において、今、そこにある興味のあることに子どもたちは好奇心を寄せます。大人とは違い、好奇心や探求心が強いのは今ある環境を最大限楽しもうとしているからなのかもしれません。それを大人の道的な見方でもって、その考えを子どもに当てはめて求めるのは違うのだろうと思います。

頭の中の会話

幼児は他の子どもが壁を向いて椅子にジッと座った子どもの様子をみて「何もしていないし、何も見ていないから、頭の中も空っぽ」と言いました。しかも、そうなるのは他者だけではなく、自分の心についても何時間でも「空っぽ」になれるというのです。それがどう見ても何か考えているはずのときでもです。他にもたとえば、4歳の子に30秒ごとにベルが鳴るのを聞かせてから、音をぴたりと止めたとします。すると子どもはびっくりします。ところが、「今、何か考えた」と聞くと「ううん、何も」と答えたのです。音が止んでいた間、ベルのことを考えたかと聞いても「考えなかった」と答えたのです。

 

これがもっと年長の子どもになると、大人と同じように、「今、ベルのことを考えた」「なぜ鳴らないんだろう」と思った、「また鳴るのかなと思った」「また鳴るのかなと思った」という答えがかえってきます。ところが幼児は、考える対象がないときは、何も考えていないと信じているのです。これは大人のように途切れることのない意識の流れといった自意識とは大きく異なります。幼児期の子どもたちにとっては、意識というのは途切れているように感じているのです。

 

さらに、絵や文章ならよく理解できる幼児でも、視覚的なイメージや内語は体験していないようです。たとえば、「声に出さずに、頭の中で答えてね。あなたのお家では、どこに歯ブラシがありますか?」と聞くと、大人はたいてい、家の中のイメージと洗面所という言葉を思い浮かべます。ところが、4歳児はそんなイメージも言葉も浮かばないと言います。ですが、これを声に出して答えさせると、歯ブラシは洗面所にあると、正しく答えるのです。

 

大人はこういった質問に対して、頭の中で一度反芻するように言葉や意味を思い浮かべ、判断を考えます。しかし、幼児においては頭の中でしゃべるということができないのです。確かに、幼稚園においても子どもたちに質問するとたいていの子どもが、思ったように質問に答えます。考えて答えたというよりは衝動的に答えているようにさえ思います。そこにはここにあるように頭の中で一度質問は繰り返し考えるというよりは、質問を考え、答えるというシンプルな構造で話しているのかもしれません。

 

ただ、そういった頭の中でしゃべるということができない幼児であっても、頭の中で声が聞こえるイメージだけは持てるということをフラベル夫妻は言っています。また、幼稚園児はその他の点では、思考というものをよく理解しています。何かを決めたり、何かのふりをしたり、問題を解くときには頭が働くのだというのはわかっているのです。人が何かを考えている状態は理解できていますし、、何を行動していなくても頭が働いている場合があることわかっています。しかし、思考は外から誘発されるだけではなく、心の中から沸き起こることもあるということはまだわかっていないのです。

 

これは面白いですね。保育に照らし合わせてみても、思い当たることがたくさんあります。子どもたちが割と衝動的に動くというのはこういった頭の中での会話がないということも大きく関わっているのかもしれません。

内部意識

実行制御(機能)と記憶というのは大きく関わっているということが見えてきました。大人の実行制御を見てみると、自伝的記憶の場合と同じように、意識が大きな役割を果たしているのが分かります。わたしたちは普段、無意識のうちに行動し、計画し、複雑な道を通り抜けます。そして、途中で計画を変更したり、後でしなければならないことのために、今したいことを我慢するときには、行動を決定する「わたし」を意識に必要があります。つまり、何も考えずに障害を避け、角を曲がって家に帰ろうとした「現在のわたし」の意識に対して、それを「制御するわたし」が割り込んで、「今日はあっちへ行かなきゃいけない」と思い出させるのです。

 

意志を貫き、行動を制御するには、強く、時に厳しい意識を持ち続けなければなりません。「制御するわたし」は「愚かで、衝撃的で、惰性に流されやすく、鈍感なわたし」を絶えず見張っていなければいけないのです。内なる制御者は、密接に連携を取り合って、1人三役のように働きます。実行制御するには、過去、現在、未来の自分を統合し、最終決定を下すことが必要になります。

 

よくドラマやアニメなどで、天使と悪魔が頭の上で話している姿の描写があります。これは天使が「制御するわたし」で、悪魔が「鈍感なわたし」ということなのでしょう。実在するわけがないのに、実在しているような気がする。純粋に現象論的に考えると、自伝的記憶と実行制御、監視し、記憶し、判断する「わたし」は、ひとまとまりのもののように見えます。しかし、科学的な心理学では、このような「わたし」が内部意識の本体だとは考えないとゴプニックは言います。

 

自伝的記憶をつくったり実行制御をする能力は、もっと間接的で微妙な仕組みによって、内部意識と一貫した自意識を生み出しているのだと思われます。幼児は自伝的記憶も実行制御も未発達ですから、内部意識や自意識のあり方も大人と違っているのだというのです。では、子どもはどのような内部意識になっているのでしょうか。

 

それを調べたのがフラベル夫妻の研究でした。子どもの外部意識は大人のそれとは相当違っていたのは以前にも紹介しましたが、内部意識においても、大人とは大きく違っていたそうです。大人の意識や思考、感情には流れがあって、記憶は連綿と続いています。ところが5歳の子どもには、この前提が当てはまりません。たとえば、壁にむいて椅子にジッと座っていたエリーを見ている子どもに、こう尋ねます。「エリーは何を考えているのかな?心の中で何か起きているのかな?考えたり、感じたり、思ったりしているのかな?」しかし、5歳の子はどれも否定します。エリーは何もしていないし、何も見ていないから、頭の中も空っぽだというのです。

 

つまり、ボーっとしているというのは何も考えていない空っぽの状態なのだというのです。幼児においては自分の心についてもこれと同じように考えています。大人はよく座禅の中で、「無」になるということを行いますが、これもある意味で「空っぽ」の状態になることの難しさを指しています。特に大人はその邪念であり、考えを消すということは難しいと考えているのです。しかし、子どもは頭の中を何時間も空っぽにしていられる?と聞くと自信満々に「できる」と答えたそうです。どう見ても何か考えているはずのときもこれを疑わないのです。

 

子どもにとって意識の流れとはどうなっているのでしょうか。

未来の記憶

エピソード記憶の実験で、4歳児の子どもは自分の気持ちは「以前とは違うということがある」ということがわかってきたきました。そして、そういったことを理解している子どもたちは、自分の気持ちは今後も気持ちは変わりえるということも理解できるようになります。

 

このことに関して、クリスティーナ・アタンスが行った実験は、まず砂漠に照り付ける太陽、雪に覆われた山頂など、いろいろな風景の写真を子どもに見せてから、「明日ここに遠足に行くとしたら、何を持っていけばいい?」と聞き、サングラス、貝殻、防寒着、氷の中から持ち物を選ばせました。続いて、「なぜ、これを選んだの?」と聞くと、4歳、5歳の子は、先の危険を予測して、それを防げそうなものを選んでいることが分かりました。(砂漠にはサングラス、雪山には防寒着)また、その理由も「目が痛くならないように」とか「風邪をひかないように」など、未来の適切な予測に基づくものでした。ところが、3歳児ではこうした適切な答えがずっと少なく、サングラスも貝殻も、砂漠に必要だと考える傾向があったのです。

 

乳幼児の現在の願望を未来のために抑制する「実行制御」の能力が育つのは、自伝的記憶が作れるようになるのとほぼ同時期です。子どもが自分の心に働きかけられるようになるのは、3歳から5歳にかけてです。目の前のクッキーを我慢するマシュマロ実験のようなものでは、子どもたちは歌を歌ったり、口笛を吹いたり、目をつぶったりして、誘惑から逃れようとするのは、未来に自分を投射しているからではないか、未来の自分を予測ができるから待とうと自分を成業できるのではないかというのです。

 

これより幼い赤ちゃんも、別の世界を思い描き、その実現に向けて働きかけをすることはあります。ですが、実行制御をするためには、別の自分を思い描く能力も求められます。そのして現在の願望と未来の願望が食い違うとき、その能力が使われます。また、その時には、現在の感情と未来の感情の因果関係も分かっていなければいけません。たとえば、「今はサングラスはいらない。でも明日砂漠に行ったらほしくなるのでは?」とか「今は一枚でいいからクッキーが食べたい。でもこれを食べてしまうと、あとで2枚のクッキーをもらえない。そうなったらいやだな・・」といったように現在の感情だけでなく、今こうしたら未来の自分はどう感じるだろうと考え、必要なら自分の心を抑制するというのが実行制御です。

 

実行制御(機能)においても「記憶」というものは大きく関わっているのですね。確かに自分のことを客観的に見ることや、先の自分の気持ちを予測できていないと実行機能のいわゆる「目標を達成するために自分の気持ちをコントロールする」ということにつながりません。そのためには「目標」を見通しておかなければいけませんし、その時の自分の感情も予測できていなければいけません。よく実行機能においては、様々な「体験」を通すことが必要と言われます。ということは、子どもにとって体験というもの自体が記憶や因果関係を得ることにいかに大きな影響を与えるのかということが見えてきます。つまり、主体的に関わることがその後の学習にも大きくつながるということの根拠ともいえることが見えてきます。

記憶の因果関係②

乳幼児がどのようにして現在の自分が過去や未来の自分と関係するのかを調べた実験の中で、ダニー・ポヴェネリが行った研究は幼児の成長記録をビデオで納めたものを使ったものでした。この実験では、子どもと一緒に遊ぶ大人が、1歳半の赤ちゃんの鏡の実験のように、こっそりとその子のおでこにシールを貼り、その後すぐにこの様子を映したビデオをその子どもに見せるというものでした。

 

すると、5歳の子は、ビデオに写ったシールに驚き、あわてて自分のおでこを触り、シールがないか確かめます。ビデオに写った過去の自分と自分の現在を同じ一つのものとして認識できているからです。ところが3歳児は同じように撮影したビデオを見ても平気です。鏡の中の自分は認識できますが、ビデオに写った過去の自分と現在の自分とがひとつながりの自分として認識できていないのです。しかし、過去の自分のおでこにシールがついていることには気づきます。ところが、そのことが現在の自分にもつながっているということには結びつかないようなのです。5分前に貼られたばかりのシールが、今もおでこについているという可能性に至らないのです。

 

また、年齢による違いがさらに極まっていたのが、3歳児がビデオの中の子どもを自分の名前で呼ぶのに対し、4歳児は「僕」など一人称を使ったのです。たとえば、3歳児のジョニーは「あれ、ジョニーのおでこにシールがついているよ」というばかりで、自分のおでこを触ろうとはしません。一方、4歳児は「あれ、僕のおでこにシールがついている」というなり、おでこのシールをはがそうとしました。3歳児は、ビデオの中の子が少し前の自分だと分かるのに、それを今の自分につなげるということができなかったのです。

 

これらの実験から心理学者の多くは、赤ちゃんや幼稚園児には年長の子や大人のようなエピソード記憶がないと考えました。しかし、これまでの実験をもとに考えると、乳幼児は自伝的記憶はなくても、エピソード記憶はあるということは分かります。手がかりを与えれば過去の出来事を思い出すといったように、過去の出来事を詳細に記憶しています。ただ、それを時系列に並べれないだけです。そして、なぜそれを知ったのか、知った時どう思ったのかを思い出すことができません。直接知った出来事を間接的に知った出来事より重視するということもありません。

 

これをゴプニックは「乳幼児期の心の中には、過去と現在の心をつなぐ『内なる自伝作家』、ただ一つの自我がない」と言います。ついさっきまで、箱には鉛筆が入っていると思っていた「僕」、お腹いっぱいになる前はクラッカーを欲しがった「僕」。ビデオに撮られたときおでこにシールを付けていた「わたし」を実感できていないというのです。

 

ビデオの様子は日本ではどういった表現になるのか少し気になりますが、これまでの実験を通しても、赤ちゃんから乳幼児期においては、過去に自分が体験した記憶といったものは赤ちゃんでもあるということが分かります。しかし、まだ「自我」というものが成立していないことから、記憶における「自分」というものが確立されていなかったり、自分が相手とは違う観念を持っていないという「誤信念」といった考え方がまだ出てきてしまうのだろうと思います。まだまだ、こういった記憶においては、解釈が難しいですね。自分自身ももう少し整理してみていかなければいけないと思います。