知性とは何?

知性とはどういったことをいうのでしょうか。チェスが上手な生徒は知性が高いということが言えるのでしょうが、それと勉強とは同じと捉えられるのでしょうか。スピーゲルはチェスで優秀な成績を残したある生徒の高校共通学力テスト(SHSAT)で、その問題にぶち当たります。全州標準テストで常に平均以下の得点の生徒にSHSATで好成績を取らせる方法はないと思われると言われる中、スピーゲルはその生徒が驚異的なスピードでチェスの知識を吸収するのを見てきたし、教師としての自分の能力を信じていました。彼女は「半年もあるんだから、彼がのめり込んで勉強するならなんだって教えられる」と思っていました。

 

しかし、その三か月後、その自信はなくなってきます。スピーゲルはその生徒と一緒に懸命に試験勉強に取り組み、生徒も勉強に専念したが、彼があまりにもなにもしらないのでスピーゲルの気力は挫けそうになっていました。彼は地図上でアフリカやアジアがどこにあるかもわからない。ヨーロッパの国名も一つもあげられない。その2か月後には放課後や週末を使って一度に何時間も勉強したが、なかなかうまくいかず、スピーゲルは望みを失いかけていました。しかし、その気持ちは沈む一方で、その生徒のやる気をそがないように努めていました。たとえば、彼が落胆して相似や三角法は自分には無理だというと、「それだってチェスみたいなものよ」と明るく答えたのです。「数年前はチェスだって全然できなかったのに、特別な訓練をして、一生懸命に勉強して上達したじゃない。」「試験についても特別な訓練をすれば、あなたならきっとできるようになるはず」と伝えると「オーケイ、問題ない」と彼は嬉しそうに答えます。

 

そこでスピーゲルは疑問に思います。ここに明らかに素晴らしい知性をもった若者がいます。そして、彼は「やり抜く力」の好例のようにも見えたのです。情熱を注いで達成したい明確な目標があり、その目標に向けて真剣に、飽くことなく、しかも効果的に取り組んでいたのです。しかし、それなのに学業に関する標準的な指標によれば彼は平均を下回り、良くて凡庸な将来しか望めないのです。その生徒の将来を見ると凡庸なチェスプレイヤーからすると驚異的な成功物語であったが、その反面、彼自身からすると生かしきれなかった潜在能力の話になってしまうのです。

 

スピーゲルは彼がこれまでの人生でチェスと関係のない情報についてほとんど教わってこなかったことにショックを受けていました。彼のためを思うと怒りすら感じるというのです。「分数の基礎は知っている。でも幾何学は知らない。等式の書き方も理解していない。彼の今の学力は私が2年生か3年生だったころと同程度、つまり7~8歳であり、12歳のその生徒からするとかなり低く、もっと勉強しておくべきだったとスピーゲルは思ったのです。

 

SHSATは詰込みの勉強では対処できないようになっています。つまり、受験者が何年もかけて積み重ねてきた知識やスキルが反映されるのです。その多くは子ども時代を通じて家族や周囲の文化から気付かぬうちに吸収されたものです。もし、かれが7年生ではなく、3年生のころから数学や一般的な知識を習得していれば、チェスに費やしてきたのと同じだけのエネルギーを注いで、同じだけの助けを得られていたら、間違いなくSHSATを制することができたのではないだろうか。学業での成功を、盤上での成功と同じくらい魅力のあるものに見せてくれる教師に出会いさえしておけばと思ったのです。

 

これに近いことが大学入試でも起こっているように思います。以前リクルートの方と話をすることがあったのですが、最近の新社会人において、教養や勉強ができるが一般常識や一般的に当たり前のことができない若者が増えていると話されることがありました。ある意味でここで出てきた生徒における「チェス」のようにのめり込むものや強制されるものに目が向くあまり、その他に目がいかないこともあるのかもしれません。知識至上主義ではいけないのではないかと「成功する子・失敗する子」を書いたポール・タフ氏は言っていますが、その一端がここから読み解けているように思います。では、バランスよく成功していくにはどういったことが必要になってくるのでしょうか。