1月2021

適切な環境と刺激

小西氏は乳幼児位の環境において「適切な刺激」が必要だと言っています。では、なぜそもそも「臨界期」が乳幼児期にあるのでしょうか。これは生物が環境に適応していくために必要なものだからそうです。たとえば、赤ちゃんは日本に生まれたら日本語を学びます。そして、日本の社会ルールを学び、1人の人間として社会に適応して生きていきます。こういった生まれた環境に適応するための高度な能力が「臨界期」なのです。

 

小西氏は著書の中で、人間の発達に適切な環境が不可欠であることを物語る出来事を紹介しています。その一つが有名な「オオカミ少女」の話です。これは1920年孤児院を運営していたシング牧師夫妻が、伝道旅行の途中、原住民族から奇妙な化物の話を聞きます。調査をしていくと、オオカミの洞窟から手足身体は人間で、肩や胸まで髪が覆いつくし、鋭い目つきをした不思議な生き物を見つけます。シング夫妻は彼らが人間の子どもであると見抜くと、自分たちで引き取って、育てることにしました。このとき推定年齢が1歳半のアマラ、もう一人は8歳のカマラです。

 

発見当時、8歳だったカマラは、最初は乳と肉しか摂取しなかったのですが、次第にビスケットやケーキを口にするようになりました。四つん這いで歩いていた歩行も立膝になり、ついには二足歩行ができるまでになります。また、当初は人間社会から自由になろうと抵抗を示しましたが、それができないとわかると受容し、最後には人間的な関わりに好感を持つようになったと言います。しかし、アマラトカマラはシング夫妻の献身的養育にも関わらず、アマラは発見からわずか1年ほど、カマラは9年後に病気で死んでしまいます。

 

シング氏は、著書「狼に育てられた子――カマラとアマラの養育日記」の「遺伝と環境」と題した結論で、「カマラのばあいには、狼の環境の影響がおよそ万能といえるほどで、動物たちの手足と同じようになった彼女の肢体を、人間的生活に必要なように修正し、発達させることさえできなくしたということが、あっきりと立証されている」と言っています。シング氏は乳幼児期に与えられた狼の環境がカマラの人間としての発達を止めてしまったと述べています。この一件により、乳幼児期に発達を阻害する環境に置くことの怖さ、発達を促進させる外的な刺激の重要性が広く認識される一つのきっかけとなったのです。

 

小西氏はただ、この事例は社会的な接触の完全な遮断という極端な事例であり、これを早期教育の重要性に結びつけるのはいささか無理があると言っています。ただ、確実に乳幼児期において、環境の影響というのは大きいことであると思います。以前、私がいた園でもネグレクトの子どもがいました。園にもなかなか来れず、職員の母親に対する働きかけにより、幼児に上がるにつれて、徐々に保育園に来る機会が増えていきました。幼児に上がるにつれて、声を出したり、表情を変えたり、人と関わることが徐々に出てきましたが、知能は5歳の時点で、1歳児と知能障害が出ていたのは間違いありませんでした。ただ、集団の中に入ったことで、急に語彙が増えたり、関わりが増えたことを見ると、心理士の先生が言うには「もともと、知能的なハンデがあったかもしれないが、集団に入る環境にいる時期がもっと早かったら、こういった障害が重くなることはなかったかもしれない」と言っていました。私もそう思います。まさに、環境が適切ではなかったことが発達にも大きな影響を与えるということを知る機会になったのを覚えています。

 

そう考えると、アマラとカマラのように狼に育てられるといった環境はないにしても、刺激がほとんどなく、発達を阻害するという環境が今の時代はないとは言い切れないのかもしれません。

脳の臨界期と刺激

赤ちゃん学会の故 小西行郎氏は脳の臨界期には乳幼児期の脳の発達の仕組みが大きく関わっていると言います。では、その脳はどのように発達していくのでしょうか。小西氏は「簡単に説明すると、人間の脳は、胎児期に脳のもととなる神経板や神経管、神経芽細胞というものができ、それが大脳や小脳、延髄などに分かれて成長していきます。その後、脳の中に神経細胞(ニューロン)が発生して数が増え、他の神経細胞と結合するようになります」と言っています。そして、「脳の中にできた神経細胞が他の神経細胞と結合するときに“シナプス”と呼ばれる部分を介して刺激(情報)を伝達し合います。シナプスを介した神経細胞同士の連携、つまり脳の神経回路(ネットワーク)づくりが、いわゆる“脳の発達”と呼ばれるものです」そして、このニューロンのあたりのシナプスの数は、たとえば、人間の視覚機能をつかさどる脳の部位(視覚部)であれば、生後8か月ごろにピークに達します。そして、その後、どんどん消えて3歳頃には大人と同じ数になります。

 

面白いのは脳の発達は赤ちゃんのときにピークになるのですね。これは一見非効率ではあるのですが、ネットワークづくりの過程でシナプスが必要以上に多く増えるのは、脳の中枢神経に何らかのダメージが発達した場合、ダメージを受けたシナプスなどの代わりをする予備の役目を果たすためだそうです。では、なぜ減っていくのか。それは遺伝的な要因ももちろんありますが、その時点で使われていない不要なシナプスが整理されるためではないかと考えられているそうなのです。このように整理されることで、無駄のない効率的なネットワークがつくられていくのです。このことをシナプスの「過形成」と「刈り込み」と呼びます。

 

このようなことを受けて、早期教育肯定派の人たちは、このシナプスの数が最大になる乳幼児期にたくさんの刺激を与えて、色々な才能を伸ばしましょう(たくさんのネットワークを作りましょう)という解釈になるのではないかと小西氏は言っています。しかし、これは大きな誤解を生むと小西氏は言っています。それは脳のメカニズムや「臨界期」の関係はまだまだ研究が進められているところで、実はまだわかっていないのが現状なのです。そして、シナプスの話で言うと、20歳くらいまでシナプスの数が増え続ける脳の部位もあり、一概に乳幼児期でピークになるわけでもないそうです。逆に刈り込みがうまくいかないで、シナプスの数が多いままであるとADHD(注意欠陥多動性障害)の原因になるのではないかという研究もあります。

 

実際、このことで、一時期赤ちゃんが前を向く抱っこ紐が注目されたときもありました逆に刺激が強すぎるがゆえに子どもが落ち着かなくなったということで無くなったということも言われています。一概に刺激があり、シナプスの数が多ければいいというわけでもなく、大切なのは「適切な刺激」をあたえ、シナプスの刈り込みを適切に起こすことが重要なのでしょう。小西氏も「乳幼児期の脳に刺激が不要と言いたいのではありません」としてます。そして、「過度な刺激は科学的な裏付けがされていないだけに、その効果や安全性を保障できるものではない」というのです。

早期教育とは

脳科学の発達により、子どもたちの保育環境や早期教育においても、考え方は変わってきています。声高に子どもの早期教育について「売り」にしている幼稚園や保育園がいまだある中、では、実際子どもたちにおける早期教育がどのように子どもたちに影響が出るのか。子どもたちの頭の中でどのようなことが起きているのでしょうか。「最近の早期教育の特徴は、子どもの“脳”のみでとらえる論調にある」と小西行郎氏は言っています。彼は、日本の小児科医であり、保育学者であり、2001年に日本赤ちゃん学会を創設しました。惜しまれるも2019年にお亡くなりになられました。

 

そんな小西氏はこの「脳」のみでとらえる論調は子どもを「勉強ができる・できない」で判断する偏った見方を促し、結果的に子どもから“子どもらしさ”を奪うことになるのではないかと言っています。確かに日本ではまだまだ学歴というものは根強くありますし、「何をまなんだ」か「何をまなびたいか」よりも、どこの学校を出たかは未だ注目されます。そのため、勉強の目的においても、「学びたい」と意欲のあるものではなく「成績」が重視されるところが多くあるのかもしれません。結果的に小西氏が言うような「“子どもらしさ”を奪うことになる」というのでは、果たして子どもたちは「豊かな人生」を送れるということになるのでしょうか。

 

日本においては、早期教育はどういった捉えられ方をしているのでしょうか。小西氏は早期教育は「三歳児神話」と相まって、一種のブームといえる状況にあると言っています。現在ではこれまでの「天才児を育てる」と謳って、スピードを競って集中力や記憶力を高めることに重点を置いた早期教育だけでなく、キャラクターを使い、ゲーム感覚で子どもの判断力、思考力、創造性を養うことを目的とした塾や教材も増えてきていると言います。小西氏はこういったものに保護者がこぞって早期教育への意欲を見せる様子に「乳幼児の子育てはもはや“育児”ではなく、いかに頭のよい子ども、勉強のできる子どもを育てるかが目的になっているとさえ感じられます」と言っています。とかく、共通しているのは「育脳」をキーワードにした教材や塾が多いのです。

 

こういった早期教育において、切っても切り離せない関係にあるのが、「臨界期」という考え方です。小西氏はこの「臨界期」は「簡単に言えば、生き物の発達過程において、ある時期を過ぎると、ある行動の学習が成り立たなくなる限界の時期」のことを指すと言っています。この概念は、ノーベル医学・生物学賞を受賞した動物学者コンラート・ローレンツ博士の「刷り込み=インプレインティング」理論にさかのぼります。「刷り込み」とはふ化直後のハイイロガン(雁の一種)の雛が最初に見た動くものを母親だともってついて歩くという習性のことで、孵化直後の一定期間しか起きないことを指します。この一定の期間が「臨界期」に該当するという考えです。

 

この「臨界期」は、乳幼児期の脳の発達の仕組みが大きく関わっています。

コーチングから見えるもの

これまで、鈴木義幸氏の「コーチングが人を活かす~気持ちと能力を高める最新コミュニケーション技術~」という本を中心にコーチングについて考えていきましたが、特に印象的だったのが「なぜからなに」でした。確かに「なぜできなかったのか?」と問いかけるより「何がダメだったんだろう」と問いかけたほうが、相手と共に考える姿勢に自然となっていきます。たった一つの言い回しであり、伝え方でありますが、その裏にはとても大きな「共感」を感じます。保育においても、組織づくりにおいても「共感」はとても大切なキーワードになってくるでしょう。そして、その「共感」は「承認」につながっていきます。そして、「承認」は「自己肯定感」につながり、そこから組織がまとまり、ポジティブな雰囲気ができてくる。といったように、小さな問いかけの違いが大きなうねりのような雰囲気づくりにつながっていくのでしょう。

 

また、失敗する権利においても、今一度考えを改めてることが重要になってくるように思います。確かに鈴木氏が言うように日本は「失敗させない」文化は根強くあるように思います。私は常々思うのですが、「失敗」というのは日々何かしらの形で起きているものです。しかし、その失敗を「ただの失敗」と捉えるのか「つぎにいきるもの」と捉えるのかで、その結果は大きく変わっていくのだろうとおもいます。先日、職員と話していると「怖い」といわれることがありました。多少なりとも凹むものだったのですが訳を聞いてみると、自分の伝え方であったり、職員間での関係性であったり、さまざまな理由が見えてきました。そういった意味では思い切って「どういったところが怖いと感じる?」と聞いてみたことで、色々な視野が広がってきたように思います。職員を信じて、自分をさらけ出して見ることで、改めて自分の問題点を見出すということも大切なことのように思います。

 

このようにコーチングを考えていくなかで、感じるのが、やはりそこで起きるテクニック的な考え方は「見守る保育」につながるということです。見守る保育においても、相手への共感することや共視、共食といったように「共に」という言葉が多くあり、子どもと目線を合わせたり、同じ時間を共有したりするということが大切にすることが中心にあります。そして、上記で話した「失敗する権利」や「なぜではなく、なに」といった関わりも保育に大きくつながる内容です。つまりは、保育においても、大人のコーチングについても、言えることは人が一つに集まり、共に生きていくためにする関わり方というものは繋がるのではないでしょうか。以前、ここで紹介した「メンタルヘルス」の内容や「礼儀の正しさこそ最強の生存戦略」でも、同じことが見えてきます。

 

最近ではこういったコーチングやメンタルヘルスのビジネス書がたくさんあります。その中身を見ていると、どうも中心にあるものは皆共通しているように思います。「承認」「共感」「自己肯定感」といったことは子どもも大人にとっても重要なものであるということが見えてきます。そして、その環境が少ない、又は作るのが難しいということが世の中に多いからこういった本が多数出版されるのでしょう。その意味を考えると、大人になってからこういったことに悩む人が多いのだろうと思います。そのことを捉えると保育という仕事の示す意味と重要性がより鮮明に見えてきます。

意見を言う

組織的に集団で動こうとすると、どうしても行われることが多くなるのが「会議」です。保育をしていく中でも、「職員会議」をはじめ、「クラス会議」「行事の会議」など、日々様々な会議が起きています。先日、ある職員と話をしている中で、「最近の会議はどう話合えてる?」ということを聞いてみました。すると、「割と最近は自分の言いたいことが言えるようになってきました」という言葉が返ってきました。これは、逆にこれまでは「言いにくかった」ということを意味しています。

 

鈴木氏は組織における個人のウェルビーイングに関して、様々な提言をしている石川善樹さんの講演での一言を紹介しています。そこにはこうあります。「“信用は理性的な判断だけれども、信頼は感情的な結びつき”―――だから“彼の能力は信用しているけれども、人としては信頼しきれない”という表現が成り立ちます」これは逆もあり“彼という人間は信頼しているけれども、彼の仕事の正確性を信用してはいない”ということです。また、これとは別に「信頼と信仰の違いというのもありますね」と石川さんは言います。そして、こう続きます。「信頼も信仰も“感情的な結びつきがある”という意味では同じ、しかし、信頼は異論反論を許すけれど、信仰はそれを許さない。異論反論を許し合ってこそ、本当の意味での信頼が醸成される」と言っています。

 

これは様々なミーティングや会議で意見においても、影響があると言っています。「自由な発言するには安心感が必要です。」「安心感は信頼感をもとに生まれるものです。」「信頼は異論反論を許し合う中でこそ育まれる。」つまり、日ごろから「異論反論を投げかけても大丈夫だ」という双方の体験が信頼を作り、安心感を生み、自由な発言を可能にするということにつながると鈴木氏は言うのです。

 

では、異論反論を許し合うということはどういうことを言うのか。これは意見を避けたり、かわしたり、つぶしたりすることでも、ただ賛成することではありません。あくまで「チームや組織の発展」という共通の目的に向けて、大切な貴重なかけがえのない情報として扱うようにコーチである人は意識しなければいけないのです。

 

そう考えると職員が「意見が言えるようになってきた」という言葉には職員関係における信頼関係ができるようになってきたということが言えるのでしょう。ただ、そういった職員はひとりではなく、隠れていることが多くあります。コーチはそういう状態において、一人一人の様子を観察し、各々が主体的に動くことや意見が言えることができるような環境作りをしていくことが求められていくのでしょうね。