臨界期と本当に必要なこと

澤口氏は子どもにとって脳科学の観点から育児環境において刺激のあるものに影響が出てくるということを言っています。これは「臨界期」に早期教育が必要だという風に捉えられるように見えます。しかし、澤口氏はこういった赤ちゃんにおける育児環境に影響があるという一方で、子どもが「得意とする知性」を発見し、「熱中することや喜ぶことをさせる」ことが大切であり、そうでないなら「英才教育などしない方がマシなくらいだ」とも言っています。また、「IQ偏重の英才教育」は無意味で、「幼児教育の『基本』は多重知性(ガードナーの多重知性理論をもとに澤口さんが提唱する、人類が持つ基本的な8つの知性のこと)の各々をまんべんなく育てることにある」とも言っています。そして、「特定の知性を英才教育で伸ばすことも考えるべき」とも言っています。このことから見ても澤口氏はどうやら、「絶対音感」や「ネイティブのような英語力」を育てるような早期教育の重要性を単純に説いているというわけではないことが分かります。

 

しかし、澤口氏の発言や仔猫の実験やラットの実験は子の教育において非常に衝撃的であり、「臨界期」がどういったものであるかということよりも、都合のいい部分だけが独り歩きしてしまっているのです。そして、一番問題なのは子ども自身がそれを望んでいるのかということです。澤口氏もいうように「得意とする知性」や「熱中することや喜ぶことをさせる」ということが根底になりと、それはただの作業となってしまい。意欲のある活動にはつながらない。このことも澤口氏は言っています。

 

小西氏は「科学者から『臨界期』についての研究が発表され、その『学習効果』が伝えられたために、子どもそっちのけで様々な議論が起こり、今日に至っているのではないでしょうか」と言っています。大人の親心が子どもたちにとって「余計なお世話」になることの危険性はこれまででも話の中に上がってきました。親が思う環境と子どもが望んでいる環境とは違いがあるのかもしれません。そのため子どもを「見守る」という姿勢は非常に重要な要素をはらんでいるように思います。

 

「教育」や「保育」というものも、それは例外ではなく、「教えなければいけない」と大人が思うものと子どもが「知りたい」と思うものが違う場合があります。「教えなければいけない」内容が多くなるがゆえに「勉強嫌い」の子どもを量産しているようでは何にもならないのです。そして、それは同時に「自分が知りたいもの」を探す力すら奪っているように最近は感じます。大人が子どもたちに対して「楽しませる」ことが多くなり、子どもたちが「楽しむ」ことを受動的になっている時代にもなっているように思います。工夫をすることをしなくてもいい時代になってきているように思います。

 

これからの時代は自分たちで新しい価値観や概念を生み出すことが求められる時代です。そんな時代に大人はどのような環境を子どもたちに用意することができるのでしょうか。そのためにも、様々な研究やデータをただ鵜呑みにするだけではなく、あくまで目の前の子どもたちを中心に研究やデータを当てはめて考えていく姿勢が求められるように思います。