適正検査と卒業

『本物の教育』を書いたマレーはアメリカ国内では最も有名な認知決定論者でもあります。彼の論旨は知識至上主義(重要なのはIQであり、それは人生のかなり早い段階で来ますという考え方)の一つの形に過ぎない教育とは、スキルを身につけさせるものではなく、人々を選り分け、高いIQをもったものに潜在能力をフルに生かす機会を与えるものであるとしていました。しかし、ボーエンらがデータをよく観察してみると、低所得層の学生が大学を選ぶときに無理をして背伸びしているわけではないことが分かった。それどころか、実際には彼らの多くが自分の評定平均や共通テストの結果よりずっと低いスコアで入れる大学を選んでいた。このように「アンダーマッチング」というこの現象は、裕福な学生のあいだではあまり見られなかった。不利な状況にある生徒に限定された問題だったのです。

 

ボーエンやマクファーソンらがデータを分析していたところ、一流大学に入れるほど学力をもった富裕層の学生の4人に3人がそのとおりに進学しました。しかし、同等の優秀な成績を修めながら、親が大卒者でない生徒の場合には、3人に1人しか一流大学に進学しなかった。しかも、難易度の低い大学を選んだからといって、こうした学生たちが大学を卒業する確率が上がるわけではなく、むしろ逆効果だったのです。3人が発見したところによれば、アンダーマッチングは確実に大きな間違いでした。

 

また、他の発見もあります。学生が大学をきちんと卒業できるかどうかを予測する正確な指標は、入学のためにうける二つの共通テスト(SATとACT)の結果ではなかったのです。実際には、最難関の公立大学でないかぎり、ACTのスコアは大学を卒業できるか否かとはほとんど関係がなかった。それよりはるかにデータとしてあてになったのは高校時代の評定平均だったのです。

 

このことは大学入試に関わる人にとってショッキングな内容でした。なぜなら、このことはアメリカ社会にあった能力主義の精神に反するからです。そもそも、このSATという大学進学適性検査が開発されたのは、高校の成績で先を見通すのは無理ではないかという疑念が大きくなったからです。様々な広い地域のあるアメリカで、どうやって学力を比べるのかという問題を解消しようと、大学でやっていける能力を一つの明白な数字へと純化する客観的なツールとしてつくられました。

 

しかし、ボーエンとチンゴスとマクファーソンが調べたところによると、SATやACTよりも、高校の成績こそが、卒業できるかどうかを見分ける正確な指標であったのです。確かに名門校と教育困難校の平均評定が同じだと、名門高校のほうが卒業できる可能性は高いのだが、どの差は意外にささやかだったのです。そして、彼らは「高校の成績が非常に良かった学生の大多数は、たとえその高校が困難校でも、どこであれ入学した大学をきちんと卒業した」と言っています。

つまり、卒業するということは学生の頭のよさとは別のところにあるのだということが分かります。このことをダックワースも調査をしていくなかで、同じような結果を見つけていきます。そして、その結果の中で、やり抜く力と自制心との関係を改めて見つけていきます。