10月2020

教員

これまではテストの在り方について、PISAから見るとどうかということを紹介していました。では、つぎに「教員」についてはどうでしょうか。当然、教育においても質が良くなっていくにあたって、教員の質というのも求められてきます。

 

アンドレアス氏は「教員は学習成果につながる学習環境を作り出すことができるような専門的な知識(例えば、学問的な知識やその学問におけるカリキュラムへの知識、その学問を生徒がどのように学ぶかに関する知識など)そして、それは時代と共に変わってきたりするので、ある意味で、生涯学習者として職業的な専門性を伸ばすための探求や研究のスキルも含んだものを期待されている」といっています。そして、教員が生涯学習者にならない限り、生徒もそのようにならないといっています。しかし、実際教員は仕事として今あげた定義以上のことを期待されていると言っています。

 

それはどういったことかというと「教員には、情熱的で思いやりがあり、思慮深いことも期待している。」というのです。それはすなわち、「生徒が何かに参加し責任を持つように促したり、異なる背景と多様なニーズを持つ生徒に対して、寛容さや社会的結束を促すこと、さらに生徒への継続的な評価とフィードバックをおこない、生徒が自尊感情と仲間意識を感じられるようにし、協同学習を促すことである。そして、教員自身がチームとなる、他校や保護者と一緒に共通目標を設定し、目標達成のための計画を立てて行動することを期待している」ことというのです。確かに、教員に対しては、単純に教科について教えるだけではなく、生徒への人間性や感性といってものにおいても求めているのです。日本ではこれを「学習指導」と「生徒指導」というように定義づけていますね。

 

シンガポールの国立教育研究所のウン・タン・セン局長はこのことについて「教員は同時に様々な学習者のニーズに答えるため、マルチタスクの専門家である必要がある」と述べています。教育現場は常に流動的に動いていますし、予想不可能なところがあり、どのように反応するかを考える時間もありません。様々な状況の中で、生徒との関わりにおいても、学習指導においても柔軟でなければいけないのです。これは保育においても、言えることです。しかし、保育においては学校教育よりもより「生徒指導」の方に比重が大きくなるのは言うまでもありません。このように教員というのは非常に高度なスキルを求められるのです。

 

ここからは私の主観なのですが、だからこそ、「何のために教育をするのか」や「今何が社会に必要とされているのか」ということを現場レベルにおいても、意識されることが質に大きく関わってくるのではないかと思っています。以前、自分が実習に行ったとき、そのころは『ゆとり教育』が始まったころでしたが、その頃は「なぜゆとり教育が必要なのか?これからの受験は変わっていないのに」というように、理想と現状が違いすぎ、目的が現場まで降りていないことや、教科にばかり目的が言っている現状が目に見えました。そのため、ゆとり教育というものの本来の理想とは結果的に大きな違いが生まれ、先日アンドレアス氏が言っていたように、「浸透しなかった」ということになったのです。テクニックだけではなく、本質としての理解というのも大切ですし、アンドレアス氏が言うように「教員こそ生涯学習者でなければいけない」というのは教員だけではなく、保育者自体もその意識を持っていないければいけないのだと思うのです。

 

 

 

学び方

勉強の本質とはどういったところにあるのでしょうか。以前、自園の先生と「学ぶこと」と「真似ること」の違いを話する機会がありました。「真似ること」はただ、「そのことをそのまま行動する」ことで、「学ぶ」ことは「真似ることから、その深い部分を知り、次に生かす(活用する)」ことではないかと話をしました。これはあくまでも私個人の見解なので、語弊もあるでしょうし、言い回しもわかりづらいかもしれません。例えば、台形の面積の公式を小学校で習います。「(上底)+(下底)×高さ÷2」、実際この公式をただ覚えている人もいるでしょう。しかし、よくよく考えてみると単純に四角形の面積を出して、半分にするということが想像できていれば、公式を覚えなくてもいいのです。これが「概念を知る」ということだと思います。これに近いことがPISAでもありました。

 

PISAでは2008年の金融危機後、政治家は学校での金融教育を強化するため、このスキルをPISAに盛り込むことにしました。しかし、2014年の結果では、生徒の金融リテラシーと生徒がどれくらい金融教育を学んでいるかという間に関係はなかったのです。当時PISAの金融リテラシーでトップだったのは上海でしたが、上海は金融教育を多くは行っていませんでした。しかし、上海の学校では、数学教育で深い概念的理解と複雑な推論を育てていたことで成功したといえるのです。上海の生徒はまるで数学者のようにかんがえ、確率、変化、リスクのような概念の意味を理解しており、これらの知識をなじみのなかった金融の文脈になんなく転化させ、活用したのです。結果、その分野の一流の専門家だけでなく、生徒の学び方を理解している人、知識やスキルの需要と現実社会での活用法を理解している人々がいることが必要なのです。ただ、教科書を進めることが教育ではないのです。学問分野だけではなく、生徒の学びと発達について知見を培ってきた学習科学を拠り所にして構築されることも非常に重要なのです。

 

こういった視点は今の時代はそれほど重視されていないように思います。どちらかというと「今習っていることは将来役に立つから」くらいで抽象的に進められることがあります。具体的に、何がどのように使われるのか、目的だったものがないのも日本の勉強嫌いなことにつながっているのかもしれません。人間は「学ぶこと」や「工夫すること」で生き残ってきました。特に日本人は「工夫」というところにおいては文化的に秀でていますし、これほどまでクイズ番組が放映されている国もないような気がします。それほど日本人は学ぶということが好きな民族であるように思います。しかし、なぜ「勉強嫌い」が多いのでしょうか。そこには目的意識や夢とかもあるのかもしれません。そここそ、保育が関わる教育であるように思います。

 

それぞれの発達段階で、それぞれの保育や教育形態が必要。しかし、その中心には子どもたちが「自分で生きている」という実感がなければいけないのかもしれません。そのために大人は「見守る」ということが大切ですね。

日本の教育改革

アンドレアス氏は「生徒の学習時間は限られているにも関わらず、私たちがもはや適切ではないかもしれない教育内容をあきらめきれないために、若者は過去に囚われの身となり、学校はこの正解で成功するために必要な価値ある知識やスキルや人間性を育てる機会を失っている」といっています。なんとも耳痛い話です。そして、このことは過去に起きた『ゆとり教育』に通じることです。

 

アンドレアス氏の話では「1990年代の終わり、日本はより深く、学際的な学びの時間を作り出すために学習指導要領の内容のほぼ3分の1をへらし、この状況に対応しました。教員はこの『ゆとり教育』という目標に賛成していたが、彼らがこの目標を教室で実践するための十分な支援を政府や地方の教育行政から受けることはなかった」といっています。そして、実際の中学校の教員においても、「過去に効果的であると証明され、日本のテスト制度によって評価されてきた実践から逸脱することに消極的だった」といっています。結果、「2003年のPISAで数学的リテラシーの低下が明らかになったとき、保護者は、新しい学習指導要領が子どもたちの前途に横たわる問題を解決するために用意されたものだと信じられなくなった。そして、この教育の不足だと感じたものを埋めるため、これまで以上に塾に関心を持つようになった」と話しています。

 

このことは当時、私は教育実習生として中学校に行っていたので、直接感じることがありました。「ゆとり教育」や「総合的学習の時間」について、現場の先生があまり理想を感じていなかったというのは事実であり、その本来の意図と実際に現場で求められる意図とが大きく違っているというのを感じました。どうしても、保護者も現場にいる教員も将来、突きつけられる「受験」というものに目が向けられます。アンドレアス氏は「日本のテスト制度によって評価されてきた実践」と話していますが、どうしても、自分たちが受けてきた教育からも変わることに消極的な雰囲気があったように思います。そういった意味では行政や政府の支援や理解が不十分であったというのは確かに理由の一つになるでしょう。

 

これは保育においても、同様なことが言えます。保育を変革するにあたっては、やはり保護者からの不安の声や不信感が起きました。どうしても、保守的な考え方になるのはしょうがないところです。だからこそ、保育や教育の本質とはなにでどういったところをしっかりと育んでいかなければいけないのかを考えなければいけないのです。そして、その課題は学校での問題だけでなく、社会にあり、教育と社会が密接に関係しているということをもっと意識しなければいけないのだろうと感じます。

 

当時の日本はそこら辺をしっかりと捉えていたのです。実際、アンドレアス氏は「日本はほかのどの国よりも早く改善に取り組んでいた」と言っています。そして、「PISAの問題解決能力とは『ゆとり教育』が強化しようとした創造的で批判的な思考スキルを引き出すものだった。しかし、改革は揺り戻しの方向に進み、この数年で学習指導要領の内容量が再び重視されるようになった」といっています。これはとても残念なことです。しかし、またここでアクティブラーニングと名前を変えて、教育形態が見直されようとしています。そういった意味ではまだまだ改革は続いています。

試験の公平性

現在、日本の大学センター試験の内容がマークシート形式から記述式に変わろうとしています。そこには様々な理由があるのでしょうが、OECD加盟国においては、テストはどういった形式で行っているのでしょうか。そもそも多くの国ではカリキュラムの規準化が行われています。そうすることで、各学年にわたる教育内容の重複を減らし、異なる学校で提供されるカリキュラムのばらつきを減らすことができます。そうするのは社会経済的背景が異なる人々の不公平を減らすことが重要と考えられているからです。そして、多くの国では、このカリキュラムの規準化は中等学校の外部テストにも活用されます。ここでいうテストは日本での全統模試のようなもので、多くは生徒が就職や進学の段階の入り口となるのもです。

 

こういったテストはOECD加盟国で見ると、こういった外部テストを必要とする学校で学ぶ生徒は、そうではない生徒よりも平均して16ポイント得点が高いそうです。しかし、このテストの設計を間違うと教育制度が元に戻り、評価や教育の対象となる範囲を狭めたり、近道をしたり、詰め込んだり、偽ったりすることになるとアンドレアス氏は言っています。このことは日本でも言えることかもしれません。問いと答えがはっきりしているものになっているからこそ、カンニングが起きるのですし、詰込みや暗記といった物になります。また「山を張る」といった意味では、学ぶ範囲も狭くなるのでしょう。このことが起きたときに「学ぶ」ということが何を意味するのかという問いからかなり離れた答えになってくるように思います。PISAで高い成果を上げる教育システムのほとんどは、複雑な高次思考スキルの取得、現在世界の問題解決へのスキル活用を重視していることに注目すべきだといっています。日本においては、このことができているのかというと疑問です。

 

実際のところ、ワールドクラスの国々は、多肢選択式のコンピュータ採点のテストに依存しないそうです。その代わりに、小論文試験や口頭試問をおこなったり、定期テストだけではなく最終学年の成果物も評価対象に加えています。つまり、本当の意味で学んでいるかどうかを見ようというのです。では、日本でも問題になっていますが、こういったはっきりとした答えがない問題に対して、他の国ではどういった採点方法を取っているのでしょうか。

 

ロシアでは、回答用紙はデータ化され、匿名化され、不正を無くし、小論文のような機械で採点できない複雑な答案は、特別な訓練を受けた専門家によって一元的に採点されます。しかし、問題なのはどのように公平に採点されたと信頼するのかです。これに対しては、採点が終わった解答用紙はネットに掲示され、すべての生徒は自分の結果を確認でき、納得できない場合は、生徒は採点に異議を唱えられるようになっているのです。学校側も、テストの結果を追跡調査を行うことができます。

 

採点に異議を唱えることができるというのは非常に画期的だなと感じました。そして、そこにしっかりとした理由が見えてくるのであれば、納得のいくものになります。各国のこういった情報は非常に参考になります。なにより、生徒側も採点する側も公平性が確保されているように感じますし、こういったやり取りがあるということに対して、人間的なやりとりでもあるように感じます。採点する側もしっかりと責任を持ち、採点をすること自体が公平性を保つことになるのだということが分かります。

データを見る

「子どもを育てる」と一口に言っても難しいものです。できれば、子どもたちには最高の教育や育児環境を与えてあげたいと思いますが、それも子どもたちによってはニーズは違いますし、ひとりの子どもにあってるからといって、その他の子どもにあっているとは限りません。また、風土や文化によっても違ってくるものもあるのです。OECDのPISA(学習到達度調査)では様々なデータが集められます。しかし、それに応じて答えのない数多くの問いを残していくとアンドレアス氏は言っています。

 

彼は「PISAの結果はある時点の教育システムの一面を教えてくれる。しかし、学校システムがどのようなプロセスで成果を出してきたか、あるいはシステムの発展を支えたり妨げる可能性がある団体や組織を示すことはないし、そのようなことはできない。さらに、データは因果関係について何も教えはしない」といっています。つまり、データは一つの結果であり、そこでの成功したシステムがほかで同じように行ったからといって、同じような結果がでるわけではないということです。このことについて、アンドレアス氏は「国際調査の限界の一つだ」といっています。そして、「PISAの強みは、他のすべての人が取り組んでいることを各国に伝えることにある」というのです。問題はこれをどう生かしていくのかです。

 

このことはどんなことでも言えるのかもしれません。以前、保育にあたってある先生からアドバイスをもらいました。保育をかえるにあたって、私は「真似」をすることにすごく抵抗がありました。その時に、相談に乗ってくれた先生は「じゃ、ゴルフをするときに、有名な選手の教則本を見て練習をすることと、我流で練習する人、どちらがうまくなる?」と質問されました。「もちろん、教則本を見る人の方がうまくなるでしょう。でも、あなたがうまくなっても、その有名選手になることはできません。それが独自性として出てくるのです」と言われました。

 

「いくら練習してもその人にはなれない。だけど、教則本を読むことで上達は早い。」問題は、教則本を見たとしても、その中で自分なりに消化し、形にしていくためには柔軟な姿勢が求められ、その変化が独自性として見えてくるのです。PISAの調査の利用方法もそれと同じことが言えます。PISAの成績が良い国をただ真似てもそれは「模倣」ではなく、「猿真似」なのです。これは保育においても、育児においても、そうであると思います。ある教育方法が良いからといって、それを鵜呑みに行うことはあまりよくありません。大切なことはその中にある「意図を汲む」ことです。「いったいそれが何のために行う必要があるのか」を予測しなければいけません。

 

「教育や保育は哲学で考えるもの」ということを以前言われたことがあります。「なぜ、教育や保育が必要なのか」を考えていないと本質には近づかないのです。真似をすることは技術を盗むというためには非常に有意気な方法です。しかし、その本質を知って、真似をするのとそうではなくただ真似をするのとでは結果が大きく違ってきます。できるだけ、その本質を見るということは心がけていきたいものです。