11月2019

コミュニケーションと組織

保育士不足というのが世の中でとても言われています。そして、新卒の保育士が職場に求めているものが「職場の人間関係」といったものを重視しているようです。そして、新任の保育士が辞めていく要因の中にも「人間関係」というものが原因に上ることが多く、多くの人は職場内でのコミュニケーションにおいて問題を抱えている現状があるのです。

 

ドラッカーにおいても、組織内のコミュニケーションというのは、今日あらゆる組織において最大の関心事となっていると言っています。しかし、実際そのコミュニケーションは未知のものであると言っており、実際のところ不足していると言っています。そして、コミュニケーションは①知覚であり、②期待であり、③要求であり、④情報ではない。それどころか、コミュニケーションと情報は相反する。しかし、両社は依存関係にある。という4つの基本を紹介しています。

 

まず、1つ目の①知覚である。ということはどういうことをいうのでしょうか。それは「コミュニケーションを成立させるものは、受け手である」ということで、実際のところ、コミュニケーションの内容を発する者、すなわちコミュニケーターではないというのです。コミュニケーターは音を発するだけであって、聞くものがいなければ、コミュニケーションは成立しないのです。確かに、実際問題、聞く手に聞く気がないと話は相手に入ってこないですし、響くこともありません。相手との信頼関係があってこそ、コミュニケーションが実現するというのは至極当然であると思います。ドラッカーはコミュニケーションは受け手の言葉を使わなければ成立しないと言っています。言葉で説明しても通じない。経験にない言葉で話しかけても理解されないのです。コミュニケーションを行うには「受け手の知覚能力の範囲内か、受け手は受け止めることができるか」を考える必要があるということを言っています。当然、あらゆるものには複数の側面があり、様々な受け止められ方があるということを考えることは至難の業です。そのため、受け手が自分とは違う理解をせざるを得ないということも認識していなければいけないのです。

 

このことは保育の話を保育者や保護者などに話すときに考えることがあります。様々な子どもの研究をそのまま保育者や保護者に話してもなかなか理解できないことが多く、難しそうな顔をされることがあります。それを分かりやすく話すようにしなければ理解はされません。そのため、相手の反応や顔を見て、その理由を探ります。また、「聞き手あってのコミュニケーション」というのは忘れてはいけませんね。発信だけをしていても、コミュニケーションとは言えないのです。「会話」というのはそのやりとりであり、一方的な関わりはコミュニケーションではないという視点はよく考えておかなければいけません。特に最近の若者は会話やコミュニケーションが不得意と言われます。それはもしかすると、発信ばかりに偏っているからなのかもしれません。

社会的影響と社会的責任

社会的責任の問題は2つの領域において生ずるとドラッカーは言っています。第一に自らの活動が社会に対して与える影響から生ずるもの。そして、第二に自らの活動とは関わりなく社会自体の問題として生ずるもの。いずれも、組織が必然的に社会や地域の中のそんざいであるがゆえに、マネジメントにとって重大な関心事足らざるを得ない。この2つの社会的責任は全く違う性格のものです。前者は、組織が社会に対して行ったことに関わる責任であり、後者は組織が社会のために行えることに関わる責任です。

 

このように見ていくと、教育というのは非常に社会的影響と社会的責任のある仕事であるということがいえます。保育機関や教育機関が社会に与える影響として日々の教育や保育を行っていることに対して、その責任はその後、関わった子どもたちがつくる社会において責任を持たなければならないということです。つまり、今の社会がダメだという前に、その子どもたちが受けてきた教育や保育の内容にも責任を持ち、社会と教育をリンクさせた考えを持たなければなりません。それが教育機関における社会的責任なのだということが分かります。特に乳幼児教育においては、発達や情動のコントロール、関わり、共感、など、様々な人との関わりの芽生えや原点があるように思います。つまりは、そういったところの問題が出てきたときに、改めて保育の状況や環境を見直していかなければいけないのです。

 

ドラッカーは現在の組織はそれぞれの分野において社会に貢献するために存在すると言っています。つまり、そして気が社会に対して与える影響は、それぞれが自らの存在理由とする社会に対する貢献にとどまることがない。保育でいうと、保育や教育に限らず社会において、その影響があるということをしっかりと捉えておかなければいけないということですね。

 

これに対して、社会の問題は組織とその活動の影響からではなく、社会自体の機能不全から起こる。組織は、社会環境のなかにおいてのみ存在する。そのため、社会自体の問題の影響を受けざるをえない。地域社会がなんら問題視せず、かえって問題と取り組むことに抵抗したとしても、社会の問題は組織にとって重大な関心事たらざるを得ないというのです。健全な企業、健全な大学、健全な病院は、不健全な社会では機能しえないからである。マネジメントが社会の病気をつくったわけではない。しかし、社会の健康は、マネジメントにとって必要であるというのです。

 

つまりは、理解のある社会ではないとその組織の社会的責任は認められないということなのでしょう。そのため、マネジメントはその状況をうまくいかせるための策を講じなければいけません。しかし、それはあくまでも「社会に貢献する」ということが目的になっていないとそれは遂げることができないのです。そして、その時代の状況、その社会状況においてどのような社会的影響があるのか、マネジメントはそういったことを意識した上で、考えていかなければいけないのですね。

社会的責任

ドラッカーは再三、組織と社会の構図を話しています。あくまで企業や組織があるのは社会というのです。そして、それにおいて社会的責任を無視することはできないと言っています。

社会的責任の問題は非常に複雑で、時に、良き意図、尊敬すべき行動、高度の責任感さえ、問題を起こしうるところにあるというのです。

 

ウェストバージニア州ビエナの町での話です。この地の経済は20年代末以降石炭産業の衰退とともに、低下の一途をたどっていました。そこでニューヨークに本社をおく大手化学会社ユニオン・カーバイドは、創業当時、同州産の石炭を使っていたため、二、三の大手炭鉱に次ぐ雇用主だった。そこでトップマネジメントは、高失業地域への工場立地を企画します。そこが小さな町ビエナです。その周辺には雇用機会が全くなく、立地できそうな工場は、高コストの特殊鋼工場だけでした。しかも、その工場にとってさえ、ビエナは不経済な立地でした。そのうえ巨額の設備投資をもってしても、多量の灰と煙の排出を避けられなかった。しかし、その工場はビエナの町に1500人の雇用をもたらし、町からそう遠くない炭坑に500人から1000人の雇用をもたらすはずだった。トップマネジメントは採算は限界的であっても社会的責任の観点から工場を建設することにした。そして、工場には最新の公害防止設備をつけた。当時は大都市の発電所さえ、煙突から出る灰の半分を補足できればよしとしていた中で、ビエナの工場は75%を補足する設備をつけた。ただし、当時の企業では、硫黄酸化物については何もできなかった。

 

向上は1951年に操業を開始、ユニオンカーバイトは一躍救世主となりました。政治家、政府関係者、教育関係者はこぞって同社の社会的責任の遂行を称賛しました。しかし、それから10年後、それまでの救世主は公衆の敵となります。環境問題の関心の高まりとともに、ビエナの人たちも灰や煙の苦情を言うようになりました。61年には、反公害つまり反ユニオン・カーバイドを公約に掲げる市長が選ばれ、さらに10年後にはビエナ工場の悪名はアメリカ全土に喧伝されました。

 

確かに企業は経済的な機関で、経済上の課題にのみ取り組むべきなのはもっともである。社会的責任には企業の経済的機能の遂行を損ない、したがって社会全体をも損なう危険があると言い、権限のない領域において、企業のマネジメントに権力を行使させてしまうというさらに大きな危険があると言っています。その反面、社会的責任は回避できないことも明らかである。社会が要求しているからではない。社会が必要としているからでもない。現在社会にはマネジメント以外にリーダー的な階層が存在していないからである。

 

しかし、社会的責任は曖昧かつ危険な領域であるということではない。あらゆる企業にとって、社会的責任は、自らの役割を徹底的に検討し、目標を設定し、成果を上げるべき重大な問題である。そのため、社会的責任はマネジメントしなければならないのです。

 

では、保育において、社会的責任とはなんなのでしょうか。保育園には社会的責任をどうはたすことがあるのでしょうか。そして、その責任はなんなのでしょうか。

人は最大の資産

自分が組織のマネジメントをする上で非常に重要視しているのが、「人事配置」です。年間的に一番の仕事でもあるなと感じることでもあります。人事配置によって、その一年が働いている人たちにとって楽しくなるのか、そうではないのかが決まるとも思っています。しかし、「楽しい」といっても、「ただ楽しい」だけではいけないとも思っています。大切なのは「その一年で、そのチームだったら、自分はなにを得ることができるのだろうか」ということや「そのチームで、どういったことができるのだろうか」といったことを考えることができるようなチーム編成をしていかなければいけないと思っています。そして、そういったマネジメントの課題を働いている人たちが見つけ、乗り越えていく様を見るのがとてもありがたくも思い、うれしくも感じる瞬間であります。

 

ドラッカーは「人こそ最大の資産である」と言っています。そして「組織の違いは人の働きだけである」とも言います。しかし、マネジメントのほとんどが、あらゆる資源のうち人がもっとも活用されず、その潜在能力も開発されていないことを知っているのです。だが、現実には人のマネジメントに関する従来のアプローチのほとんどが、人を資源としてではなく、問題、雑事、費用として扱っていると言っています。ドラッカーは人を資産とすることは実務上の問題や企業の所有物ではないという観点から問題があるともいうが、それでもこの提案には見るべきものがあると言っています。

 

大切なのは人を資産として、考えたうえで実際に実行していくことだと言っています。そして、それはビジョンや態度を変えるよりはやさしいはずです。ではそれはどういうことなのでしょうか。①第一に、仕事と職場に対して、成果と責任を組み込むこと。②共に働く人たちを生かすべきものとして捉えること。③強みが成果に結びつくように人を配置すること。といったこの3点です。

 

これは当たり前といえば当たり前のことなのですが、人を生かすべきものとして扱うことで、その適材適所を図ることができます。それは「ただ楽しいこととしてのチーム」といったユートピアを作ることではない。しかし、それは組織を業績に向かわせるのです。退屈な仕事や人を面白く楽しいものにはしないが、楽しいはずの仕事や人を退屈なものにするのを防ぐうえで大きな働きをするというのです。以前、私の知り合いが職場がかわったことでアイデアが出なくなったと言っていたことを思い出します。元の職場はそのアイデアを面白がってくれましたが、新しい職場はそれがスタンドプレーに見えたようです。こういったことがあるとなかなかモチベーションも上がらず、結果として、その人材がうまく利用されなくなってきます。

 

こういった組織における人事配置は組織の機能や緊張をなくしたり、権力や金に関わる問題を解決することはできないかもしれない。しかし、信頼と成果をもたらす。人を問題、雑事、費用、脅威として見る従来のアプローチを不要にするわけではない。しかし、マネジメントとマネジャーを人事管理から真のリーダーシップへと進ませるというのです。

 

人事配置とマネジメントする側の距離感。とても難しいことですが、このことを追求することは非常に重要なことのように思います。現場が自ら動き、責任ある行動において、マネジメントに何ができるのか。そして、それは企業に限らず、組織を持つうえで考えていかなければいけない内容です。

権限と権力

ドラッカーは「人は最大の資産である」と言っています。現場に責任を持たせることで成果があがるということは長い間知られてきたことであり、いくつかの企業が、取り組んで生きたことでもあります。そして、必ず成果を上げ、組織の体質を強化し、繁栄をもたらしてきました。結果としてマネジメントも強化されてきたと言っています。しかし、実際に行動に移したマネジメントはそれほど多くないとドラッカーは言っています。なぜ、多くのマネジメントにおいて、良いことが分かっていながらも実践がされていかないのでしょうか。

 

その主たる原因が「権限と権力の混同」とドラッカーは言っています。マネジメントは、肉体労働者からも、知識労働者からにも、責任を持ちたいとの要求に対して、それをマネジメント側の権限の放棄を要求するものと誤解して抵抗している。つまり、自らの権限を危うくすると誤解しているため、なかなか現場に責任を与えることを拒んでいると言っています。しかし、権限と権力は異なっており、そもそもマネジメントは権力を持たない、責任を持つだけであるとドラッカーは言っています。その責任を果たすために権限を必要とし、現実に権限を持つ。それ以上なにものももたないというのです。現場側とマネジメント側ではその役割は別であり、その権限によって現場に対しては本来は何も持たないということなのでしょう。マネジメント側が現場に権力を行使することは本来はないのです。

 

しかし、権限と権力の混同によって、マネジメントが自らと自らの組織にとって好ましくない結果をもたらした例は珍しくない。かつて分権化は大変な抵抗を受けました。それはトップマネジメントを弱体化させ、その執権を招くと心配されたためです。しかし、今日ではあらゆるマネジメントの分権化はトップマネジメントを強くすることを学んでいます。分権化によってトップマネジメントはより成果を上げ、本来の仕事ができるようになるのです。そして、トップマネジメントの権限は分権化によって増大するのです。逆に分権化がうまくいっていない場合は、マネジメントはマネジメントの仕事でない活動、マネジメントでは貧弱な成果しかあげられない活動、時間ばかりとられる活動にとらわれ、思ったような成果があげられないと言っています。

 

そして、トップマネジメントがかつて分権化に抵抗された理由はもう一つ。分権化が課すことになる高度な要求を恐れたということにあるというのです。これは働くものや職場コミュニティに責任を持たせることを恐れるマネジメントの抵抗も理由は同じだったそうです。責任を与えられたものは高度の要求をする。自らの仕事に責任を持つものは、マネジメントが報酬にふさわしい仕事をすることを要求すると言っています。

 

ここでドラッカーは大切なことを言っています。「人のマネジメントとは、人の強みを発揮させることである。人は弱い。悲しいほどに弱い。問題を起こす。手続きや雑事を必要とする。人とは、費用であり、脅威である。しかし人は、これらのことをゆえに雇われるのではない。人が雇われるのは、強みゆえであり能力ゆえである。組織の目的は、人の強みを生産に結び付け、人の弱みを中和することにある」というのです。

 

これはチーム保育にも言えることです。チーム保育をする上で、一緒に組む人の相性を見るようにしています。そして、弱みをフォローし、お互いを補いあうことでよりいいチームになるからです。このマネジメントは非常に難しいです。それぞれの人のパーソナリティを見ていかなければいけませんし、うまくそれが作用するかというとそうではないときも多くあります。だからこそ、マネジメント力というのは大切なのだと思います。どう人が動けるような環境を作ることができるのか、それは現場に権力を振りかざして、現場に口出しをするのではなく、現場に権限を持たせ見守るだけの器量も持っていなければいけないのですね。