障害者モデル

赤ちゃん学会の小西行郎氏は「ノーマライゼーション」の広がりとともに障害者の環境について話しています。これまでの障害者に対する考え方は「私たちは健全だが、あなたたちにはハンデがあります」という考えでした。そのため、「そのハンデを持ち続ける限り、相互コミュニケーションはうまく機能しません。治療やリハビリテーションを受けてハンデを克服してください」というように障害者の方に改善を求めていました。しかし、ノーマライゼーションにおける「障害者モデル」は「障害は、障害者自身ではなく、障害者と健常者の間の環境に問題がある」という立場に立っています。つまり、環境で発生する様々な不具合を改善すれば、障害者問題は解決の方向へ向かうというのです。環境を変えることが中心で、人を変えることではない分、健常者が行動を起こすこともできるのです。

 

例えば、耳や目が不自由な人が生活していく中で、そういった不自由があっても、普通に暮らすことができる環境があるのであれば「障害とは何を指すのか」ということになります。そういった健常者と同じような環境で生活できるのであれば、何も膨大な時間やお金、そして、肉体的、精神的苦痛を伴うような治療を障害者に課して、「何としても治す」必要は無くなるのです。しかし、日本はまだまだこういった現状が改善しているとは言えないのが現状です。そのことについて3つの問題点があると小西氏は言っています。

 

その一つが学校教育です。学校教育でも障害者が普通学級で教育を受ける混合教育の考えがあります。しかし、その一方で、教師が障害児の受け入れを拒んだり、健常児の親が抵抗を感じる現実があります。しかし、小西氏は障害者と健常児とが一緒に生活することに意味があると言っています。

 

ある地方の大学に通うS君は中学校の頃、車いすで生活する重度の身体障害者のF君と同じクラスになります。彼は自力で車いすを押すこともできなければ、言葉によるコミュニケーションもほとんどできませんでした。そのため、初めは嫌がる子どもいたそうです。しかし、ともに授業をうけ、学校行事に取り組むうちに自然とクラスに連帯感が生まれ、F君の面倒を見る男子生徒も何人か出てきました。中では、F君をめぐって意見の食い違いもあったが、担任の先生はそのことに関しては見守っていたそうです。そうしていくうちに卒業旅行へ行くころには、F君は周囲の話を理解しながら言葉で返事をするようにまでなっていました。しかし、そんな中、病気が悪化し、F君は卒業を待たず亡くなってしまいます。

 

混合教育は、障害児のためだけではなく、健常児にとっても、非常に意味のある社会生活の場となると小西氏は言っています「四肢が不自由な人、知能に遅れのある人、発達障害のある人など、社会にはいろいろな人たちがいる。その人たちとどうわかり合い、助け合いながら集団を作るか」を子どもたち自身が考えることに大きな意味があると言っています。私も同じことを感じることが多々あります。そしてもう一つ付け加えると結果として、障害児のためにもなるのです。「F君の場合は周囲の話を理解しながら言葉で返事する」といったように言語でのコミュニケーションができないと言われている子どもですら変わってくるのです。それだけ社会性を保つことは、多くのことを子どもたちにもたらしてくれるのではないかと感じます。

 

これは障害児に限らず、人間関係においてもいろいろな人がいます。これからの時代は障害を持っている人だけではなく、外国がルーツと言われれる人も多くなってきます。つまり、より多様な人材と関わることがこれからの時代より、重要性が増してくるのです。そういった時代の中で、多様な価値観を受け入れる環境というのが求められます。「ノーマライゼーション」という考えは、障害においてのみ言われる言葉ではなく、これからの時代に必要なスキルでもあるのかもしれません。