教育って

小西氏はある講演会のあとで、1人の母親からこういわれました。「早期教育は、我が子の将来を案じるがゆえの親心ではないでしょうか、親を越えてほしいというのは親の共通した願いです。早期教育を否定されるなら、親はなにを目指して子育てをすればよいのでしょうか」この言葉に対して、小西氏は「親並みで良いのではないでしょうか」と答えたのです。その真意は「子どもたちはいずれ、私たちの手を離れ、独り立ちをします。体力的、精神的、社会的、あるいは経済的に親をこえる瞬間を迎えるでしょう。我が子の成長を実感することは親の喜びであり、親としての役割の一つの区切りとなります」というのです。

 

「我が子の幸せを願う親心に疑問を持つものではありません。」と小西氏は言います。どの親でも子どもに対して不幸を望むことはないでしょう。しかし、乳幼児への早期教育は「我が子が他人よりも優秀であってほしい」「親にできなかったことを実現させたい」「夫のようになってほしくない」といった親の自信の無さや現状不満の裏返しに感じられるというのです。そして、「何をもって親を越えたというのでしょうか」それは学歴でしょうか。社会的地位、経済力でしょうか。しかしそれはあくまで人の一部でしかなく、ともすれば、非常に表面的な部分です。

 

また、ある人は「これからの子どもはかわいそうだ」という人もいると小西氏は言います。受験競争、少年犯罪、年金問題、少子高齢化、子どもたちの未来が複雑で混とんとしたものと予想されるからです。しかし、小西氏は「このような社会にしたのはほかでもない私たち自身であることを忘れてはならない」と言っています。そして、「子どもの将来を案じるのは親として当然です。しかし、早期教育によって人よりも優秀な子どもに育てることが親心ではないと私は思います。ましてや社会の責任を子どもたちに押し付けないためにも、まず親自身が日々イキイキとした人生を送り、一人一人にできることを実践することが、子どものよい手本となるのではないでしょうか。」

 

私は常々、教育や保育とは「人生を豊かにするもの」であってほしいと思っています。しかし、今は教育は「豊かにするもの」ではなく、「ランク付けされるもの」であったり、「しなければいけないもの」であるということが前に出すぎているように感じます。確かに、学問や教養といったものは必要です。しかし、それらのものは個々によるものもあるのではないかと思うのです。幸い日本は平和な国で紛争や戦争に巻き込まれるということも少ない国です。だからこそ、いろんな選択肢があるはずです。しかし、その選択肢を選ぶことができない人が多くなっているように思います。日本は海外に比べ「夢」を持っている子どもたちが少ないと言われています。それが今の社会を物語っているようにも思うのです。それが今回取り上げた赤ちゃん学会の小西氏の「早期教育」の話でもあるように、いつのまにか大人の願いや社会の責任を子どもに押し付けてしまっている部分もあるように感じます。

 

見守る保育には「こどもを丸ごと信じただろうか」という言葉があります。この「信じる」ということには子どもを一人の人格者として見ていこうという願いが込められています。そして、これは子どもの権利条約においても大切にされていることです。子どもにとってどういった環境を作ることが大人としての役目なのかよく考えさせられます。