失敗する権利

「失敗」という言葉を聞いて、どう思うでしょうか。日本人の多くは「失敗は成功のもと」という言葉が浮かんでくる人が多いのではないでしょうか。しかし、その反面、では、たくさん失敗してきたかというとどうでしょう。もちろん社会で生きていくためにはたくさんの失敗を経験してきますし、そこで学んだことも多いように思います。しかし、最近の保護者を見ても、社会における子どもの教育や保育においても、「失敗させない」ようにする環境が多いように思います。そして、その感覚は結果として「お節介」を生み、子どもたちの主体性を阻害していることが多いのではないでしょうか。

 

このことについて鈴木氏は「日本の親は子どもを失敗させないようにする傾向が強い」といっています。確かに、保育環境や保育形態を見ていても、私が見学に行ったドイツやオランダと日本を比べると日本はかなり子どもたちにとって過保護な環境が多いように思います。鈴木氏もこんなことを紹介しています。ある1歳の息子を持つ女性が言った言葉で「アメリカ人のお母さんて、こっちが冷や冷やするくらい子どもに自由に遊ばせるよね」と言っていたそうです。この言葉はまったく私がドイツの保育を見たときに同様のことを感じました。アメリカ人の親は、子どもが小さい頃からなんでもやらせようとするそうで、「成功するにはその前提として失敗が不可欠である」という考えがあるからだそうです。

 

このことと比べると日本の場合は「子どもを失敗させないようにする傾向はつよい」かもしれませんね。また、この傾向は日本の社会においても一般的に失敗には寛容ではないように思います。このことに対しても鈴木氏は例に日本では倒産させた経営者は表舞台に復帰するのは難しいことに対して、アメリカでは倒産させたこと自体がかけがえのない経験として扱われるという対比を紹介しています。鈴木氏はコーチングにおいて「失敗する権利をもっと与えたほうが良い」と言っています。そして、「失敗する権利があることで、相手の自発性を生み出す」と言っています。逆に失敗する権利がないところでは、行動がどうしても「しなければならない」の連続になり、自発性よりも義務感を助長するというのです。

 

ここで考えられるのが失敗できる権利というのはすなわち、失敗しても大丈夫な環境を同時に意味するのではないかということです。こういった寛容性がコーチングにも必要なことだということを同時に話しているのだと思います。いわゆる「安心基地」ですね。「相手をフォローしサポートし続けること」などは、そのまま保育と同じことを話しているように思います。社会でコーチングというものがこれほど取り上げられている背景には人の問題解決において、社会構造も保育も大きくは変わらないのかもしれません。人とどうかかわるのかその根底は共通することがいえます。あくまで相手を尊重し、1人の人格者として認める。そして、ともに歩む姿勢をどう作っていくのか、このことを考えるとコーチングというのは見守る保育そのもののように感じます。