11月2019

環境閾値説

発達は遺伝的要因の成熟と環境的要因による学習との相互作用によって起きる「環境閾値説(かんきょういきちせつ)」という相互作用説をジェンセンは提唱しました。遺伝的可能性が各特性で顕在化するにあたって、それに必要な環境条件の質や量は異なり、各特性はそれぞれに固有の「閾値」を持っているという説です。「閾値」というのは一定水準のことを表します。例えば、身長や体重は劣悪な環境でない限りはその可能性を実現していきますが、知能テストの成績ではやや環境から受ける影響が大きくなるというのです。

 

学校での学業成績では、遺伝と環境の影響が拮抗するようになってきて、環境の重要度が増していきます。絶対音感や外国語の発音など特殊な才能は、それを習得するのに最適な寛容条件を必要とする上に、一定の専門的な訓練を受けなければ、その才能を開花させることができないとされています。藤森氏は、このように、ある力について、生まれつきか/環境によって発達するものか、と考えた場合「人と関わる力」は人類が遺伝的に持っているもので、それが環境によって表出するのだと考えていると言います。遺伝的にもっている才能は環境というトリガーによって開花されていくというのです。

 

このことを考えていくと人が社会を構成し、遺伝子をつないでいきました。そのため、赤ちゃんは当然、社会を構成する才能を遺伝子にもっており、社会を構成するような発達をしていくはずなのです。そして、社会を構成する人材として生きていくために、様々な社会を体験し、社会とのかかわりを始めていくことでその才能を開花させていくはずなのです。それは赤ちゃんから始まっているのです。赤ちゃんを見ていると寝ながら隣でよちよち歩いている赤ちゃんを目で追います。そして、隣の赤ちゃんの体を触ろうとします。つまり、もうこの頃から社会を見ようとしているのです。そのため、こういった隣にいる別の赤ちゃんの存在が重要になってくるのです。しかし、現在の社会では母子だけの関係になりがちであり、その場合、こういった行為が現れるのはもう少し先になると言えるのです。

 

そして、こういった関わりの経験が、他の子を真似たり、他の子と取り合いをすることで、他の子との直接的な身体的触れ合いが始まります。その触れ合いが重なり、他の子との関って遊ぶようになってくるのです。このように関わる力も繰り返し連続して起きていくと言います。このとき、条件が非常に悪くて不適切な環境である場合は、その発達は疎外されます。しかし、その特性が顕在化するのに必要な一定基準(閾値)を超えると、発達は正常な範囲内で進行することになると言います。つまり、人と関わって生きていくことは人間の遺伝子に組み込まれているにしても、人と関わる環境がなければその特性は表れてこないのです。そして、次第に外に出るようになり、地域の人と接する機会が増え、公園で遊ぶ他の子を見ることが多くなると、関わる力が表れてくるのです。こういったように遺伝的要因と環境的要因は相互に影響を与え合って発達を支えるので、どちらかが一方的に有意というわけではなく、その程度に大小があるだけだと考えられているのです。

 

この環境閾値説というのはとても面白いですね。今自園に来ている子どもたちを見ていても、発達が遅れているように見えても、その遅れを取り戻していく子どもは多いように思います。そして、そもそも「遅れている」と思う感覚すら、本当はおかしいのかもしれません。年齢による発達への刷り込みが今の子どもの環境において、かなり強く根付いているようにすら思います。発達のことを知ることは重要ですが、その「発達の特性」を知ることはもっと重要なことなのだと思います。

発達の連続性

藤森氏は「遺伝子を受け継いだ赤ちゃんが持っている能力は、きっと将来生きていくうえで必要な能力であるような気がします。もし必要でない能力ならば、それは受け継がれたりせず、消えていっているでしょう。人類がある方向に向かって成長していくとき、それぞれの時期での発達は、その時期にだけ必要なのではなく、その後の生存に備えての発達であるはずです。」言っています。ある突然ものがつかめるようになるのではなく、それまでにものをつかむための様ざまな芽生えが見られるというのです。そして、それを「発達の連続性」と言います。

 

発達の連続性はある方向に向かって、絶えることなく生起する連続的な変化のことであり、表面的には発達が止まっているように見えたとしても、また、突然その発達が現れたとしても、体や精神はいつでも変化し続けているのです。そのため、その時期における行為を保障していくことが大切になるのです。つまり「今をより善く生きる」ことが「望ましい未来を培う力となる」ということなのです。このように考えていくと子どもたちが毎日過ごしている様子はすべて意味があるということですね。大人から見て意味のないようなことをしていたとしていたとしても、それは将来の発達にとって必要なことをしているに違いないのです。不用意に静止したり、怒ったり、イライラしたりする前に、少しそんなことを考えてみるといいかもしれないと藤森氏は言います。

 

この順序性、方向性、連続性を考えると、例えば2歳児に対して「子ども同士が関わり合って遊ぶ姿は見られない」という観察から「2歳児までは子ども同士の関わりは必要ない」という考えが導きだすのはおかしいことになるというのです。子ども同士が関わって遊んでいるかいないかという問題は、2歳児では見られず3歳児になると見られるというように、子どもの月齢によって生起することではないのです。また、その時に「関わって遊んでいなかった」ということが、「集団はいらない」ということにはならないはずなのです。

 

つい保育をしていく中で、子どもたちの発達を理解しようとする上で「○○歳児だから~~」というような見方をしてしまうことがあります。その先入観自体が目の前の子どもたちの姿や発達成長を見失わせているのかもしれません。今の発達を見て当てはめていくよりも、先の発達を参考にし、環境を作っていく意識を持つことが重要になってきます。常に子どもたちは新しい変化が起きていく中で、その環境を作っていくためには目の前の子どもたちをよく見ていかなければいけません。こういった発達の連続性はあくまで目安であり、その通りではないということは知っておかなければいけないことです。

 

また、発達は遺伝的要因による成熟と環境的要因による学習との相互作用によって起きるということも藤森氏は言っています。これまでも遺伝か環境かということは言われていましたが、それは発達にとってはどういったことが言えるのでしょうか。

発達の特徴

発達にはいくつかの特徴があり、留意点があると藤森氏は言います。というのも、発達は一生を通して、連続的に進行する変化の過程として見たときに、その進む速さは一定ではなく個人差がありますが、発達は一定の規則・型に従って進んでいきます。発達の進むスピードの差が生まれる原因としては、遺伝的な個人差や性差、発達過程の環境などがあります。しかし、どんなに個人差があっても、「発達の順序性」という規則は不変で、発達は一定の決まった順序で進行していきます。

 

例えば、シャーレイの研究では、人間の乳児期の発達で順序性を考えると「胎児姿勢→あごを上げる→肩を上げる→支えて座れる→膝に座って物をつかめる→椅子に座る→一人で座る→支えてもらって立つ→家具につかまって立つ→ハイハイする→手を引かれて歩く→階段をハイハイで上がる→ひとりで立つ→ひとりで歩く」というように発達を順番通りに経過していくことになります。この発達の順序性が乱れたり、飛躍したりする場合には、発達上の何らかの問題や異常が考えられるのです。

 

発現の速度には個人差がありますので、おおむね何歳がどんな発達過程にあるかと定めることはあまり意味がなく、かえってその年齢における目標になってしまったり、「その基準よりも我が子が早い」というように受け止められたりして、誤った早期教育の原因にもなりかねないと藤森氏は言います。こういった意識は今の時代多いように思います。発達段階というものが明確になればなるほど、子ども自身をその発達段階に当てはめてしまうことは気を付けなければいけません。そして、そのことがかえって親にとってもプレッシャーになることもあり、「子どもそのものを見る」ということから離れてしまうことも起きてしまっているように思います。あくまで、個人差があり、一定の規則・型でしかないということをより強く意識する必要があります。

 

また、このほか、発達の特性を示すものとして「発達の方向性」という概念もあります。発達には一定の方向性があるということです。方向というのは、体でいえば、どのような宝庫いうに向かって各部が発達していくかということです。例えば、身体発達だと「頭部→尾部勾配」と「中心部→周辺部勾配」と呼ばれる方向性があります。どういったことかというと、「頭部→尾部勾配」とは、身体発達が頭のほうから、足に向かって進行するということを表しています。また、「中心部→周辺部勾配」とは、体の中心部にある体幹から、その周りにある末梢の方向へと進行することを表しています。このように原則的に、発達はある方向へ向かっていくということが発見されていると藤森氏は紹介しています。

 

このように発達の時期は個人差があるが、その発達のプロセスは一定の型があるということが分かっています。そのため、環境はその時期にある発達に合わせた環境を用意することが求められます。

生涯発達

保育をしていく中で「発達」という言葉がよく出てきます。そして、その「発達」は意識しながら保育をしていくことが重要になってくると言われることが多々ありますが、その「発達」というのはそもそもどう考えていけばいいのでしょうか。

 

藤森氏は「保育の起源」の中で、「人間の発達は非常に複雑であり、その複雑さを人間の力だけで解明できるはずがない」と言っています。古い時代において、発達は遺伝的要因にその大部分を依存すると考えられていました。そして、遺伝的に潜在している可能性が時間の経過にしたがって次々に開花してくることを発達と呼んでいたと紹介しています。いわば、いくら教育したって、生まれつきなので仕方ないという考え方が大部分を占めていたのです。しかし、現在では、遺伝的要因と同等に環境的要因が重視されており、機能的発達以外にも人格の成熟や知性の発達といった観点を合わせ、発達は生涯にわたる問題と認識されています。

 

また、発達は必ずしも成人期に至るまで右肩上がりでなされるものではなく、成人期のまでの変化の中で、一時的な発達の停滞や表層的な逆行が見られることがあるとされています。また、逆に成人期以降の変化でも生物学的な加齢と並行して発達の下降や衰退が必ずしも起こるかというと断言できない部分があることが分かったのです。そのため、発達は従来の「上昇・下降」といった価値判断を含まないものになり、一生の間の変化として考えられるようになってきたのです。つまり、小さい子どもが、最初は未発達で、次第に発達していき、いろいろなことができるようになるという考え方そのものが変わってきたというのです。

 

発達の起きる要因が環境と遺伝によるという考えはとても重要な視点を与えることになるのですね。こういった考えは結果として、人間は一生の間にいろいろな部分がどのように変化しているのかという「生涯発達」という観点が必要になってくるのです。この生涯発達という観点からすると、それぞれの年齢における行動、行為はそれぞれの段階で必要なものであり、生涯にわたって影響を及ぼすものであるということが分かります。そのため、赤ちゃんの時から、その時期ごとに振り分けられ、その時期にあらわれる行為を十分におこなうことができるようにすることが発達を援助することになると藤森氏は言います。

 

この視点を考えていくと私は保育とは「子どもを見る」ということですが、その「見る」は「発達を見る」ということなのだろうと思います。そして、それは「一般的な発達」に子どもを当てはめることでもなく、その時期にやりたい環境をいかにつくることができるのかということが保育士の大きな専門性でもあるのだと思います。そして、それは「やらせる」ことでもなければ、「やらなければいけない」ものでもなく、発達に近いものは「やりたいもの」になるのだと思います。そして、そういった環境の下で子どもたちは発達にとっていかに重要かということがよくわかります。

心理学の見直し

藤森氏は教育心理学、発達心理学には見直されるべき理由が3つあると言っています。

まず、見直される最大の理由は過去の教育心理学や発達心理学が、子どもをまともに人間として見ていなかったことであると言っています。これまでの紹介にもあったように、ピアジェの認知発達の新しい知見からも見えるように、現在様々な研究によって、新生児の持つ能力は非常に高いということが明らかになっています。

 

2つ目の理由は心理学の中に「実験的にわかること」への過信があったことだといいます。それはどういったことかというと、実験において被験者の子どもは「なんでこの人はそういうことを聞くのかな」と気をまわしてしまうために、変な答えになってしまうのです。また、このことは実験内容によっても起こることがあります。というのも、実験は子どもにとって遊びとなっていることが多く、実験者は自分と親しく遊んでくれる存在として捉えることが多いのです。かつての(数的にもごく限られた)実験では正確さにおいて十分ではないものでもあるというのです。

 

3つ目は、乳児は「心の理論」を獲得していないと決めつけ的に思われていたことです。自分の相手の立場に置き、どうなるかを想像できるという「心の理論」は4歳までは分からないと思われてきましたが、1歳半の子どもでも、それがわかっているということが明らかになってきています。新生児室にいる生まれたばかりの赤ちゃんは、他の赤ちゃんが泣いているとつられて泣くと言われていましたが、「ただつられているのではない」ということが分かってきたのです。実験で、自分の泣き声を録音したものを赤ちゃんに聞かせても全然反応しないのに、他の赤ちゃん、しかも同じ月齢の赤ちゃんの泣き声を聞くと(もらい泣きのように)一緒に泣きはじめることが分かったのです。自分の泣き声と他の赤ちゃんの泣き声をきちんと区別して、他の赤ちゃんの泣き声を聞いても、自分も悲しいくなるということ、つまり赤ちゃんも他者の心がわかっているということが明らかになったのです。

 

実際に赤ちゃんのクラスを見て、赤ちゃんを観察していると、上記に見える赤ちゃんの様子を見ることも多くあります。しかし、どこかでこれまでの赤ちゃん研究の内容を鵜呑みにして、先入観をもって子どもを見ていることも起きているのかもしれません。本来はこういった研究を鵜呑みにするのではなく、いかしてなければいけなく、参考にしなければいけません。そのため、私たち子どもを見る職業においては、研究を子どもたちに当てはめるのではなく、子どもたちの様子を研究結果に当てはめていかなければいけなく、やはり子どもを見る目線を養っていかなければいけないのだろうと思います。藤森氏はこの章の最後に「旧弊な発達理論を鵜呑みにするのではなく、新しい研究成果に常に留意しながら、保育とのかかわりを考えていきたいと思います」と締めくくっています。