環境閾値説

発達は遺伝的要因の成熟と環境的要因による学習との相互作用によって起きる「環境閾値説(かんきょういきちせつ)」という相互作用説をジェンセンは提唱しました。遺伝的可能性が各特性で顕在化するにあたって、それに必要な環境条件の質や量は異なり、各特性はそれぞれに固有の「閾値」を持っているという説です。「閾値」というのは一定水準のことを表します。例えば、身長や体重は劣悪な環境でない限りはその可能性を実現していきますが、知能テストの成績ではやや環境から受ける影響が大きくなるというのです。

 

学校での学業成績では、遺伝と環境の影響が拮抗するようになってきて、環境の重要度が増していきます。絶対音感や外国語の発音など特殊な才能は、それを習得するのに最適な寛容条件を必要とする上に、一定の専門的な訓練を受けなければ、その才能を開花させることができないとされています。藤森氏は、このように、ある力について、生まれつきか/環境によって発達するものか、と考えた場合「人と関わる力」は人類が遺伝的に持っているもので、それが環境によって表出するのだと考えていると言います。遺伝的にもっている才能は環境というトリガーによって開花されていくというのです。

 

このことを考えていくと人が社会を構成し、遺伝子をつないでいきました。そのため、赤ちゃんは当然、社会を構成する才能を遺伝子にもっており、社会を構成するような発達をしていくはずなのです。そして、社会を構成する人材として生きていくために、様々な社会を体験し、社会とのかかわりを始めていくことでその才能を開花させていくはずなのです。それは赤ちゃんから始まっているのです。赤ちゃんを見ていると寝ながら隣でよちよち歩いている赤ちゃんを目で追います。そして、隣の赤ちゃんの体を触ろうとします。つまり、もうこの頃から社会を見ようとしているのです。そのため、こういった隣にいる別の赤ちゃんの存在が重要になってくるのです。しかし、現在の社会では母子だけの関係になりがちであり、その場合、こういった行為が現れるのはもう少し先になると言えるのです。

 

そして、こういった関わりの経験が、他の子を真似たり、他の子と取り合いをすることで、他の子との直接的な身体的触れ合いが始まります。その触れ合いが重なり、他の子との関って遊ぶようになってくるのです。このように関わる力も繰り返し連続して起きていくと言います。このとき、条件が非常に悪くて不適切な環境である場合は、その発達は疎外されます。しかし、その特性が顕在化するのに必要な一定基準(閾値)を超えると、発達は正常な範囲内で進行することになると言います。つまり、人と関わって生きていくことは人間の遺伝子に組み込まれているにしても、人と関わる環境がなければその特性は表れてこないのです。そして、次第に外に出るようになり、地域の人と接する機会が増え、公園で遊ぶ他の子を見ることが多くなると、関わる力が表れてくるのです。こういったように遺伝的要因と環境的要因は相互に影響を与え合って発達を支えるので、どちらかが一方的に有意というわけではなく、その程度に大小があるだけだと考えられているのです。

 

この環境閾値説というのはとても面白いですね。今自園に来ている子どもたちを見ていても、発達が遅れているように見えても、その遅れを取り戻していく子どもは多いように思います。そして、そもそも「遅れている」と思う感覚すら、本当はおかしいのかもしれません。年齢による発達への刷り込みが今の子どもの環境において、かなり強く根付いているようにすら思います。発達のことを知ることは重要ですが、その「発達の特性」を知ることはもっと重要なことなのだと思います。