3月2021

仮想と現実

ゴプニックは「私たち人間は過去、現在、未来の可能世界を思い描きます」と言っています。この可能世界とは「今ここにある世界とは違う過去、現在、未来」のことをさし、これは例えば、夢や計画、フィクション、仮説といったものがこれにあたります。人間はこの可能世界を現在世界に劣らず気にかけているのです。なぜそんなことをする必要があるのでしょうか。ゴプニックはこの答えを幼い子どもの心にあるのではないかと考えています。

では、この「可能世界」哲学ではこのことを「反実仮想」というのですが、この反実仮想は大人だけの洗練された思考なのかということをゴプニックは考えます。というのも、最近まで幼児には「今、ここ」しかない。つまり、直接的な感覚、知覚、体験しかないと考えられてきました。では、ごっこ遊びや空想する子どもたちはどうなのかと思ってしまいますが、心理学や哲学においては、乳幼児期においては、現実と空想の区別がついていないとされており、幼児の空想はあくまでも直接体験の一種に過ぎず、現実と非現実の関係をきちんと分かったうえでなされる反実仮想とは違うのではないかと考えられていたのです。そして、これはフロイトやピアジェにおいてもこの考えによるものでした。

しかし、最近の認知科学の研究においては、こうした従来の見解は間違いであるということが分かってきたのです。幼児も反実仮想を行い、その内容と現実を区別し、現実を変えるために役立てることができるというのです。未来を思い描き、計画し、実際に起きたこととは違う過去を想像し、そこから思考を広げることができるのです。ゴプニックたちは過去10年をかけて、幼児には優れた想像力があることを確認し、これを科学的に調べてきました。子どもの心、子どもの脳が、どんな仕組みによってあれほど豊かな空想を生み出すのかを探ったのです。それは想像力を科学的に研究したのです。

その結果、これまで、知識と想像、科学と空想は全く別物で、正反対と言ってよいほど違うものだと思われていたのすが、これらには共通する基盤があることがわかりました。子どもの脳には現実世界の因果構造を写したマップが作られていくのですが、まったく同じマップが新たな可能性を思い描かれ、別の世界を空想するためにもつかわれていることがわかったのです。つまり、現実と空想は頭の中で別々の世界として思い描かれており、決してもともと考えられていたような、区別のない直接体験の延長としての空想を行っているわけではないのです。このことを受けて考えると子どもの脳内では、しっかりと、仮説検証が遊びの中でも行われており、大人のように見通しのある物事の見方ができるということが分かります。

実際、今、自園に居る子どもたちの様子を見ていても、0歳児でも1歳児の様子を真似して汚れ物袋に荷物を入れるのを真似したりしています。それは決して、空想の中で行っているようには見えませんし、自分であればどうできるかという、明確な目的と行動の見通しをもって動いているようにも見えます。

成長、成熟は次のバトンパス

大人と子どもとでは脳も心も大きく違うことが分かります。そのため、生活ぶりも違ってきます。簡単に言うと大人は働き、子どもは遊びます。この「遊び」ですが、ゴプニックのいうことを見てみると当たり前のことなのですが、確かにと納得してしまいます。幼児期の遊びにおける未熟さがもつ「無用の用」をこれほどよく示すものはありませんと言っています。

 

この「無用の用」ですが、これこそが「遊び」につながります。つまり、赤ちゃんがする箱を重ねる遊びや幼児のごっこ遊びなど、どの遊びにも、はっきりとした意味も、目的も、機能もないのです。進化に不可欠の捕食をするためでもなければ、闘争、逃走、性交渉といった目標があるわけではないのです。それなのに、この遊びという無用な行為は、人間らしく、子どもから大人まで、計り知れない価値をもつものなのだとゴプニックは言います。

 

もちろん、大人でも遊びを行います。しかし、そこには「○○する」といった遊ぶ目的があったり、意味を持って行うことが「大人の遊び」には多いのではないでしょうか。どこかで意味を求めてしまうのです。ただ単に「遊べ」と言われても困ってしまうかもしれません。それに比べて子どもたちの遊びはそういった目的意識をもって遊ぶことももちろんあるでしょうが、まさに心から楽しみを求めた遊びや目的のない遊びというものにいそしんでいるように思います。それは確かに大人になる準備なのだろうと子どもの姿を見ていて感じますが、では、子どもたちはその遊び一つ一つに意味を求めているかというと無かったりします。保育での子どもの遊びを見ていても、何がそんなに面白いのかと思うくらい何度も何度も同じことを繰り返して遊んでいます。

 

この幼児期の遊びですが、ゴプニックはこれは想像力と学習能力が目に見えるかたちであらわれたものだといいます。つまり子どもたちは「無用の用」の中で、意味のない遊びの中で学んでいるのです。逆に大人はやる内容に意味を求めてしまいます。それが子どもの遊びと大人の仕事のちがいなのでしょう。当然、それだけ見る世界が違うと子どもの意識、日常的に体験する世界の感触も、大人のものとは相当に異なっていることが示唆されるとゴプニックは言っています。そして、子どもの意識を探求すると、大人の日常的な意識や、人間の特性についても新しい展望が開けてくるというのです。

 

その一つが自己同一性の問題です。それはこれまで話したように赤ちゃんと大人とでは違った心や脳、体験を持つ、といった根本的に違った生き物であったとしても、最終的には大人になるということです。この抗うことのできないプロセスは常に起きています。そして、その中で起きる学習と想像、それに続く変革のプロセスを究極的に左右しているものが愛であるとゴプニックは言います。愛は変革の原動力の一つであり、子どもへの愛は、人の場合、単なる原始的な本能、他の動物のような養育行動というのとは違い、長い年月をかけて、子どもたちが人間らしい洗練された能力を発揮できるように力を尽くします。子どもたちが未熟でいられるのは、世話をする人たちの愛に溢れるからです。前の世代が発見したことを学べるのは大人が教育に投資しているからです。

 

そう考えると前回にも紹介した子どもは研究開発で、大人は製造販売ということが現実味を帯びてきます。つまり、大人が礎を築いたものから子どもは学びよりその学びを発展させていくのです。そして、文明は進んでいきます。そして、いつしかその子どもは大人になり、それを次の世代に製造販売役として受け継いで、伝承していくのです。大人になるプロセスはつぎに向かう子供世代へのバトンパスを発達をしていく上で行っているのですね。

脳の構造と見守る

 

ゴプニックは「赤ちゃんと大人は進化的に一種の役割分担が出来上がっている」と言っています。そして、赤ちゃんが大人と違うのは脳の神経回路の違いだと言っています。赤ちゃんの神経回路は大人とは違い、細かく張り巡らされています。大人は「刈り込み」により、弱い回路や使用されない回路は整理され、大通りのような太く効率の良い神経回路が残されていきます。そして、その中でも理性を司る大脳皮質の前頭前野が子どもから成人になるにあたって非常に大きな影響を与え、この部分はゆっくりと大人になるまでに成熟していくということが前回までの内容でした。

 

では、まだ、未成熟である赤ちゃんの脳を考えると、赤ちゃんは理性を司る脳を持たない大人なのでしょうか?ゴプニックはこのことに対して、前頭前野が未熟だからこそ、子どもは大人に勝る想像力と学習能力を発揮できるというのです。というのも、前頭前野には「抑制」の機能があって、それが脳の他の部分の情報を遮断し、体験、行動、思考を絞り込みます。そうでなければ、大人のように複雑な思考、計画、行動ができないのです。たとえば、複雑な計画を実行するには、計画にない行動はやめ、計画通りの行動をとらなければならないのです。さらに、計画に関係のない出来事のことは忘れて関係あることだけに注意を集中しなければいません。

 

しかし、この「抑制」は想像力や学習能力を自由に働かせるには逆効果です。突拍子もない発想を持つためには、ある意味でこういった「抑制」された概念は邪魔になってしまうのです。そういった意味では幼児期には、前頭前野の抑制が効かない方が都合がいいのです。こういった脳の環境によって、乳幼児期の子どもは落ち着かなかったり、大人ではしないようなことを確かめてみようとしたりするのですね。

 

ただ、前頭前野は脳の中でも幼児時期を通じて最も変化が著しい部分であり、その意味では活動は盛んです。完成した後も、幼児期の体験の影響が色濃く残ります。幼児期の想像力や学習能力からは、大人になってから計画的な行動をしたり、行動を知的に調整するために必要な情報が得られます。知能指数は、前頭前野の成熟の遅さや可塑性と相関があるという証拠もあるようです。幼児期においては抑制の無い開かれた心を長く保つことが、賢くなる条件の一つではないかとゴプニックは言っています。

 

このことから見ても、いかに乳幼児期の子どもたちに「応答的で温かい関わり」が必要とされるのかということが分かります。しかし、これは子どもたちをなんでもかんでも自由させればいいというわけでもありません。うまく「刈り込んでいく」ことが重要なのです。だからこそ、「他律」ではなく、「自立」が重要なのでしょう。他律は抑制を生みます。しかし、自立においては主語は子ども自身です。選択するという意味では自分の意志です。なぜ、今「見守る」ということが必要とされるのか、そして、「見守る=放任」ではいけないということがどういったことなのか、脳の構造からみても、その必要性が見えてきます。

大人の脳と子どもの脳

ゴプニックは子どもと大人の間には、進化的に一種の役割分担が出来上がっていると言っています。それはどういったことかというと「子どもはいわば、ヒトという種の研究開発部門に配属されたアイデアマン。大人は製造販売担当です」というのです。それは子どもは発見、大人はそれを実用化するのが仕事だというのです。ただ、子どもは無数のアイデアを提案しますが、ほとんどは使えません。実行可能なものはほんのわずかなのです。とはいえ、斬新な変革能力、それをもたらす想像力と学習能力で競えば、負けるのは大人ではないかと言います。しかし、大人のように、長期計画の立案や迅速で自動的な実行などに関しては大人の方が勝っています。つまり、ゴプニックの言葉を借りるのであれば、「イモムシと蝶はなすべきことが違う」のです。

 

このような大人と子どもの役割分担はそれぞれの心、脳、日常の活動、さらには意識体験に反映されるそうです。特に赤ちゃんの脳は想像することと学習することに特化されているようで、弱い回路、使用されることの少ない回路は「刈り込まれ」てしまい、よく使われる回路が強化されていくようになります。初めはまるで昔のパリの路地のような張り巡らされた回路ですが、大人になるにつれて、効率のいい大通りが整備されていくのです。また、子どもの脳は大人より可塑性や柔軟性がはるかに高く、変化をよく受け入れます。ただ、そのぶん効率が悪いので、大人のようには迅速で効果的な対応ができません。

 

このように子どもの間の脳は様々な変化にさらされ変化を起こします。その変化の中で特に重要な役割を果たす脳の部分が前頭前野であり、脳の中でも人間だけが特別よく発達している部分であり、神経学者が人間らしい能力の中枢と言われている場所です。今の時代、この前頭前野の発達によって問題が起こっていることは、以前紹介した、「ケーキの切れない非行少年」や「非認知能力」においても言われていました。

 

この前頭前野は思考、計画、調整といった洗練された能力を司っていると考えられていました。しかし、この考えによって悲劇も起きてしまったとゴプニックは言います。1950年代に精神病患者に前頭前野の一部を切除する手術(ロボトミー)が盛んに行われたのです。一見、この手術により治ったように思われた患者でしたが、判断や衝動のコントロール、知的な活動をする能力がほとんど失われてしまったのです。

 

このことからみても、いかにこの前頭前野が人間の人間らしさといったところに影響を及ぼすことにつながっているのかということが見えてきます。ゴプニックはこの前頭前野のある大脳新皮質の一部で脳のうちでも一番ゆっくり成熟するそうです。そして、この領域が成熟し、神経回路の刈り込み、強化が完了するのは20歳半ばだそうなのです。では、人間の理性的なところが完成するのが20歳半ばだというのであれば、子どもはこの理性を司る脳を持たない以上不完全な大人なのでしょうか。

それは間違いだとゴプニックは言っています。

子ども期とは

ゴプニックは人間の成人までの期間が他の種よりも長いことで学ぶことが多くでき、環境に適応し、環境を変えることさえもできる力を得ることができると言っています。しかし、その反面、不利な部分もあると言います。それは「時間がかかりすぎる」ということです。確かに、考えてみると子どもが独り立ちするまで、元服の期間ですら12~15年もの時間を必要とします。今の時代では20年期間としては確かに長い年月が必要とされます。

 

しかし、大人に守られている時間が長ければ長いほど、「学習に集中できる時間が長い」というのも半面ではあります。要はこの期間をどう有意義な時間として保障してあげることができるのかということが重要なのだということなのでしょう。大人になれば、生活のため、ただ学習だけに時間をかけるわけにはいきません。そのため、「子ども期」と言われる時代にやるべきことは学習です。そして、ゴプニックは幼児期の期間は「自分のいる世界を学び、他にどんな世界があるえるのだろうと思い描く期間です」と言っています。そして、その時の成果は大人になったときに現れることでしょうと言っています。つまり、この言葉を考えると「学習」という言葉の定義をしっかりと考えなければいけません。それは決して学歴や成績といったものではなく、「自分のいる世界と他にどんな世界があり得るのだろうかを思い描く」期間なのです。

 

先日、自園で卒園式がありました。その子どもたちの夢は非常にユニークです。「警察官になる」「アイスクリーム屋さんになる」といった夢が書かれていました。こういった夢を持つことこそがそもそもの学習の根本になければいけないのでしょうね。そして、その夢実現化していくために「学習」があるのだと思います。たとえば、優秀な「寿司職人」になるためには学校の成績が重要なのでしょうか?それよりも早くから職人の下で習っていた方がいいように思います。ただ、そのためには「なりたい」という思いが強くなければ厳しい修行には耐えれないことでしょう。ただ、最近では専門学校でそのノウハウを効率よく教えてもらうようなことができるようになっています。こういったところに学びに行くのも学習です。要は学習とは先人の知恵を学ぶことであるのです。そして、その学習の中で将来の自分を思い描き準備していく時間でもあるのです。だからこそ、学習は大切になるのです。それはただ漠然と成績を上げることや学歴をあげることを意味していないのです。

 

そのため、以前紹介したゴプニックの言葉で「子どもと大人は、同じホモ・サピエンスでありながら、形態のまるで違う生物だと考えるほうが適切です」という言葉が見えてきます。事実、赤ちゃんの脳は想像することと学習することに特化されているらしく、大人の脳よりたくさんの神経回路があることが分かっているそうです。

 

そこでゴプニックは子どもと大人の間には、進化的に一種の役割分担が出来上がっていると言っています。