2月2021

「遊び」をするために

保育において、何が重要視されるべきなのでしょうか。よく「遊びが重要」と言われますが、それは自由遊びのことを言っているのでしょうか。人によっては制作活動まで遊びと捉える人がいます。保育の本質はどういったところにあるのかを考えていくと、その大人が設定する活動と子ども主体の活動とは区別されます。実際、自園においても、保護者からもっと大人が子供に教える活動を増やしてほしいと言われることがあります。このことはいつも疑問に思います。「遊びの重要性」を話しながらも、画一的な「お勉強スタイル」の活動を求められ、とても矛盾を感じます。それは保護者にとっても、保育者も教育や保育というもののスタイルが学校からきているからなのかもしれません。結果、保育所や幼稚園などでの多くの「遊び」が「○○はこうやって遊ぶ」というような遊びのようにはパターン化やマニュアル化されることが多くあります。しかし、子どもたちを見ていると必ずしも、このパターンにはまった遊びをするのかというとそうではありません。

 

こういったことについて小西氏は砂場を例に挙げて、保育者がパターン化やマニュアル化することを防がなければいけないと言っています。そして、大人が思い描いた遊びに対して、「その面白さが伝わらない可能性があるということも知っておくべき」と言ってます。

 

小西氏は「砂場遊びは、造形と破壊の楽しさ、仲間と遊ぶ楽しさを与えてくれる大切な遊びです。昔は雨が降ると、家の周りが泥でぬかるみ、子どもたちは服を汚しながら泥だらけになって遊んだ」と話しています。そして、「道が完璧に舗装され、緑が大切だからと植樹する時代の子どもたちに『ほら、砂場に水を入れて泥遊びをすると楽しいでしょう。これが自然だよ』といっても、子どもの目には『不自然で気持ちが悪いもの』と映るかもしれないのです。」と言っています。これは砂場遊びだけに限らず、保育所の設定保育や行事についても、設定当初の目的が形骸化してしまうことがあるのです。そのため、保育者は「どうすれば、子どもたちが私の設定した遊びや行事に飛びつくのか」と腐心します。しかし、それは「指導者が管理する遊び」だと小西氏は言います。そのため、見方を変える必要があります。

 

つまり、砂場の遊びのねらいが、「造形と破壊の面白さ」「仲間と遊ぶ楽しさ」なら、遊びのかたちが変化するかもしれませんし、他の遊びを発見するかもしれないのです。何より大切なのが「指導者がしてほしい遊び」ではなく「その遊びを通じて子どもたちに何をまなんでほしいか」を考えることではないでしょうかと小西氏は言っています。

 

私も全くその通りだと思います。大切なのは「活動をすること」や「その成果」ではなく、活動をしたことで「学んだこと」や「その過程」であると思っています。いつの間にか「手段」が「目的」になっているのではないかと思うのです。一体何のために行っているのか、ただ、「今までそうだったから」の繰り返しでは、子どもにとっては意味のないものになってしまいます。子どもたちは時代によっても変わりますし、どの時代であろうと、子どもは十人十色です。それを理解して、それぞれにあった環境を保障することが何よりも重要なのだろうと考えています。だから、保育所保育指針や保育教育要領には「指導」についてよりも「環境を通して」の内容の方が重視されているのでしょうね。

保育所と地域

小西氏は日本の保育所における重要性を話しています。しかし、そこで日本の保育所において今一度考えなければいけないことがあるのではないかと話しています。もともと保育所は日本が貧しかったことで子どもを預ける場所、いわゆる「保育に欠ける」子どもが対象で始まりました。しかし、高度経済成長を経て、成熟社会になった今では、本来の「保育に欠ける」子どもは少なくなり、その代わりに、就労を希望する親の増加や、親と一緒に保育に関わってくれる場としての役割が強くなってきました。

 

小西氏は日本における保育所のあり方は未だ、働くお母さんのものであると言っており、「同年齢の子どもと一緒に遊ぶ楽しさを味わわせ、社会のルールを身につけさせたい」ということや「手のかかる兄弟がいるので少し預かってほしい」といった多様化する親の願いを充足させるものではないと言っています。そして、待機児解消の政策も、どれほど子どもに必要な「保育」というものが議論がされたのか、されないまま一部の人のものとして利用されているのが現状だと言っています。

 

確かに、待機児の政策はそういった「保育」とは別の部分で箱だけが作られ、保育の質が保たれていないのではないかという議論が常々起きています。また、最近では乳児を受け入れる小規模園が増えている分、幼児の受け入れ先に困ったり、少子化が進んでいる地域においては、乳児を受け入れる園は作ってあっても、肝心の子どもがいなく、定員割れしている保育園もあるほどです。作ったはいいが、その後のことを考えていないことが結果として出てきてしまい、つぶれる園が今の時代は出てきています。大切なことは箱を作り、親が預けやすい環境を作ることだけではなく、そこで過ごす子どものための場でなければならず、親の就労に関わらず、保育所を地域の保育の場として提供し、親にとって育児がしやすい環境を作るのであれば、一度「保育に欠ける」という概念を取っ払い、地域と保育所が一体となって、子育て支援を行う必要があるのではないかと小西氏は言っています。

 

今後求められる保育所の役割は、一つは「保育所が長年培ってきた専門的知識や実践技術を親に提供し、地域の子育てを豊かなものにすること」とし、「地域全体の保育化」が求められ、もう一つの役割は「開かれた保育所」だと言います。それは「主に行事や保育所整備について、乳幼児とその親に参加・利用してもらうことで、保育所そのものが地域の一部を担う」ということです。小西氏はこの「保育所の地域化」には、「地域の人々を子育ての『傍観者』にしないという大切な役割がある」と言っています。そして、「親の要望の高まりに合わせて保育の質の向上」も求められると言っています。

 

このことから踏まえても、保育所やこども園の必要とされる役割というのは非常に大きいものであるということがわかります。未だ、乳幼児施設で働く人は楽でいいよねと言われます。単純にいいように思われないようにしようとするにはどうしたらいいのか、それはもちろん外に向かって発信をしていくことが大切で、こうやって保護者・地域とのつながりを通して、地域に根差した保育や幼稚園が増えてくると、また、様々なところにお金がかかって暮らすでしょうね。

育児と社会と教育と

これまでの小西氏の説をまとめてみても、「母親ががんばる育児」というものは社会的な状況から見ても限界にきているのではないかと小西氏は言っています。その理由は「子どもの欲求が分からない、出産前の育児経験が不足している親の問題」「『てがかかる』といった子どもの場合」「家族の協力が得られない、近所に話し相手は相談相手がいないといった、親の置かれている状況」にあるとこれまでの話にありました。特に今の時代のように女性の社会進出が言われているにもかかわらず、「三歳児神話」をベースとした「育児は親(母親)」といった考えを含むと、女性により多くの努力を求めることや責任を負わせることになり、結果として、育児がつらいものや我慢を強いられることになります。

 

小西は子育てと社会についてこう言っています。「子育てを社会との断絶と捉える方がいます。確かに『会社で働くこと』だけを社会参加と考えれば、育児中のお母さんは社会と断絶していることになります。」「育児」や「出産」といったものが最近ではあまりポジティブに言われていないことが大きな問題なように思います。「○○さんの仕事上の穴をどう埋める」とか「出産すると仕事にもどってこれなくなる」といった仕事と育児とだけが考えられています。しかし、育児というのは仕事との関係だけではなく、「社会全体」で考えなければいけないのでしょう。

 

日本の少子化は止まることがないのではないかというほど落ち込んでいます。増やしていく方策として、会社に育児休暇や産休を求めたり、週3日制にしようという話まで最近では出てきています。しかし、それも含めて「社会」において、「育児」というものが昔以上に認められ、支えらえられていることを感じないことにも大きな問題があるのでしょう。やはり「社会=会社、職場」といったイメージはありますし、「社会」というものをどういったものとして捉えているのかで大きく変わってくるように思います。

 

このことは保育や教育においても同様に感じるところであります。どういった保育が必要なのか、どういった教育が必要なのかということを考えることにおいて、「教育と社会」が切り離されているように感じるのです。「社会」に必要な資質を備えた人材をつくることが教育や保育の原点であるにも関わらず、現状は学歴や成績を求めることが未だ、教育の中ではスタンダードであり、「どれだけ学んだか」がクローズアップされ、「どう学んだか」は注目されていなかったり、その意図の部分にフォーカスが当てられることは少ない。何をまなんだかよりも、どう学んだことを活かすのかが見えてこないから、勉強に意欲が出てこないのだろうと思います。これは以前のシュライヒャー氏の話でもありました。「構造的」と話していましたが、「何のために」ということが置き去りにされている世の中を変えていかなければ、これからの社会はより良いものにはなっていかないように思います。

 

そのための整備であったり、教育や保育での援助であったりが、これからの社会ではより大きな意味を持ってくるものになるのだろうと思います。

虐待と育児不安

小西氏は「児童虐待」にも言及しています。虐待とは身体的な暴行を加える身体的虐待、食事などを与えないなど、子どもの成長に必要で適切な養育を与えないネグレクト、性的行為を強要される性的虐待、子どもを無視することや拒否するといった心理的虐待のことをいいます。これらの虐待の程度は様々でありますし、いくつかの形態が重なっていることも多いです。そして、こういった虐待は親の孤立が招く最悪のケースだと小西氏は言っています。つまり、子どもへの虐待行為に及ぶ親は、次第に周囲との関係が希薄になり、閉鎖的になり、やがて関わりを断つようになります。そういった親の環境が児童虐待につながるのではないかというのです。

 

『新・保育士養成講座/養護原理』には「虐待を受けた期間や程度は重なっても、そもそも虐待体験自体が子どもの成長にとって破壊的なダメージを与えるものであり、子どもに対する心理的・発達的影響は計りしれない。虐待環境から逃れられても、その体験は子どもの心の中に依然として存在し続け、子どもを痛め続ける。虐待体験の影響は時間がたてば自然と消えるというものではなく、適切な治療的援助が与えられなければ、大人になっても様々な行動・対人関係上の問題を引き起こし続けることになる」とあります。小西氏はこの言葉ともう一つ、「乳幼児への暴行は脳に直接損傷を与える行為である」ということを付け加えたいと思っているといっています。これは直接的に暴行などで脳に損傷を負わすというだけではなく、虐待によって子どもが受ける衝撃やストレスが精神的に不安定にし、減食などによって脳の発達を阻害するということも含まれているのです。虐待は「トラウマ」を生むといった心の傷がよく言われますが、脳のさまざまな損傷についても、研究がされており、乳幼児の記憶に限らず、子どもん発達に多大な影響をあたえることが言われています。

 

このように児童虐待は社会問題としてもかなり大きな問題になっていますし、CMでも「見て見ぬふりはやめよう」といったことが叫ばれています。そのため、虐待件数や相談件数は増加を見せ、行政はアンケート調査や家庭訪問を実施し、虐待撲滅を行っています。しかし、小西氏はこういった行政の虐待撲滅の活動や「リスク因子の高い親」を探しあて、親を追い詰めたところで解決できないのではなかと言っています。

 

これに関しては、私も同意見です。こういった周囲の環境による「追い詰める」環境がより虐待を助長しているのではないかとすら感じます。このことについて小西氏は「虐待は相談相手がいない。周囲から十分な理解が得られないなど、『実際に体験してみなければ、けっしてわからない世界』とまで言われる育児の状況を作り出している社会全体のあり方が関係している」と言っています。私の周りでも、決して虐待はしていないのですが、通報されたという現象は起こっています。

 

社会は豊かになって、便利な世の中になっていますが、地域の交流や人との関わりは希薄になってきています。虐待においても、早期発見や早期処理が行われているわけではなく、調査と監視が強化徹底されています。地域で支えていくものではなくなっており、結果として、責任は親に向かい、親は安心して育児が出来なくなっている環境になっているのです。

 

社会全体で今日の育児不安や不満の解消につながることを行っていかなければいけないのではないかと小西氏は言っています。

乳幼児期の保育において、必ずと言ってもいいほど取り上げられる言葉が「三歳児神話」です。育児において、3歳までの母子との養育が将来重要な影響を子どもに及ぼすという考えです。この考えが日本は割と根深くあり、3歳までは家庭での保育が重要であるということが社会的に見ても強くあるように思います。この考えが、働いている保護者からしたら、子どもを預ける申し訳なさにつながることもあり、いくら女性の就労意識が高まったことによって保育所整備に目が向けられようと、乳児を保育施設に預けることに罪悪感を持たさせる要因にもつながっているのではないかと思います。

 

この「三歳児神話」ですが、そもそももとになったのは、ジョン・ボウルヴィという医師が行った「子どもの福祉」という調査が基になっています。彼は、戦争で親を亡くした子どもたちの発達状況を、福祉関係者や戦争孤児への聞き取りから『乳幼児の精神衛生』という一冊の本にまとめました。小西氏が言うには『乳幼児の精神衛生』には、「母性的養育の喪失による病理的不安定な子どもの創出」が明記されていると言っています。つまり、幼いころに母性的な養育を十分に受けられなかった子どもは、病的な発達を示し、それは障害にわたって影響するというものです。これが後の「三歳児神話」へと発展し、欧米をはじめ先進諸国に幼児期の母性の重要性が広まる契機となったと小西氏は言っています。

 

しかし、この話は最近覆ることになってきました。というのも、小西氏が言うには「最近のアメリカで行われたある調査では、保育士などの第三者による保育によって母子関係が改善されるなど、母親の育児が不可欠であるとはいえないことが判明した。」と言っています。つまり、今となっては乳幼児期の子どもの発達に母親の愛着がかかせないというのは必ずしも当てはまらないというのです。このことに関してはボウルヴィ自身も3歳児神話については慎重な考えを示しています。しかし、まだまだこういったことを信じている人は割と多いかもしれません。

 

また、少年犯罪に代表される青少年の問題では養育費の養育態度が問われます。小西氏は「三歳児神話の弊害は『親の愛情をことさら強調したこと』そして、『子育てを女性だけのものにしてしまったこと』」にあると思っていると言っています。このことは私も同感です。これまでの時代の中で、母親が母親だけで育てていた時代はまだまだ最近の話です。しかし、いつの間にかそのことが独り歩きし始め結果として、「保護者の孤立(特に母親)の孤立」を深め、保育を一人で抱え込まなければいけない現状にしてしまっていると小西氏は言うのです。私もこの要因には納得です。昔は「乳母」と呼ばれる、子どもを受け持つ人がいたのです。社会においても、地域的に子どもを見ていこうとかえって危ないという言葉も聞いています。

 

しかし、「だから良い」という保護者の在り方を問うているのではなく、こういった環境を残していくのかということをより日本文化を伝送することにつながるのかもしれないですね。とはいえ、今いる市の人間からすると「勘弁してほしい」と思うほど感じる。