8月2020

近隣諸国を見て

最近ニュースを見ていると、中国の尖閣諸島問題や韓国の慰安婦、GSOMIAの問題など、周辺諸国との問題が日本では多々あります。反日が起きているということもニュースなどで放送されているのを見ると日本と各国はあまりいい関係ではないのかもしれないと感じます。日本の中でも嫌韓、嫌中は起きていますし、私自身も国としてはあまりいいイメージがないのは事実です。

 

そんな中、昨年や一昨年は韓国や中国に行く機会が少しありました。見守る保育を伝えることや現状の各国の保育がどういったものかを知る一つの機会として、上海と威海、韓国にも行く機会がありました。実際のところを言うと、どの国も保育や教育については非常に強い関心があり、国の事情も相まって、かなり試行錯誤しているという現状があるということです。韓国ではかなり強い受験戦争があり、教育や保育においても子どもたちは勉強に向かうということをかなり強く意識させられているということでした。そして、保育においても、私立と公立とでは少し格差があるようでしたし、実際に社会に出るときに失業率の高さや就職難といったものがかなり重くのしかかっているようです。一方、中国では、少子化がかなり進んでおり、一人っ子政策の余波もかなり大きく出ているそうです。学習格差も大きく、子どもたちは大人に対し少ないので、家庭ではまるで「皇帝」のようだと言われることも多いようです。

 

しかし、中国においても、韓国においても、トップクラスの学校の学力は高いことがあります。その反面、若者の非認知スキルにおいては課題があるということが見えてきたそうです。そこで「見守る保育」というものが注目され、各国からも藤森先生が講演を依頼されることが多くなっています。意外にそれぞれの国の個々の人を見ていくとそれほど、反日という印象は受けませんでした。

 

どの国も子どもは将来の人材であるということには気づいていますし、保育はその人材を作るために非常に必要なコンテンツであるということに気づいています。そして、私が感じたのは社会主義国ならではのスピード感です。保育をかえるということに一度なると、一斉に変わる様相は日本とは大きく違います。

 

こういった海外研修を受けると日本は教育については2週遅れていると揶揄されているということがよくわかります。教育に向かう国を上げた姿勢は海外に比べると遅いように感じるのです。このままの姿勢で保育や教育が進んでいくとこの先かなり苦しい時代に日本は突入していくのではないかと感じざるを得ません。

 

これまでの非認知能力や遊びの意味、これまで保育の中でも「通説」と言われたことが大きく変わってきている時代になっているように感じます。そんな中、現場を担う人材はよりそのことを強く感じなければいけないのではないかと思います。これまでの「当たり前」はこれからの「当たり前」とは大きく違うということを考えなければいけません。

遊びと質

私には趣味があります。その趣味自体は大阪の園に戻ってきたときから始めたもので、始まりは非常にシンプルに「誘われた」ことがきかっけです。それまで運動ということをそれほど、真剣にやってきたこともなく、「打ち込む」というほどやっていなかったのですが、どうやらその趣味は私の性にあっていたようで、今で6年くらいなるほど続いています。

 

これまで「遊び」ということを取り上げていましたが、大人になっても「遊ぶ」ということの大事さは身に染みて今感じているところです。職場ではいろんなことが起きます。それこそ、どうにもならない問題から、長期的に考えなければいけないパターン、逆に短期的に考えなければいけないパターン、自分自身の間違いなど、その問題は多種多様であり、仕事にはつきものです。

 

おそらく、一日一日そのことを考えることも多くあり、ネガティブに考えていくとずぶずぶと深みにはまっていくことも多くあるように思います。以前、youtubeで東進ハイスクールの林修氏がモンスターペアレントに話をするテレビ番組が紹介されていました。その時に話していたことですが、「有名な学校の教師とそうでもない学校の教師には大きな違いがある。有名な学校の教師は大体3時には帰って、その後の時間は自分の趣味や余暇、教材研究につかう。そして、その場で得た知識や活動を通して魅力が増していく、魅力が増していくと生徒もその先生から学ぶことが楽しくなってくる。というように、ポジティブな展開になっていく。一方で、そうでもない学校の教師はなかなか帰れない。」と言っていました。

 

そして、「帰れない理由は、生徒指導に多くの時間を取られるからだ。」と言っていました。親の苦情や生徒の素行など、今学校で教師が行っている業務は非常に多岐に渡ると言っています。そこに時間が大きく使われているため、通常の教材研究に時間が割けなかったり、自分の趣味に時間がさけなかったりするそうです。結果として、学校の授業自体が停滞したものになるそうです。

 

どこかで、趣味をすることや何か新しいことを考える時間があることは非常に重要なことのようです。ニューズ番組においても、今の時代、学校の教師が行わなければいけない職務というものは非常に多いということが言われています。そして、そのために肝心の授業への準備の時間を削らなければいけないとも言われています。まだ、私はこういった趣味の時間を持つことができていますが、それができないとなると、もしかしたら、いまのような働きかたはできていないかもしれません。

 

働き方改革ということが叫ばれていますが、それはただ単なる「働き方を見直す」ことではなく、「働く意味」を考えなければいけないのだろうと思います。教師や保育士は「人を作る」「人材を作る」仕事であると思っています。そのために、それを伝える教師や保育士こそ、「にんげん」を知る必要もあるように感じます。そして、子どもたちにとって、「遊ぶ」ということは罪悪のように言われるときがありますが、その必要性を考えるとその意味合いもしっかりとどういった意味があるのかを考えていかなければいけないように思います。幸い、今の時代、これまでブログで紹介してきたように、さまざまな研究がいたるところで行われており、その内容を知ることもあります。こういった研究を知ることでより「人間」を知る機会が得やすいように思います。こういった情報を捉え、保育や教育を考えていきたいですね。

遊びから得るもの

「遊びが不足すると問題解決スキルの発達も妨げられる」と1978年のDevelopmental Psychobiologysに発表されました。そこでは隔離されたラットと制約なく自由に遊ばせたラットのグループの両方に、おやつを手に入れるためにゴムボールを引っ張ってどかす訓練をしました。数日後にはおやつを手に入れるためには今度はボールを押さなければならないように変えます。すると、隔離されていたラットは遊ばせたラットよりも、新しいやりかたを試みるのに、はるかに時間がかかったのです。この論文の著者は遊びを通して新しい試みをすることを学ぶのだろうと推測しており、遊ばなかった動物は行動の柔軟性を獲得しなかっただろうと考えました。

 

ほかにも2007年の研究では遊びは言語発達も助けるとワシントン大学の研究者が発表しました。18ヶ月から2歳半の子どもたちに対して、積み木の箱を与え、その子どもたちの親と、積み木を与えなかった同様のグループの子どもたちの親に、どれくらいの頻度で子どもが遊んだかを記録し続けてもらいました。6か月、積み木で遊んだ子どもは、他の子どもたちよりも、言語テストの得点が明らかに高くなったのです。しかし、この子どもたちの言語発達には注意点があると言っています。それは積み木をすることでテレビを見るなどの非生産的な活動の時間が減ったからではないかという懸念もあるからです。

 

いずれにしても、「遊び」は様々な面で子どもの頭をよくするかもしれないと言っています。動物研究者は遊びとは予測していないことに対処する一種のトレーニングとして役立つと考えています。

 

コロラド大学の進化生物学者 ベコッフは「遊びは柔軟性と創造性を培い、それが将来の予期せぬ状況や新しい環境において有利にはたらくかもしれない」と言っており、タフツ大学の幼児発育の専門家エルキンドは「遊びを通して子どもは学ぶ。だから、遊びがないと、子どもは学習体験を逃すことになる」と言っています。

 

遊びがあるからこそ、学びがあるのですね。私たちはつい遊びと学びを切り離して考えてしまいます。親心から子どもに様々な経験をさせようと習い事をさせます。しかし、それはこどもが主体的にやることでもないですし、それ以上に子ども同士で関わり合いながら遊ぶことの方がより大きな学びになり、将来への大きな投資になるということが分かりました。そして、それは創造性や思考力、社会性や問題解決能力とどれをとっても、現在社会において必要とされるスキルです。そして、現在社会において不足しているスキルとも言われています。そう考えると今の時代子どもたちの遊ぶ時間というのは大きく削られてしまっているのかもしれません。遊ぶ時間以上になにかを「やらなければならない」時間の方が多いのかもしれません。しかし、それが今後の子どもたちにとって本当に必要なものかどうかを思うと考えさせられます。こういった研究を含め、今乳幼児教育でどういったことが求められているのか改めて考えなければいけない時代になっているように思います。

創造的思考

子どもたちの自由遊びはストレスの緩和と社会的スキルに影響を与えるのが分かってきました。ほかにも「遊ぶ」というのは創造的思考や問題解決能力にもつながるということが分かってきました。

 

これは1973年 Developmental Psychology誌に掲載された研究ですが、研究者は90人の就学前児童を3つのグループに分けました。そして、①ペーパータオルの山やドライバー、木の板、クリップの山といった日用品で自由に遊ばせるグループ ②その4種類の品物を使用する実験者の真似をさせるグループ ③テーブルに座って、何も見ずに自由に絵をかかせたグループ とそれぞれ違った遊びをさせました。10分ほどこの活動をした直後、これらの品物の一つを指して、それをどう使うかを子どもたちに考えてもらいました。

 

すると、品物で遊んだ子どもは平均すると他の2つのグループの子どもの倍も一風変わった創造的な使い方を挙げました。つまり、自由に遊ぶことで、子どもたちの創造的思考が伸びたのではないかというのです。

 

ほかにも戦闘ごっこも、問題解決能力を育てると言っています。1980年にペレグリーニが発表した論文によると、小学校の男児のうち、大暴れして遊んだこの方が、社会的な問題解決のテストでの得点が高かったのです。そのテストというのが、研究者が子どもたちに対して、「仲間の子どもからおもちゃを手に入れようとする子どもの写真5枚と、母親に叱られないようにしている子どもの写真5枚を被験者の子どもたちに見せ、それから被験者の子どもたちに、それぞれの社会的問題を解決できる方法をなるべくたくさん挙げてもらった。そして、その結果を戦略バラエティに基づいてスコアを決めたところ、戦闘ごっこをした子どもはスコアが高い傾向があったのです。

 

オモチャを自由に使うことや戦闘ごっこなどを子どもたちが自由に遊びながら進めていくことで、創造的思考にも大きな影響が出ていたのですね。そう考えると、普段現場で起きている子どもたちの遊びにはそれぞれ意味があるように思えてきてなりません。本当に無駄な活動をしていないだろうとも思います。自分が子ども時代においても、戦闘ごっこのようなものをしていました。そこでは特に創造的な思考を駆使した覚えは全くもって感じてはいませんでしたが、後々のひらめき力や創造的な思考というのはその時に養われていたのかもしれません。「遊ぶ」というのは一見単純に見えますが、その裏には子どもたちが社会に出るときに必要となる力を同時に遊びという活動を通して、培っているのですね。

 

では、逆に遊びが不足すると問題解決スキルの発達がさまたげられるのでしょうか。

遊びとストレス 2

遊びがストレスや不安を軽減するということが分かってきましたが、それ以上に興味深いのは仲間と遊んだ子どもより、一人で遊んだ子どものほうが、より一層落ち着いたということです。そして、一人で遊んだ子どもは空想的な遊びを通して、子どもは幻想を築きあげることができ、それが困難な状況に対処するのに役立ったのだろうと研究チームは推測しています。空想的遊びはひとりでいるときに最もうまくできるのです。

 

空想遊びは子どもたちの発達にとって大切な意味があるのですね。ここでは「空想遊びは幻想を築き上げることができ、それが困難な状況に対処するのに役立った」と研究チームが推測したとあります。子どもたちは様々な部分で見立て遊びをすることがありますし、空想上の遊びをします。子どもたちの遊びの様子を見ていると、まるで将来自分が大人になったときの予行練習をしているように感じます。以前にも、ブログに書きましたが、ごっこ遊びやままごと遊びなどは役割を交代したり、時に負けたりと、人との関わりの中で起きることですので葛藤も同時におきます。そのことが大切なのと同時に、今回のように一人で行う空想的遊びはそういった葛藤は起きません。その中で自分なりに想像力を働かせ、自分の思うように遊ぶということは確かにストレスを緩和することにも繋がるのだろうと思います。

 

この遊びがストレスを緩和するいうのはラットを使った動物実験でも実証されています。2008年にゲティスバーグ大学の神経学者シヴィ氏の研究で複数のラットを一つの箱にいれて、猫がつけていた首輪を箱の中にいれる実験をしました。はじめ、その匂いを感じ、ラットが不安を示したのですが、その後、箱を清掃し、ラットを戻しても、ラットは不安を示しました。おそらく、箱といった場所と猫を関連付けたのでしょう。ところが、その箱に不安を感じているラットと不安を感じていないラットを入れると、追いかけっこしたり、転げまわったり、じゃれあったりと遊び始めました。そして、不安を感じているラットはリラックスし、穏やかになったのです。つまり、遊びがラットの不安を軽減させるのを助けたと思われるのです。

 

どの動物においても、「遊び」という活動は大きく影響しているのだということがわかります。これはマシュマロテストと同様の意味合いもあるのかもしれません。つまり、「遊ぶ」という活動を行うことで、「気を紛らわせている」のでしょう。気を紛らわせることで、目の前にあるストレスを緩和し、実行機能を使って切り替えているのだろうと推測できます。なににおいても、どうやらストレスと遊びというは大きな関連があるのですね。