支援の在り方

先日、大学院の授業の中で、小学校の学級についての話が出ました。現在、私のいる園でも療育を必要とする子どもがいます。そして、その子どもたちは3歳児検診や5歳児検診といった検診を行う中で発達の遅れが見えてきたりします。もちろん、普段の保育の中で、手がかかることや他の子どもと比べて生活の様子が違うことから、検査に行ってもらうこともあります。こういった子どもたちが小学校に行った時に入る学級が支援学級であったりします。

最近では、その支援学級にかかる子どもたちが増えているという問題があるようなのです。実際小学校での支援学級というものがどういったものなのか私は詳しくは知らないのですが、日本における支援というもののあり方が変わっていく必要があることを感じました。支援に今後課題がある理由が、一つは支援が必要な子どもが増えたということ、もう一つがそれに伴って、先生の手が足りないという事でした。いくら支援をしたくても、子どもに対して手が足りないのです。様々な取り組みは行われている中で、この課題は非常に大きな問題を起こしています。

ただ、私の実感として、そういった教育において「異年齢」のあり方というは今後の教育の中に非常に大きな意味を投げかけるのではないかと感じています。実際、今私が働いている園では異年齢で子どもたちが過ごしています。3~5歳児の子どもたちが同じ環境の中にいます。心理士さんによっては、もう少し少人数の中で子どもが生活した方が落ち着くのではないかということを言われることがあるのですが、実際の子どもの様子を見ていると、子どもは自分の発達に合わせた子ども同士で遊んでいるのが分かります。そうした場合、発達が進むにつれて子どもたちが落ち着いていっている様子が伺えるのです。

たとえば、5歳児の子どもの中で発達検査をすると3歳児の発達段階の子どもがいます。おそらく、5歳児クラス単体の担当クラスであったら加配は割とべったりとついている必要があるでしょうが、異年齢であれば、割とその5歳児は胃年齢クラスの3歳児と遊んでいることが多いのです。このように子どもは自分の発達に合わせて遊ぶ相手を選んでいることが多いのです。また、これは支援が必要な子どもだけではなく、健常な子どもにとってもそうであることが多くあります。低月齢の子どもにとっては異年齢であることが救いであったり、逆に高月齢の子どもであったらより進んで遊びを発展出来たりします。

異年齢というのは子どもの主体性にとっては大人が意図しなくても子どもの発達に合わせた環境につながるということが見ているとよくわかります。そう思うと、異年齢の環境を用意することは今問題とされる支援における大人の手という問題が解消されたり、かえって支援を必要とする子ども自体が目立たない環境になるかもしれません。

そう考えていくと今の教育環境において、もう少し発達に沿った環境作りという事をもう少し意識する必要があるように最近感じます。今ある「年齢別」というクラス区分に対して、困っている子どもたちが多いのかもしれません。以前、紹介した「ケーキの切れない非行少年たち」を著した宮口幸治氏も同様にこういった子どもたちの環境に言及されていました。様々な形態が教育においてもあるのでしょうが、未だ昭和時代から変わっていない教育現場を変えていく必要がこれからの時代必要な気がします。