10月2019

認知的発達における段階

ピアジェは同化と調整、体制化の過程は基本的にどの時期においても変わらないものであ有、常にその変化を繰り返していく中で連続的な発達の変化を生み出していくと言っています。一方で、ピアジェは認知的発達における段階発達を6段階に分けて唱えています。

 

第1段階は、感覚運動段階です。ピアジェは言語や模倣などン象徴機能が出現する18カ月以前においては、子どもは心の中で思考することができないと考えました。その頃の子どもは触ることやつかむこと、行動そのものが思考であると捉え、体を使った操作によって、知識を構築し、認識を発達させていくとしました。この第一段階においては、生まれ持った身体の反射を用いて、環境を取り込む同化を行い、そこで起きた経験を通して、これまでの自分の持っていた認識と新しい経験とをすり合わせる調整を行っているというのです。

 

第2段階では学習や経験による適応という側面が入ってくると考えました。この段階においては、新しい行動の獲得のために、その行動を乳児が反復するという事実が重要であるとしています。試して、定着するまで行動を反復するというのですね、

 

第3段階では自分の行動が外界にもたらした興味のある結果を反復する行動である、第二次循環反応が始まると考えました。この段階は外部の対象に働きかけるものの、偶然に発見した新しい結果をあくまで反復することが目的であり、新しい状況や問題に対応することはできないとしています。自分の行動がどのように外部に作用するのかを試してみて、それを反復し、獲得していくということをする段階ということですね。

 

第4段階では異なった2つの枠組みを組み合わせて、主たる目的という枠組みと、従たる手段という枠組みを区分し、新しい行動を生みだし、新しい結果を意図的に得ることができるようになると考えました。第4段階ではこれまでの反復という行動意図ではなく、目的と手段を行使するということができるようになるというのですね。

 

第5段階では、様々な手段を用いて目的を達成するようになるとあります。この段階になると自己とは離れた、より客観的な対象を構築することができるようになるというのです。これまでの一人称ではなく、2人称以上の対象によっても、目的や手段を用いることができるようになるということなのでしょう。

 

第6段階になると、象徴的機能が発生します。それは意味されるものと意味するものが分離し、後者が前夜を言語や心像、ごっこ遊びなどで象徴することができるようになるということ、つまり「心」の中で考えることができるようになったということです。

 

こういった認知の段階を経ることで子どもは認知的発達をしているとピアジェは言います。つまり、これらの段階は不変的なものであり、どの段階においても、子どもたちは発達の中で必ずとおる段階だとしています。

認知的発達

心理学が一つの研究として始まっていく中で、子どもの発達は遺伝から起きているものなのか、それとも環境による影響が大きいのかというどちらか一方が子どもの発達に影響するという議論が多くなされていました。20世紀においても、乳幼児は無能な存在であり、受動的な存在だとみなされていました。そういった時代の中、ボードウィンは、知能の発達を生物の進化が環境への適応だと考えられるのと同様に、個体発生も環境への適応過程だと捉えました。そして、ピアジェが登場します。

 

ピアジェも個体と環境を切り離す理論に疑問をもち、個体と環境の相互作用こそが人間の認識発生において重要だと考えました。ピアジェの乳幼児観は一言でいうと子どもを「科学者」であり、「活動的な学習者」であるとみなしていました(この場合の子どもは、乳幼児を含んだ幅広い年齢の子どもを指す)。ピアジェは乳幼児の行動を入念に観察することによって、乳幼児は活動的な存在であり、自ら積極的に知識を構築している存在だとみなしたのです。しかし、彼は乳児は活動的な存在であるということは認めていた反面、だからといって幼児期から豊富な知識を持っていたかというとそうではないという見解を持っています。乳児が豊富な知識を持たない無能な存在であるという見解においてはピアジェも変わらなかったのです。しかし、無能ではあっても、自ら世界に働きかけ、自らの力で知識を構築していくという考えを持っていました。

 

ピアジェは、主体が環境にいかに適応していくかという、適応過程は「同化」と「調節」という2つの過程から構成されていると考えました。「同化」とは生物学の概念で、有機体が食物を摂取し、環境を自ら取り込むことであり、「調節」とは有機体が自分の既存の知識の構造を新しい経験に合わせて変化させていくことを言います。つまりは新しい経験に応じて、自分の知識や認識を環境や経験に合わせて変化させていくということで、人はこういった同化と調節を繰り返す中で、新しい認識を獲得するというのです。このように乳幼児は環境との相互作用によって認識を構成する活動的な存在としたのです。

 

また、ピアジェは認知発達のどの段階においても変わらないもの(機能的不変項)があるとし、それを「適応」と「体制化」であるとしました。適応とは、同化と調節を含めた主体と環境との相互作用の過程のことをいい、体制化とは、子どもの持つ各独立した枠組みが互いに結びつき(これを協応という)機能的にひとつの全体としてまとまりをつくることとしました。人は外の環境を経験する中で同化や調節を繰り返す中で適応していきます。そして、その適応していく中で新しい概念や認識をまとめていく体制化をしていきます。こういった適応と体制化によって認識は発達していくと考えたのです。

 

子どもの発達する過程において、持って生まれた知識とそれをアップデートするために環境を通して、経験し、新たな知識を身につけていくということをピアジェは考えていたのですね。赤ちゃんは受動的な存在ではなく、能動的な活動をしているというのはこの頃にも言われていたことなのです。ピアジェの考えは今でも言われていることが数多くあり、現在の乳幼児期の発達心理学にも大きな影響を与えているということがよくわかります。その後、この理論を中心に認知発達における段階をピアジェは発信していきますが、それはどういったものだったのでしょうか?

成熟か環境か

柳田国男や荻生徂徠のように日本においても、赤ちゃん研究はされてきました。日本においては赤ちゃんは神性なもとと見いだされ、特別な価値を与えられていた。と言われている一方で、乳幼児は疎外や無関心の対象でもあったとされています。乳幼児が阻害されるべき対象から保護すべき対象に代わったのも徳川綱吉の「生類憐みの令」によってからということが言われています。そして、日本においても、海外においても「無能な乳幼児」という考えがあったということを紹介しました。その後、様々な議論が出てくる中で、その見方は変わっていきます。

 

森口佑介氏の「おさなごころを科学するー進化する乳幼児観-」には19世紀後半頃、教育熱の高まりや医学の進歩により乳幼児教育が本格的に始まってきました。その研究は乳幼児の観察を数多くした「認知発達研究の父」とも呼ばれるピアジェの研究が中心になっていました。そして、乳幼児研究における方法論が議論され始めます。18世紀末にドイツの哲学者ディードリッヒ・ティーデマンの息子の観察記録がはじめに出てきました。その後。ヨーロッパの各地で教鞭をとっていた生理学者のウィリアム・プライヤーが学問における方法論の重要性を認識し、観察を科学的方法論にしたと言われています。しかし、その裏では様々な逸話の集積であった観察法を、科学的な方法論にすることにかなりの苦心をしたと言われています。

 

こういった観察法の確立によって、乳幼児の行動を明らかにしていきました。そして、20世紀初めにウィルヘルム・ブントがライプツィヒ大学に公式ゼミナールをはじめ、内観法を基に心理学は学問として第一歩を踏み出します。その中でも遺伝と環境の問題は学問としては始まったばかりで成熟を重視する考えと学習を議論する考えの対立があったといいます。米国の小児科医であり心理学者であったゲゼルはヒトの発達は遺伝的にプログラムされており、そのプログラムが発言し、準備状態になっていなければ、いくら訓練や経験を積んだところで意味がないという見解を出しています。それに対して、行動主義の代表的な心理学者であるワトソンなどはすべての行動は学習の賜物だとする考え方を持っていました。彼の著書で「行動主義の心理学」には「私に、健康で、いいからだをした1ダースの赤ん坊と、彼らを育てるための私自身の特殊な世界を与えたまえ。そうすれば、私はでたらめにそのうちの一人をとりその子を訓練して、私が選んだある専門家――医者、法律家、芸術家、大事業家(中略)――に、その子の祖先の才能、嗜好、傾向、能力、職業がどうだろうと、きっとしてみせよう」

 

この当時はまだまだ遺伝と環境は切り離されていた考えであり、それぞれの子どもにおいても、個体(子ども)と環境は切り離され、個体内の成熟か環境かのどちらか一方が独立して、知能や行動の発達に影響するという議論がされていました。そして、そのどちらの説も乳幼児は無能な存在であり、受動的な存在だとみなす立場に基づくものでした。

日本における子ども研究

これまでの子ども研究によって出てきた説は、ひとつは「生得説」。これはデカルトやアーノルド・ルーカス・ゲゼルらが唱えた説で、遺伝説(成熟優位説)とも言われています。発達の諸要因に関して、個体の発達は固体内の遺伝的素質によって規定されるという考え方です。つぎに「経験説」これはロックやジョン・ワトソンらが唱え、環境説(学習優位説)ともいわれています。発達の諸要因に関して、環境の影響が子どもの発達にとって決定的な力を持っているという考え方です。そして、「輻輳説」これはシュテルン、ルクセンブルガーらが唱えた説で、人間の発達の諸要因は遺伝的要因のみによるものでも、環境的要因のみによるものでもなく、両者の加算的な影響によるものであるという考え方です。そして、現在では、遺伝と環境の相互作用を重視する「相互作用説」が広く採用されています。この考えは「輻輳説」のように遺伝と環境の影響を切り分けて考えることできないとし、遺伝が環境に、環境が遺伝に影響を与え、相互作用する中で心の発達が生じるとしています。つまり最近の説では「遺伝なのか環境なのか」という問い自体が無意味になっており、どちらも影響し合いながら発達しているということなのです。

 

「生得説」から「経験説」、「輻輳説」、「相互作用」といった子ども研究を通して、数々の研究者が子どもの発達に対する説を見出してきたのですね。では、日本における乳幼児観はどうだったのでしょうか。柳田国男氏は日本の社会が7歳までの子どもに神性を見出し、特別な価値を与えていると指摘しました。それに対して、近世史学者の柴田純さんは「日本幼児史―こどもへのまなざし―」の中で、日本においては中世までは乳幼児は疎外や無関心の対象であり、保護するという考えが生じたのは近代に入ってから一部の知識のみで見られたものにすぎないと論じています。

 

江戸時代の儒学者 荻生徂徠(おぎゅうそらい)の言葉に「7歳以下は知も力もなき」というものがあるそうですが、その考えがロックの「無能な乳幼児」といった考え方に通じるところは面白いですね。荻生徂徠とロックは同時代の人だそうなので、その時代では、さまざまな文化で乳幼児は無能だという考えが一般的だったようです。また、疎外された存在であることと併せて、古代から近世に至るまで、捨て子は非常に多かったとされています。柴田さんによれば、江戸時代に入り、疎外される対象であった幼児が保護すべき対象に変化していったようです。政治的な要因としては、江戸幕府第5将軍 徳川綱吉の「生類憐みの令」と、その法令のうちのひとつである「捨子禁令」によって捨て子が禁じられたこと。社会的には、庶民においても継続性のある家制度が確立し、子どもを「子宝」と見て、教育する対象として捉えるようになったことをあげています。

 

日本において、乳幼児は神聖なものとしてみなされていたのか、それとも無関心の対象であったのかは、それほど簡単に決着がつくような問題ではないと思いますが、古く万葉集においても子どもを慈しむ歌があるように、古代や中世の人間のすべてが乳幼児を疎外していたわけではないのでしょう。

 

時代においてもやはり「子どもは無能」と思われていたということはどの地域でも一度は議論の中に出てくることなのですね。しかも、だいたい同じような時期にこういった議論が出てきたというのは社会情勢的なものも含まれているのでしょうか。こういった子ども研究の変遷を見ていくことで見えてくるものがあります。そして、こういった流れの中から、日本でも子どもの見方が変わってくることになります。それはどういった変化なのでしょうか。

子どもと進化論

子ども研究の始まりが「知識はいつから持つようになった」のかという純粋な疑問から出てきたことから始まっているというのを前回紹介しました。そして、そこから赤ちゃんは何も知らない状態から生まれるという「白紙説」と生まれながらにして観念や知識をもっているとする「生得説」の議論が行われていました。そういった時代を経て、乳幼児観や発達心理学に大きな影響を与えた人物がいました。それがチャールズ・ロバート・ダーウィンです。

 

その著書「進化論」には「生物にはさまざまな個体差があり、環境に適応できる個体は存在すること、生存した個体はその形質を遺伝によって子孫に残すこと」という考え方を出したのです。つまり、環境に適応するように進化し、適応した姿を維持するために遺伝子を残し伝えていくといった生物の「進化」を見出したのです。この考えは遺伝的要因の重要性を示唆することになり、ジークムント・フロイトやジャン・ピアジェ、ジェームス・マーク・ボードウィンといった、心理学の偉大な先人たちに大きな影響を与えています。

 

「進化論」以前にもっとも主流だった世界観が「神が生命を創り出した」という創造論でした。しかし、これはヒトと他の動物との間の非連続性を強調するものでした。人は他の動物から進化したものではないという考えかたですね。進化論によって他の動物との連続性が科学的な視点から理解されると、ヒトも他の動物との連続性からヒトの個体発生について考えるといった空気が出来上がってきたのです。

 

「進化論」が発達心理学に与えた影響は「個体発生は系統発生を短縮した形で繰り返す」という生物学者エルンスト・ハインリッヒ・ヘッケルの生物発生原則(反復説)に典型的に見られます。ある個体が個体発生の中で遭遇する次の段階は、その祖先が系統発生の発展過程において通過した生体の段階を反復するという考え方です。つまり、個体発生(子どもが生まれる)中で、祖先の系統発生(過去の進化でたどってきた動きなど)は発達過程の中で見えることができ、これまでの進化の過程を学びなおしているというのです。ダーウィンも個体発生と系統発生の間に関連があると考えていて、それは彼の「先祖返り」に関する議論に見られるそうです。先祖返りとは「生物が進化の過程で失った形質が子孫にある個体に偶然に出現する」とされています。ダーウィンはある形質の発達が阻害された場合に、その形質は当該の生物が別の種と枝分かれする前の共通祖先が持つ形質に類似することがあると説いたのです。常に生物は環境によって適応しており、過去の進化の中で培った能力を使って、共通先祖である形質に似てくるというのですね。確かにチンパンジーと人間を比べても系統は同じでも、環境において違った発達をしているのがわかりますし、その反面、似ているところを見出すこともできます。

 

彼はわが子の観察日記をもとに著した「一人の子どもの伝記的素描」を「いくつかの能力の発達時期は、子どもによって、それぞれかなり異なるだろうと思っている」と個人差の問題から始めています。この中でダーウィンは乳児のさまざまな側面について記述しています。

運動面では生後数日間に見られる息子の反射行動を書きとどめ、「まばたき」が生理的なものであると断じています。感覚・知覚能力については「彼はすでに生後9日目にはろうそくを注視した」と述べ、視覚や聴覚は比較的早期から原初的には機能していることを示唆しています。それに対し、観念や推論、記憶などの認知的な能力や道徳観上は、比較的発達が遅いことも認めています。しかし、かれもまだまだ全体的には乳幼児の知的能力は低いものだと考えていたようです。

 

ダーウィンが出てくることによって、かなり根拠や理論的な子ども研究が見られてきたのですね。初めは哲学的なところから始まった子ども研究が次は思想的になり、進化論につながっていくことで、子どもの見方は多角的な議論がされてきたのですね。そして、20世紀初頭になるとIQ(知能指数)という概念が生まれてきます。この概念を作った心理学者ウィリアム・シュテルンらによって新しい考え方が開かれていきました。心の特性が遺伝的に決まっているのか、環境によって決まるのかという問題です。これが「輻輳節(ふくそうせつ)」です。