大学の問題➁

アメリカの大学において、入学よりも卒業に限定や不平等の問題があったというのですが、それはいったいどういうことが限定であり、不平等であるといえるのでしょうか。OECD(経済協力開発機構)の加盟34カ国のなかで、大学への入学率が8位というアメリカですが、卒業率からいうと下から2番目で、うしろにいるのはイタリアだけでなのです。そう遠くない昔、アメリカは大学の卒業生を生み出すことにかけては世界をリードしていました。しかしそれが今では、大学の中退者を生み出すことで世界をリードしているのです。

 

ただ、不思議なのはこういった現象が大学教育の価値の上昇と同時に起こっている点だというのです。つまり、中退者が世界でも多く出ているのだが、大学の価値は上がっているというのです。アメリカで学士号を取ると、高校の卒業証書しかもたないアメリカ人と比べて83%増しの収入を期待できるのです。これは経済学者に言わせると「学歴間経済格差」という用語になりますが、先進国の間ではもっとも高い数値で、40%しか差のなかった1980年以来急激に増えました。

 

ということは、やろうと思えばできるのに、大学を卒業しない今日のアメリカの若者は「大量の札束を道端に置き去りにしているようなもの」なのです。では、なぜ、学位にこんなにも価値があることや、アメリカ以外の国では大卒者が急増しているのに、アメリカの学生が中退するのでしょうか。

 

この疑問への最良の答えとなるものが大学の元学長であり経済学者でもあるウィリアム・G・ボーエンとマイケル・S・マクファーソンが共著した2009年の『ゴールラインを越える』にでてきます。そこでは、どの生徒が無事卒業したか、どの生徒が中退したか、そしてその理由に関するものが書かれており、それは驚くべきものでした。それは特定の楽器に中退者が多い現象について、学生側、特に低所得層の学生が抱く非現実的で過度な期待に問題があると説明されていました。チャールズ・マレーが2008年に書いた著書「本物の教育」には「アメリカの高等教育の本当の危機は大学教育を受けられる若者が少なすぎることにあるのではなく、多すぎることにある」と論じています。そして、アメリカ人にはもともと「教育にロマンティシズムを求める」傾向があり、このため学ぶ能力が足りないだけの学生まで大学に押し込もうとするとマレーは書いています。そのため、高校の進路指導にあたる教員や大学の入学許可にかかわる職員が「希望的観測、婉曲表現(えんきょく:遠回しな表現)、善意の平等主義の霧」の中で道を失い、IQの低い低所得層の学生に知的な負荷の多すぎる大学教育を進めてしまっているため、そうした学生が学業に必要とされる知性を持っていないと自覚したときに退学するのだと言います。

 

アメリカとは実情は違えど、日本の場合も似たような状態にあるように思います。今、日本では大学にいくのは既定路線であり、大卒を取ることが当たり前の世の中になっています。また、少子高齢化しているため、大学も存続のため、学生の確保に奔走するなか、どれほどの教育の意図が遂げられているのかが疑問となっています。日本の場合は、アメリカとは逆で「入るまでは困難」である国なのでそれはないのかもしれません。しかし、「出るのが簡単」と言われるように逆に入ってからのモチベーションが低いようにも見えます。実際、入ることにばかり目が向くあまり「燃え尽き症候群」と言われるような、入学してから無気力になってしまう人がいるということが問題になっていました。結果として、「大学での学び」というものがどれほど生かされているのかが問われているようにも思います。