道徳観を持つ

次にゴプニックは「人との共通点を持つ人だけに配慮するというのは、道徳的にどうなのでしょう?」と問題提起をしています。戦争時代においても、たとえば、ゲルマン民族であったり、十字軍であったり、ナチスであったり、今ではウィグル問題などでも同様に、歴史的に見ると異民族の虐殺や宗教の違いによる戦争はやはり共通点を持つ人への配慮の裏にある意識から出てきたものであるように思います。つまり、自分とは違うアイデンティティがあることで道徳的配慮がその内集団の中で行われ、それが相手を弾圧する理由になってしまうのです。勧善懲悪はないと人はわかっているのに、どこかで「自分たちは正義」と当てはめようとしています。これは道徳的といえるのでしょうか。

 

一方で、自分たちの道徳生活においては特定の対象としたものであることを指摘する人もいるようです。それは、例えば家族等がそれにあたります。確かに家族などを考えると、いくら見ず知らずの人であっても、自分の子どもや親を優先に守り、幸せにすることに特別に重い責任を感じます。社会構造における民主主義も国における義務としてありますが、マクロに見ていくとそれは結果として自分のためであったり、自分の家族のためであったりもします。結局のところ国家というのはそういった、個々の道徳観念から起きているのではないかというのです。

 

しかし、道徳的配慮の対象が着実に拡大されてきているのも確かです。日本ではまだまだ進んでいるとはいえませんが、たとえば、ゲイやレズビアンにも、完全な道徳的な地位を認める方向への発展が世界的にも進んでいますし、人種への差別の撤廃など、国際的に人権運動というのは進んでいます。さらに、動物にも道徳的地位を認めるべきだという運動もあるほどです。これは自分とは共通点もないものにまで道徳的配慮がされていると言えます。

 

なかなか、道徳的配慮といっても、難しいものです。最近ではSNSの問題が日常的になり、「炎上」という言葉もいたるところで目にします。それも「自分の考えとは違う」ということや「自分の価値観とは違っている」というやはり共通点における排他的な考えが道徳的配慮を狂わせているように思います。行き過ぎたお節介の先に正にこういったネガティブな要素を起こっているように思います。元を正すととくに宗教戦争においては「浄化」といった考えが根底にありこれはある意味で「お節介」な大義名分なように感じます。

 

なにをもって道徳といえるのでしょうか。道徳的な配慮とは誰を対象にしているのか。

古典的な道徳哲学では、功利主義か義務論かを以前紹介しましたが、ここで出てくる道徳的配慮は普遍的でなければならないと考えられてきました。つまり、どちらもすべての人が対象になります。

 

共通点といった特定の人ではない道徳的な配慮と家族などの特定の人への道徳的な配慮。「親子が互いを思いやるのに特別な努力入りませんですが、隣人を思いやるのは時に難しく、知らない人を思いやるのはもっと難しく、自分と違うグループの青シャツの子を思いやるのは一番難しいことなのです。」とゴプニックは言っています。道徳の輪を広げていくというのはとても難しいことです。最近ではポピュリズムという言葉にもあるように特定方向の道徳がまかり通っている時代になっているように思います。そんな時代に、どういった保育をしていく必要があるのか、そのために赤ちゃんが道徳観を得るメカニズムを知ることは大切なことであるように思います。