11月2019

イノベーションから保育

ドラッカーは企業の目的は顧客の創造にあるといっており、そして、そのために企業は二つの基本的な機能を持つと言っています。その一つが前回紹介した「マーケティング」でありますが、次にドラッカーは「イノベーション」がもう一つの機能であると言っています。

 

ドラッカーは顧客の側に立ち、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」といったことをマーケティングとして行うだけでは企業は成功しないと言っています。「企業が存在しうるのは、成長する経済のみである」というのです。したがって、企業の第二の機能は、イノベーションすなわち、あたらしい満足を生み出すことなのです。経済的な財とサービスを供給するだけではなく、よりよく、より経済的な財とサービスを供給しなければならないのです。そして、企業そのものは、より大きくなる必要はないが、常により良くならなければいけないと言います。そして、イノベーションの結果もたらされるものは、よりよい製品、より多くの便利さ、より大きな欲求の満足です。

 

イノベーションとは発明のことではなく、技術のみに関するコンセプトでもない。経済的なイノベーション、さらに社会的なイノベーションは技術のイノベーション以上に重要であるとドラッカーは言っています。イノベーションとはただ単なる技術革新ではなく、人的資源や物的資源に対し、より大きな富を生み出す新しい能力をもたらすことというのです。そのため、当然マネジメントにおいては、社会のニーズを事業の機会として捉えなければならないのです。

 

このことは保育にも言えることです。日本における教育のありかたは江戸時代の寺子屋文化から、西洋の教育文化が入ったのち、終戦においても教育の形は大きく変わっていません。海外の保育を見ていても、主体的な保育が繰り広げられているにもかかわらず、日本ではいまだに画一的な保育が繰り広げられています。時代と世界の流れにとって教育が社会と離れている印象も受けます。時代や社会において、もとめられる人材は変わってきている以上、教育や保育においてもイノベーションが行われなければいけない時代になっているのではないでしょうか。小手先だけの保育方法ではなく、そもそもの子ども観や社会における子どもの認識や先入観というものを変えることもイノベーションとして必要な気がします。そして、これがドラッカーのいう技術的なイノベーションではなく、社会的なイノベーションであるということと同じことのように思います。

 

企業と社会というものがこれほどまでに意識されるべきものというのは、意外でした。結果的に「顧客の満足度」というものに至るのですが、それが利潤目的なのか、社会貢献なのかという出発点の違いだけで大きくその意味合いは変わってくるであろうし、そこで働く社員においても、こういったモチベーションは大きな意味を持つようにも思います。そして、それは教育においても、非常に近しいものを感じます。組織の本質というものや組織の目的の見方というのは保育や教育においても、同じことが言えます。

マーケティングから保育

保育園や幼稚園、こども園といった保育機関においても、「組織」という形態であることは疑う余地のないものであり、その原理というものは共通しているものであると思います。そのため、ドラッカーの経済学から読み取れるものもたくさんあり、参考になる部分も多くあります。前回、企業の目的は顧客の創造である。ということが話で出てきましたが、そこには2つの基本的な機能があるというのです。それはマーケティングとイノベーションです。この内容を保育の中に照らし合わせてみるとまた違った見え方がしてきます。

 

まず、企業においてマーケティングとはどういった部分にあるのでしょうか。私はてっきりマーケティングとは「消費者に対しての売り文句」といったものなのかと単純に思っていたのですが、ドラッカーは「消費者運動が企業に要求しているものこそ、まさにマーケティングである」としています。つまり、その主体は消費者にあるのです。そして、「企業の目的は欲求の満足であると定義せよと要求する。収入の基盤を顧客への貢献に置けと要求する」と言っています。やはりここにも企業は社会のためにあり、社会が求めることを実現するが企業としてのあり方ということが読み取れます。

 

しかし、これまでのマーケティングは私が考えていたように、販売に関係する全職能の遂行を意味するにすぎなかった。つまり、「売る」ということが目的になっていた。しかし、真のマーケティングは顧客からスタートするのです。すなわち、現実、欲求、価値からスタートするのです。「われわれは何を売りたいのか」ではなく、「顧客は何を買いたいのか」であり、「我々の製品やサービスにできることはこれである」ではなく、「顧客が価値ありとし、必要とし、求めている満足がこれである」というのです。そのため、マーケティングの理想は販売を不要にすることであるとドラッカーは言っています。マーケティングが目指すものは顧客を理解し、製品とサービスを顧客に合わせ、おのずから売れるようにすることであるのです。そのためには、顧客自体を知っていなければいけません。

 

このことを保育に置き換えて考えてみると、また面白いものが見えてきます。まず、間違ってはいけないのが企業で言う「顧客」というもの、つまり主体であるものが誰なのかということです。当然それは「子ども」であることは間違いのないことです。つまり、そのサービスを受ける主体はこどもです。このことがブレてはいけません。そして、その「顧客」の現実や欲求、価値からスタートするのです。この受け止め方は非常に難しいですね。私はこのことに対して、乳幼児教育を考えていかなければいけないのは、その恩恵というものは有形ではないものであり、将来役に立つ「生きる力」という目に見えない部分にあるということです。つまり、これからの社会において、必要な力を私たちは考え、予想し、形にするための方針を考えていかなければいけません。そのためには子どもの発達や社会の見通し、必要な力など、様々なことを見通していくことが重要になってきます。そして、それを子どもたちに伝えていくことが乳幼児教育におけるサービスになるのだと思います。やはり、この論説からみても、保育の本質を考えることは組織において重要なマーケティングにもなるのですね。

 

つぎにドラッカーはイノベーションが企業における基本的な機能だと言っています。

本質を見る

ドラッカーは「企業=営利組織ではない」と言っています。そして、利潤動機には意味がないとすら言っています。そして、そこには「組織は社会に貢献する」という目的があるからで、利潤動機には、利益そのものの意義がまちがって神話化する危険があると言っています。もちろん、利益は企業にとっても、社会にとっても必要なものであるのですが、それは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件であるのです。つまり、「利益」とは利益を得ることが目的となるのではなく、あくまでも社会に貢献するため、企業活動や企業の意志決定にとって、その妥当性の判定基準となるものが利益だというのです。そのため、利潤動機、利益を求めることが目的になってしまうのは、利益の本質に対する誤解と根深い敵意が生じると言います。そして、この誤解や敵意こそ、現在社会におけるもっとも危険な病原菌問いのです。最終的に利益と社会貢献は矛盾するとの通念さえ生まれてくる。しかし、本来企業は、高い利益を上げて、初めて社会貢献をすることができるのです。

 

このことを保育機関に当てはめるとどういったことになるのでしょうか。保育機関は基本的に補助金です。私立幼稚園などは親との直接契約です。もし、そういった機関が本来の教育という目的ではなく、利潤動機を持ち始めたらどうなるでしょうか。ある意味で企業よりももっと悲惨な社会への影響が出かねないですね。そのため、保育機関では理念をしっかりと共有する必要があるのかもしれません。また、利潤動機とは言わないまでも、本質となる目的を求めないで、惰性で保育をしているというのもあるかもしれません。つまり、毎年同じことを繰り返し保育をしているということも、ここに当てはまるのかもしれません。子どもたちは毎年違いますし、その発達も同じことはありえないのです。そういった意味では社会貢献の目的を持つということは企業においても、保育においても同じことが言えます。むしろ、保育のほうがより感じやすい環境であると言えます。

 

つぎに、ドラッカーは企業の目的に言及しています。そこには「企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。」と言っています。そして、企業の定義は一つしかないと言い、それは「顧客を創造すること」と言っています。それはどういうことでしょうか。これも「企業は社会の機関」ということから入っていくと分かりやすいです。つまり、「企業とは何かを決めるのは顧客」ということです。いくら企業が求めても、顧客にニーズがなければいけないのです。そして、そこに価値を見出すのはあくまで顧客というのです。

 

保育においてはどうでしょうか。その「顧客」というのは子どもでしょうか。それとも保護者でしょうか。その主体はどこにあるのでしょうか。当然、それは子どもでなければいけません。その教育の対価を母親が払うということがあるのでしょう。つまり、保育機関において重要なのは、保護者受けということを目的にするよりも、「子どものため」のものではいけなく、その「子どものため」というものがどういったものなのか、そして、ドラッカーの言葉を借りるのであれば、それが「社会に貢献する」ものであるのかということを考えていかなければいけないのです。

 

また、ドラッカーは「企業の目的は顧客の創造である。」と言っていますが、企業は2つの基本的な機能を持つと言っています。そして、その機能だけが成果をもたらすと言っています。

マネジメントの役割

保育をしている中でも、「組織」というものを意識することがあります。管理者は現場をマネジメントしなければいけないですし、現場は子どもや保護者に対してニーズを読み取り、保育をする必要があります。また、最近では新しく入ってきた新人保育士が辞めていくという問題やそもそも保育士が不足しているといった社会的な問題も現在では多く起きています。そして、その大きな理由は保育者同士の人間関係が大きく影響しています。新人保育士が職場を選ぶときに注目することも「職場の人間関係」が選ぶ条件として大きな視点でもあると言われています。理想の組織というのを一つに定義するのは非常に難しいことではあるのですが、ひとつの理念に向かって、共有化され、目線がまとまっている会社や組織はやはり強いのではないかと思います。そして、そのためには管理者によるマネジメントというのは重要な要素となっているのも事実です。組織をまとめ、ひとつの方向性に向かせるためにマネジメントととはどういった役割があるのでしょうか。

 

これにおいてP.F.ドラッカーは「マネジメント」の中で、そもそも組織とはということを言っています。人は社会を作ることで生存してきたということをこれまでのブログでも書いてきましたが、人が組織を作るのは組織を作ることそのものが目的ではなく、それ自身は手段であり、それぞれが自らの機能を果たすことによって、社会やコミュニティ、個人のニーズを満たすためにあるとドラッカーは言っています。だからこそ、その「組織は何をすべきで、機能は何か」ということが重要なのです。そして、それらの中核となるのがマネジメントなのです。そして、マネジメントには自らの組織を社会に貢献させる三つの役割があると言います。

 

その一つ目が「自らの組織に特有の使命を果たす。」ということであり、組織にはそれぞれ特有の使命や目的を果たすためにあるというのです。そして、二つ目は「仕事を通じて働く人たちを生かす。」ということで、働く一人ひとりにとって、生計の糧や、社会的な地位、コミュニティとの絆を手にし、自己実現を図る手段としてあるということです。働く人、一人一人が社会に貢献しているという意識を持つようにするということです。三つ目は「自らが社会に与える影響を処理するとともに、社会の問題について貢献する」ということでした。

 

特に教育機関においては、こういった社会における使命ということを感じやすい組織であるように思います。しかし、よく言われるように「ただ子どもと遊んでいるだけ」という印象や「子どもにいろいろとさせる場所」といったお稽古のような意味合いを持たされているようにも思います。どれだけ、この乳幼児教育が社会にとって意味のあることなのかということを考えることやその方向性をしっかりと見つめることもマネジメントをする上でしっかりと捉えていかなければいけないところなのでしょう。そして、これらの3つの役割は非常に「理念」を考えるうえでも重要な視点でもあるように思います。特に教育はどこか社会と切り離されているようにも感じることがあるのですが、これからの社会に生かされる人材を作っていかなければいけない教育現場は本来はより社会への貢献度や影響力というものはかなり高いようにも思えます。そういった中で、マネジメントというのは教育現場においても無縁な話ではないですね。

発達から保育

環境的要因と遺伝的要因は現在、その発達要因は総合的なものだという結果に落ち着いています。そして、発達が表出するのは一定の閾値を超えるということで起きるということが言われています。そのため、何歳ではこんな行為は行われないと決めつけるのはおかしいということになりまし、発達過程がたとえ「おおむね」と付記されていても年齢でわけられるのはおかしいのではないかと藤森氏は言います。

 

では、子どもには何をしてあげればよいのでしょうか。まず、子どもの発達を見守る側は発達の特性を知る必要があると言います。というのも、子どもが発達するためには子どもからの欲求に適切にこたえることで達成できることが多いのですが、子ども特に赤ちゃんは自らの欲求を言葉で表すことはできないのです。子どもの発達は、均等に起きるものではなく、発達が起きる部位によって伸びる時期と、しばらく止まっている時期とが繰り返されているのです。これを「発達の異速性」と言われているものです。身体発達の場合、主に筋肉や脂肪などの組織細胞が充実して発達する時期を「充実期」といい、骨が伸びる時期を「伸長期」といいますが、それらは青年期になるまで交互に起きます。筋肉と脂肪の充実によって体重が増加し、骨の伸長によって身長が伸びるという発達が観察されています。

 

このような発達の知識を知らないと、発達過程におけるふさわしい育ちを間違って認識してしまい、無理な訓練をして正常な発達を妨げてしまったり、性成熟に支障をきたしたりしてしまいます。また、連続して起きる発達は個人差によってその時期やスピードが違うだけでなく、それぞれの発達への準備の過程があることも忘れてはいけないのです。そして、その準備における環境が、次の発達に影響していくのです。そのため、現在では発達段階という捉えかたをしなくなっています。というのも、発達は階段状に右肩上がりでなされるものではないからです。

 

保育者はこういった発達の特性を見通して、環境を作る必要があるのですね。ニュージーランドでは「テファリキ」という乳幼児カリキュラムがあります。そこでは、カリキュラムは、子どもの包括的な発達を反映するべきであるとし、その具体的な内容として、まず、「エンパワーメント(権限)」をあげています。「子ども自ら学び、成長するための力と、権限を与える」というのです。次に「発達の全体性」をあげています。例えば、ひとつのことに熱中していたとしても、そこから世界を広げ、必要なことを身につけていっていると考えるのです。ここでは発達は階段状に上っていくものでも、らせん状に上っていくものでもなく、放射状に広がっていくものと捉えられています。

 

そして、その発達に影響されるものとして「家族と地域社会性」があげられています。家族、そして、地域社会などのより広い社会を、ともに保育するには不可欠な要素といえるのです。つまり、身の回りにある事物が、子どもに影響を及ぼす環境となるのです。しかし、そのためには子どもとその事物との「関係性」が重要になります。子どもは、人、場所、モノとの応答性、かつ対等な関係を通じて学んでいくからです。

 

このようにテファリキは考えられているのですが、発達に関しては様々な人によって、多様な提案が現在されており、脳科学によって証明されているものから、否定されているもの疑問視されているもの様々あります。そのため、最新のそれぞれの学術分野の考え方やその地域による特性を考慮して、発達にあった保育カリキュラムを日本でも作る必要があると藤森氏は言っています。