ノーマライゼーション

障害者教育に「ノーマライゼーション」という言葉があります。それは1953年にデンマーク人のバンク・ミケルソンが「ノーマライゼーション」という理念を唱え、「障害とは、個人に属する特性ではなく、個人と個人を取り巻く環境が接する際に生じる問題である」と定義したのです。この考えはたとえ、障害を持っていなくても、環境作りの中で、その障害を無くす努力はできるし、それを個人でなく、公的に保障しようとするものです。つまり、障害があっても、自分の家で普通の暮らしができるための援助を公的に保障し、充実した日常を送ろうということです。そして、1980年、国際連合は「国際障害者年行動計画」の中で「障害者は、その社会の他のものと異なったニーズを持つ特別の集団と考えられるべきでなく、その通常の人間的なニーズを満たすのに特別の困難を持つ普通の市民」であり、「ある社会がその構成員のいくらかの人々を締め出すような場合、それは弱く脆い社会」と明快に宣言したのです。障害者は他とは異質ではなく、同じだが、人よりもより人間的なニーズを必要とする市民であるという考えです。

 

赤ちゃん学会の小西行郎氏は大学を卒業し、外来を通して障害児と付き合う中で多くの障害が治らないことを実感していたそうです。そこで無力感も感じたのですが、オランダに留学した際、「ノーマライゼーション」の考えに出会い、気持ちが楽になったというのです。留学先のオランダで、恩師であるプレヒテル教授から「障害児は訓練するために生まれてきたのではない」「障害があろうがなかろうがみんな同じ子どもで、同じ人なのだから特別扱いをする必要はない」と言われたそうです。脳性麻痺の子どもの診断においても、「脳性麻痺です」と言ったきり、日本のように親を慰めるようなことはしません。

 

彼は、「障害があって社会的不利益があれば、側にいる人がさりげなく助けてあげればよい」と言っていいました。実際にオランダでは「車いすを押してください」とお願いするのではなく、「誰か押してくれませんか」と普通に言え、それに対して誰かがスッと手を差し伸べるのだそうです。これを見て小西氏は「障害児・者の問題は、彼ら個人の問題ではなく、むしろ周囲にいる私たち、いわゆる健常者の問題であることを確信した」と言っています。ハンデのある者が努力して変わるより、そうでない健常者が受け入れることの方が、容易で安全であるかもしれないからです。それ以上に障害児・者が感じる社会的不利益の大きな部分は、周囲の無理解や善意の押し付けであり、差別意識だと言います。小西氏は「障害を自分のものとして感じる、同時代を生きる人間として共感が育っていないのです」と言っています。

 

この言葉は非常に胸に刺さるものであるように思います。確かにこのコロナの時期において「自粛警察」の問題であったり、SNSでの誹謗中傷、直接的な殺人ではなく、言葉による「殺人」はニュースでもたびたび取り上げられますし、今の時代を象徴するかのような問題です。そこには相手の気持ちに共感するといった心情が抜け落ちているように感じられます。しかし、その根底には「良かれと思って」ということもあるのかもしれません。しかし、その「良かれと思って」がかえって相手を傷つける結果にもなるのです。これは子どもの保育においても同じことが言えるように思います。「子どものためを思って」という言葉が果たして、目の前の子どもが「したいこと」なのか今一度考える必要があるのかもしれません。