3月2022

コンピテンシーの概念

マクレランドは国務省職員の選好基準から伝統的な認知スキルという枠組みには収まりきることのない能力があり、新しい能力類型についての認識からコンピテンシーに関する本格的な議論を始めていきました。そして、協同研究者でもあるスペンサー夫妻と共にコンピテンシーのより詳細な定義づけを行っていきました。

 

そこにはコンピテンシーについて「ある職務または状況に対し、基準に照らして効果的、あるいは卓越した業績を生む原因として関わっている個人の根源的特性」とされていた。具体的には ・動因(ある個人が行動を起こす際に常に顧慮≪気遣い、考慮≫し、願望する様々な要因) ・特性(身体的特徴あるいは様々な状況や情報に対する一貫した反応) ・自己イメージ(個人の態度、価値観、自我像) ・知識(特定の内容領域について個人が保持する情報) ・スキル(身体的、心理的タスクを遂行する能力) から構成される複合的なものとして位置付けられました。ここで挙げられる能力は確かに職務であったり、何か目的があって動いたりするにあたって、物事を遂行するために必要な能力であることが分かります。また、これらの内容は自分を省みることや省みたうえで効果的な選択肢を取ることができる能力としても必要なものであるとも言えます。

 

しかし、このコンピテンシーの定義は論者によって異なるという危険性が指摘されています。というのも、このコンピテンシーがスキル(技能)やリテラシー(読み書きの能力)、クオリフィケーション(資格・能力)と区別なく用いられるといった状況があり、その中でもとりわけスキルについてはコンピテンシーと同義的に用いられる場合も見られるそうです。しかし、これはコンピテンシーの構成要素としての「知識」が含まれないという理解につながるという危険性もあるということが指摘されています。

 

確かにこの分類の理解というのは難しいですね。知識に対しても、スキルにしてもコンピテンシーは構成要素を考えていくとそれぞれのではなく、統合された内容のものでといえるのです。しかし、文脈としては「コンピテンシーというスキル」というような言い方を私も言っていました。このことの定義は未だ、まだまだ議論しているようです。それゆえに、このコンピテンシーの概念を整理する必要が出てきました。それがDoSeCo(Definition and Selections of Competencies :コンピテンシーの定義と選択)というプロジェクトです。このプロジェクトにおいて、上記のようなコンピテンシーの概念の様々な解釈や定義を整理することが行われていきました。

コンピテンシーとは

2018年、幼児教育の改善・充実を目的として、「保育所保育指針」「幼稚園教育要領」「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」が改訂されてきた。その中で、幼児期に育みたい能力・資質を3つに分け「知識および技能の基礎」「思考力・判断力・表現力等の基礎」「学びに向かう人間性等」としました。これらの分類を保育園・幼稚園・こども園・小学校を超えて共有し、生涯にわたる生きる力の基礎を培うことを目指すということが2018年に言われるようになったのですが、これにはもちろんそうなるためのプロセスがあります。それがOECDの「Education2030」です。そこでコンピテンシーという概念が議論されました。

 

このコンピテンシーですが、もとは「Competent」という形容詞で「有能な」や「能力のある」という状態を表す言葉が由来となります。そこから、アメリカの心理学者マクレランドの研究を通して「Competency」という言葉が用いられるようになりました。マクレランドの研究はそもそもアメリカの国務省職員の選好基準についての検討を依頼されたことによります。それまで国務省では一般教養や政治学・行政学といった専門分野を中心とした筆記試験を行っていましたが、そのテストの結果とその後の職務上の成功とが一致しなかったのです。その原因をマクレランドは研究しました。すると、優れた職員に共通する特徴が見えてきました。

 

それは①「異文化対応の対人感受性」(異なる文化の人が発言し、意味することの真意を聞き取ったり、彼らの行動を予測する能力) ②「ほかの人たちに前向きの期待を抱く」(対立している人を含めて、またストレスがある場合であっても、他者の基本的な尊厳と価値を認める強い信念を保ち続ける能力) ③「政治的ネットワークを素早く学ぶ」(人間関係における相互の影響力や、それぞれの政治的立場を素早く理解する能力)が挙げられたのです。これらの能力は伝統的認知スキルという枠組みでは収まりきらない能力であり、こうした新しい能力分類型についての認識が、コンピテンシーに関する本格的な議論のはじまりとなったのです。

 

これは今の学歴や受験といったものが重視される日本の教育においても、課題となる内容であるように思います。受験や学歴では認知スキルを測るものが多いです。果たして学歴や成績が良いからといって社会で活躍できるのでしょうか。確かに、学業における成功ということはあると思います。しかし、ここでいう学歴や成績といったものはあくまで人生を生きるためのツールでしかないようにも考えられます。成績がいいから、学歴が高いからと言って幸せになるとは限りませんし、活躍が確約されるというものでもありません。問題はそこで学んだことや得た知識を「どう使うか」ということが重要になってくるのだろうと思います。そう思うとアメリカの国務省で活躍している職員が上記の4つの特徴を見ると、知識・技能ではなく、この「どう使うか」という部分におけるスキルが高いということが分かります。

自省

今日、自園の関係者評価というものが行われた。これは年度の終わりに幼稚園からお願いした関係者評価者の方に自園の自己評価と来年度の目的とを議論し、考えてもらうような場であり、第三者から見たアドバイスをもらう場でもあったりします。

 

今回、私の園での課題となっていたのは職員間の風通しや議論の場をどう作っていくかということが課題として挙がっていました。このことについて、私自身一つの答えがあったのです。これはこれまでのドラッカーや吉田松陰の話でもあったように「マネジメント」というものの課題がかなり大きく作用するということです。

 

このマネジメントというのは私の中でもかなり悩まされるものです。職員間の情報共有がうまくいっていなかったり、目的意識がうまくいっていないことに対して、これまでは「先生たちがなぜできないのか」と思うことがたびたびありました。しかし、そうなっている環境を作っているのはほかでもない自分自身のスタンスによるものだということに最近気づいたのです。

 

その際たるものが「先生。園としてはどう考えますか?」という質問です。この言葉が出てくるというのはよく考えなければいけません。「園としてどう考える」ということを聞かれるというは一見、園の事をよく考えて発言しなければいけないということを確認しているように見えますが、この言葉の裏には自分で考えるのではなく、聞いてる人に決めてもらおうとする意図が見えるのです。このことはよく考えなければいけません。つまりは、現場にいる自分たちの決断で物事を進めるだけの「余白」がないということです。この言葉の裏には指示する側のベクトルが強くあるがゆえに、「自分たちではコントロールできないから、もう初めから聞いておこう」というニュアンスが隠れているのです。そこに先生たちの主体性というものは確保されていないのです。

 

こういった環境下では、部下は自ら育とうとする力を発揮することはできません。もし、自ら能力を発揮していこうとする現場を作っていこうと思うのであれば、部下の動けるだけの「余白」を残すことを考えなければいけないのです。それはたとえば、アドバイスを聞きに来た時に関しても、すべてを答えるのではなく、考える方針を伝えることであったり、部下の話をよく聞き、考えを整理していくということが重要になってくるのでしょう。これは吉田松陰の松下村塾での関係性にも通じるところです。

 

このように考えるとマネジメントというのは割と、できることはそう多くはないのかもしれません。しかし、その場の雰囲気をコントロールすることやファシリテーションをする意味では非常に難しく、間接的に関わるからこその難しさは大いにあるのだろうと思います。今回の関係者評価は園の課題が浮き彫りになっていく半面、自分自身の未熟さを痛感するとともに、自らの改善点が浮き彫りになったいい機会になりました。

ファシリテーション

最近、マネジメントに対して悩むことが多くあります。特に職員に対して、どうあるべきなのか、以前ここでも紹介した吉田松陰の松下村塾の塾生のように自分たちで議論をし、意識を高く持つような集団をつくるにはどうしたらいいのかと思うことがたびたびあります。以前の話の中でも、松陰の的確なやりとりには自分自身感じることが沢山ありました。

そんな中、最近よく聞くワードに「ファシリテーター」という言葉をたびたび聞きます。ファシリテーターとは「促進」を意味する言葉であり、会議などの進行を司る役割もこれに含まれます。つまりは、様々な会議や研修などにおいて参加者の発言を促したり流れをまとめる人のことを指します。このファシリテーションについて、新宿せいがこども園の藤森先生のブログ「臥龍塾」で「ファシリテーター」についてこんなことが書かれていました。

『子どもの参画を助けるファシリテーターが備えているべき資質は、教師や子どもとともに活動するための訓練を受けてきた人の多くが従来持っている資質と同じでないことは明らかだとハート氏は言います。ファシリテーターは、知識を伝える人として働くのではなく、子どもが自分たちで活動できるよう舞台を整え、そのことによって子どもたちを助ける人っだというのです。これはファシリテーターが、自分の知識や技術を隠すべきであるという意味ではないといいます。子どもたちが自分自身で問題を発見し、その答えを見つけ出すようにするためにこそ、ファシリテーターは知識や技術を使うべきなのだろうというのです。ファシリテーターは子どもと同じレベルにあるのではなく、いろいろなリソース〔材料、人材、資金、参考資料など〕があることを知らせて、子どもたちを助ける人だというのです』と書かれてありました。

つまりは、従来の教科を教えたり、子どもに知識や技術を伝えたりするということではなく、子どもたちが自ら活動する場所を整え、援助する人であるということを意味しているのです。そして、子どもたちが自分で問題を発見し、その答えを見つけるようにするために知識や技術を使う必要があるのです。これは子どもに対するファシリテーションであるのですが、私はこのような距離感を持つことは大人においても必要なことであり、組織における部下との関係性においても同様のことが言えるのではないかと思うのです。

「伝えなければいけない」ことの「伝えかた」というものは非常に難しいと思うことがよくあります。「伝えなければ伝わらない」ですし、「注意を伝えると、モチベーションがさがってしまうこともあります」そのため、いささか集団において、モチベーションを下げず、当事者意識をもって、職員が主体性をもって自ら進めていくことが出来る場をどうやったら作ることができるのかと考えることがたびたびありました。その実現を考えると管理者がやらなければいけないのは「ファシリテーション」をする役割になることになるのだろうと思うのです。ただ、「援助」という距離感が意外と難しい。相手に責任を持たせることや、自分で考えさせるためには、自分たちでコントロールできているという状況を作らなければいけません。そういったどこで出て、どこは任せなければいけなのかという行動における取捨選択が求められるのであろうと思います。そして、そのためにはどういった職場を作ることが理想なのかという大局を見たビジョンを持つことが必要なのでしょうね。なかなか、そこに域に至るほどの器を持つのは難しいものです。

保護者の言動

今年度もあっという間に終わりに近づいてきています。

そんな中、来年度に向けて幼児クラスの保育を変えていっているのですが、なかなかこのコロナ禍という状況の中で、保護者に理解してもらうのは難しく連日保護者からの意見を頂戴する毎日です。

 

これに対して、園がそれらの意見を苦情と取るか、提案や意見と取るかでモチベーションは大きく変わってきてくるのだろうと常々感じています。そんなことを思っているときに、保護者から「久しぶりに来る子どもが不安がって泣いてしまう」「園のことを話すが、分からないということが多い」「先生が子どもに対して少ない」「密ではないか」といった意見がたびたび出てきました。こういった意見は現状起きている問題であるのはもちろんのことで、この問題に対して対応していかなければいけないません。しかし、こういった言葉の裏には様々な感情が隠れているということがふと見えてきます。今回の問題のすべてに共通するのは変化に対する「不安」でした。こういったコロナ禍の時期で保育を変えることがなかなかに受け入れがたく、保護者は自粛に協力しているだけに自粛のストレスといったものも含めてここにてこういった不満をもった意見が出てきているのだろうと思います。

 

園はこういった不安を受けとめて、次の改善を通して、保護者との良好な関係を作っていかなければいけません。そのため、保護者の意見というものはやはり苦情ではなく、意見として捉え、「この意見から何の不安を感じているのか」を感じとらなければいけません。そして、その根本にある感情がなにを物語っているのかを、保護者の様子を見て、一つの指標として捉える必要があります。そして、こういった意見から現状の保護者と幼稚園との関係性を見ていきます。

 

一つ深い目線で保護者の意見を聞き入れると、その受け答えは変わってきます。単純な問題を改善するのではなく、その真意を聞き出すことで、たとえば、職員に対する不満、園の方針に対する不満、コロナに対する不満といったように必ず、その根本となる問題になってきます。そのため、短期的な今ある問題と長期的な文化や風土といった問題などの両面から問題を解結する必要が見えてくるのです。そして、短期的なものは現場レベルの問題、長期的な問題がマネジメントやコーチングといったものの課題であることが多いように思います。