受け入れる

これまでも小西氏は「障害児・者の問題は、当事者が障害を克服できないことではなく、それを受け入れられない周囲の問題である」と話していました。そのため、障害を持つ親を責めたり、子どもを矯正させたりすることで、障害児・者問題が解決するわけではないのです。また、障害児教育において、小西氏は「受容」という言葉には「あきらめ」という前提があるように思うとも言っています。

 

障害児教育は「できないことからの出発」です。たとえば、脳性麻痺やダウン症など先天性障害は、医学的には完治が困難です。そのため親は「普通の子どもと一緒に生活はできないかもしれない。普通に歩いたり、社会に出てみんなと一緒に働いたり、ましてや人並みの結婚をすることはおそらく無理だろう」といった多くの「断念」と向き合わなければいけないのです。しかし、小西氏はこの「あきらめ」に別の道を開く鍵があるような気がすると言っています。

 

このことについて、小西氏は知り合いの小児神経医の男性を例に出しています。その男性は脳性麻痺を持っています。彼は独特の歩き方をするのですが、彼はいつも「このパターンは僕が勉強しました」というそうです。そして、一般的には普通の人間と変わらない「正常」な歩行パターンを教える歩行指導に当たって、「その動き方だと、股関節が外れやすくなりますよ」「筋肉に負担がかかるから普通の歩行に近づけたほうがいいですよ」と助言を受けたとき、「言われてできりゃ、苦労せんよ。できなかったからこの歩き方で45年間生きてきた」と言ったのだそうです。自分の障害において、それと向き合い、受け入れた人にとって、強要されることはかえって「いらぬお節介」になってしまったのかもしれません。

 

従来の障害児医療の考え方は「障害を克服してできるようになりましょう」というものでした。そして、障害をいかに早く発見し、治療に入るかが、障害克服の決め手であり、それができれば健常児と同じように「社会に出られる」からです。しかし、この裏には過去への強いこだわりがあるのではないかというのです。「なぜこの子は障害を負ったのか」「あのときもっとこうしておけば」といった具合にです。しかし、過去を振り返っても、障害の原因を取り除くことにはなりません。それよりも障害を受け入れることによって、家族に生きる意欲がわいてくるのではないかというのです。歩くことをあきらめることは残酷なことでありますが、歩けないと解って歩き続ける訓練を受けるより、車いすの使い方やパソコンに文字を打ち込むなど、今後の生活について話し合うことも必要ではないかというのです。

 

つまり、できないことに力を加えるよりも、できることに力をつけていく方が良いのではないかという考え方です。これは何も障害児・者に限らず、早期教育においても、同様のことが言えるのではないかと小西氏は言っています。