過去から学ぶもの

学制が1972年に日本に導入される以前は寺子屋や藩校といった庶民の中で学ぶことがあり、庶民の生活の中で教育というものが行われていました。民俗学者の柳田国男は前近代の教育つまり、学制が行われる前の教育について「一人前になる教育」といって再評価をしていました。柳田国男は「前近代では家や村や地域共同体には、1人の人間の誕生から人生の終焉を迎えるまで、さまざまな行事や祭りを通して「学び」を経験する「場」が存在した。子どもは家の子どもであるばかりではなく、村の子どもでもあった。遊びや労働など生活を通して人は絶え間なく学んでいた。」といっており、「近代の学校教育は「学び」を「教え」に変換し、教育を学校に閉じ込めてしまった」と言っています。

 

確かに「学校」というものが始まるまで、人が学ぶというのは村や家庭、いわゆる伝承といった形で教えられることが多かったのではないでしょうか。つまり、「家を継ぐ」という概念も強くあったでしょうし、地域のつながりというのは今の時代よりももっと濃密であり、生活そのものが学ぶ場であったのです。

 

そして、そういった生活の中にある学びの場と共に変化していったものは「教育が金銭で売買される」ということです。今の時代、「学校に通う」ために金銭のやりとりがあるのは当たり前になっています。しかし、人間の心と魂が金銭で売買できないのと同様、心と魂を研くことによって人格を形成する学問や教育も、決して金銭と等価に扱うことができないと人々が信じて疑わなかった時代もあったと沖田は「日本国民をつくった教育」の中で言っています。つまり、「学校の存在しなかった時代には、人生を生き抜くためのさまざまな学びの形態があった。」というのです。そして、こういった時代の豊かな教育を振り返ることによって、新しい教育のイメージを書き出すことができるかもしれないと言っています。

 

これは最近私も同様に思うことです。なので、今回、この沖田行司氏の本を通して、ブログを書くことにしたのですが、教育基本法には「人格の形成」ということが書かれていますし、乳幼児教育においても「人格形成の基礎」という文字が書かれています。教育や保育というものは本来そういったことが求められているのです。しかし、いつの間にか、そういった「生きる力の基礎」となるものから、成績や評価といったものに教育の主体かが変わってきているのではないかと感じることが多くなりました。それ自体、社会において必要なものである一方で、知識偏重になってしまうというのもどうなのかと思うのです。

 

柳田国男氏の話の中にあった「生活の中にある学びの場」というものが少なくなってきている昨今で、教育現場というものはそういった元々は地域や村にあった「子ども同士の関わり」や「遊び」というものを提供する場も考えていかなければいけないのではないかと思うのです。そこで、過去の教育現場がどうであったのか、今よりももっと「主体的」な環境で勉強していたのではないかと思います。過去の教育に目を向けることで、今の教育でもう少し意識しなければいけない部分も見えてくるように思います。