子どもにとっての大人

乳児の社会的発達において、母子間の関係と仲間同士の関係には大きく違うことが言われています。特に仲間との遊びでは、大人と関わっているときよりも、応答的、持続的、情動的であることや模倣がしやすいことなのがわかってきたと言います。そのため、乳児期における教育的環境において、仲間の存在は非常に重要であるということがわかってきています。では、子どもの発達において、大人の存在はどのように必要だったのでしょうか?

 

昔は「子守り」といえば、幼児から若い女の子の役割で、必ずしも実の母親だけが、おんぶして子どもをあやしていたとは限りませんでした。そして、生まれたての赤ちゃんに授乳することだけは母親の特権と思いきや、それも違っていたそうです。赤ちゃんが生まれて、初めて授乳するときは「乳付け」とか「乳合わせ」といって、同じ頃に出産しすでに授乳中の女性に頼んで乳を与えてもらっていたようです。これは初めての乳をすでに授乳している他人からもらうとよく育つと言われていたからです。そして、その乳を与えた人を「乳親(チチオヤ)」と言っています。そのほかにも、「乳飲み親」「チアンマ」とも呼ばれました。初乳には栄養があると言われている今の時代では不思議な話ですね。そして、男の子の場合には女の子を持つ母親に頼み、女の子の場合にはその逆にするのがしきたりで、そうすることによって丈夫な子に育ち、縁組が早いと言われていたのです。つまり、科学的な理由よりも、その乳付けを縁として、その後も何かと親子を支える共同体になっていくという、関りづくりの意味が強かったのだろうことがわかります。こういった習慣は「古事記」や「日本書紀」にも書かれているようです。

 

その他にも、生まれた子を実の親だけで育てるのは大変だったようで、さまざまな周囲の大人が関わっています。例えば「取り上げ親」は「フスツナギウヤ」といい、へその緒を切ってくれた産婆さん(コズエババ)のことを指します。また、「拾い親」ということもあり、それは赤ちゃんを橋のたもとや道の辻や家の前に捨てる真似をし、あらかじめ頼んでおいた人に拾ってもらい、その親を仮親とするものがありました。捨てられるのは、子が良く育たない家の子や父母の厄年に生まれた子でしたが、子が病気や怪我をしたとき、女児ばかり生まれる家に珍しく男児が生まれたときなどにも見られたようです。「拾い親」では、子を捨てるのにたらいや箕に入れたり、拾うにはほうきで掃き込む真似をしたりというしきたりもあり、宗教的な儀式のようなものだったそうです。

 

また、今でも「名付け親」を実の親ではない人にお願いすることもありますが、昔はお七夜のころ、他人に名前を付けてもらうことによって関係が結ばれるという意味合いがあり、「名親」「名添え親」などとも呼ばれます。名は生命の象徴とされており、名を与える人は他人でも生命の生みの親であるというほど、名は尊いものと考えられていました。そして、出生時の名付け親と成年式の改名の名付け親がいました。それは、里親でも養親でもなく、病弱なこのための仮の親のことでした。ほかにも神官や僧侶、祈祷師などに頼み、いろいろな神と取り親、取り子関係を結ぶ習俗も各地に分布していると言われています。

 

しかし、その中でもとりわけ「乳母」の存在は格別だったそうです。それは母乳が出ない母親に代わって乳を与えるだけではなく、身分の高い人間は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えや、他のしっかりした女性に任せた方が教育上もよいという考えから、乳離れした後も、母親に代わって子育てをしていたようにです。特に平安時代から江戸時代にかけて、上層階級では、公家・武家を問わず、育ての親である「乳母」の存在が不可欠であり、教育者としての思い任務を負っていたのです。

 

このように生まれてきた赤ちゃんは他人の子どもであっても、実の親だけが「育てなければならない」ということではなく、社会全体で子どもを育てていこうとする様子が見えてきます。どうやらそこには、子どもを「養う」という意味合いが多いように思います。大河ドラマを見ていても、幼少期の様子では必ず、一緒に遊ぶ同じくらいの年の子どもが主人公以外でも出てきます。どれほど上層の階級にあっても、そういった子ども社会も用意されており、そして、それを支えるのが周囲にいる大人であったことが見えてくるように思います。