なぜ、4月入学?

最近、新型コロナウィルスの流行によって、小学校の入学を4月ではなく、9月にすればいいのではないかという議論が起こっています。私個人の見解としては、4月でも、9月でもどちらでもいいのですが、子どもたちの発達のスピードや教育の理解度によって、進級や進学が保証される教育現場に変わっていってほしいものだと思っています。これは前回紹介した「早生まれの不利」にもつながる話です。分からないまま、自動的に進んでいく教育体制自体がおかしいのではないかと思います。日本国民は全員に適切な教育を受けることができるはずなのに、そうではないということは前回の内容に書かれています。まだまだ、日本はそういった保証がうまくできているようには感じません。

 

さて、この日本の「4月入学」という話ですが、ではなぜ、日本は4月入学なのでしょうか。元々日本における学校は寺子屋・藩校・私塾というのが中心でした。有名なところで行くと藩校は薩摩藩や会津藩などが有名であったように思います。私塾で言うと吉田松陰の「松下村塾」などが有名ですね。これらの学校では入学の日というものは特定されておらず、随時入学することができました。なぜなら、この時代、子どもは大切な働き手です。そのため、入学する日も各々の事情によりバラバラだったのです。また、時間割も決まっておらず、子どもたちは学びたいときに学びたい時間だけ学ぶということが主流でした。

 

その様相が変わったのは明治維新です。西洋文化が入ってくるようになり、西洋の教育体系が日本でも導入されました。そのころ、高等教育の入学は9月入学だったようです。では、なぜ4月になったのでしょうか。これにはいくつかの説があるみたいです。

 

一つは明治19年(1886年)に国の会計年度が3~4月に行われるようになったことです。「会計年度」とは、歳入・歳出の区切りとされる機関のことで、通常1か年を1会計年度としています。『明治財政史』には明治元年(1868年)までは「旧暦1月―12月」で会計を区切っていました。しかし、明治2年(1869年)に国が官公庁が予算を執行するための「会計年度」の規定を設け「旧暦10月―9月」としました。その後に改暦されると」「1月―12月」「7月―6月」などと変更され、明治19年(1886年)に「4月―3月」になり今に至ります。

 

では、最終的になぜ4月になったかというと、主な理由は日本が稲作をしていたことが大きな理由です。つまり、当時農家が多く、政府の税金収入源は米だったため、秋に収穫した米を現金に換え、納税されてから予算編成をしていくには、1月はじまりでは間に合わなかったからなのです。

 

もう一つの説が軍との関係です。明治19年(1986年)12月、徴兵検査を受ける義務のある満20歳男子の届け出期日が9月1日から4月1日になりました。それによって、東京教育大学(現 筑波大学)の前身の高等師範学校が4月入学に変わりました。それ以降、多くの学校が4月入学に変えています。徴兵検査に対応して、入学時期が変わった理由について船寄俊雄・神戸大学教授は「当時の高師と師範には20歳以上の新入生がおおく、9月入学のままだと優秀壮健な人材が先に陸軍に取られてしまう。軍との人材獲得競争だった」と言っています。「4月はじまり」は教育効果への期待というより、軍や役人の都合によって定められたのが実情だったというのです。

 

4月入学の理由は稲作による税収であったり、軍の徴兵によって決まってきたのですね。現在、日本はここで出てきた理由とは生活スタイルが大きく違います。多くは農業をやっているわけでもなく、徴兵もありません。子どもたちが働かなくてもいい時代です。であるならば、より教育効果にあった入学時期や教育スタイルに変えてもいいのではないでしょうか。そして、本来として「子どもたちの利益」になるような判断がされることを今の時代行う必要があるように思います。