8月2020
遊ばないと社会的スキルが身につかないという考えを裏付ける動物実験の結果があります。1999年に行った研究で、ラットを生後4~5週の最もよく遊ぶ発達時期に2週間隔離しておき、その後に他のラットといっしょにすると、同時期に隔離されなかったラットと比べて社会的な活動が非常に少なかったといいます。2002年の別の研究では幼若時に隔離して育てられた雄のラットから繰り返し攻撃を受けても、正常な回避行動を示さないことが分かった。これが遊びの欠如によっておこった原因が、社会的隔離か、社会的問題かはまだはっきりとはしていないそうです。
別の研究では、遊びが、情動反応と社会的学習に関わる「高位の」脳領域での神経の発達を促すことが示されています。戦闘ごっこをすると、新しいニューロンの成長を促進する脳由来神経栄養因子(BDNF)というたんぱく質がそうした領域で放出されることが2003年に報告された。対照群として13匹のラットを3.5日間自由に仲間と遊ばせる一方、同じ期間、別の14匹のラットを1匹ずつ隔離しておいた。ラットの脳を調べたところ、遊ばせたラットに比べて、はるかに高い濃度のBDNFを含んでいた。この論文の共著者であるワシントン州立大学の神経科学者パンクセップは「遊びには脳の行為の領域を社会化する重要な作用があると考えられる」といっています。
さらに心の健康にも遊びが極めて重要であることを示す研究結果がある。おそらく、子どもは遊びによって不安やストレスに対処できるようになるのだろう。1984年に発表された研究では、3歳児と4歳児の計74人を対象に、幼稚園の入園初日の不安の度合いを調べました。不安レベルを測る指標として、駄々をこねる、めそめそ泣く、懇願するといった子どもたちの行動と、手のひらの汗の量を用いた。研究者の観察に基づき、子どもたちひとりひとりについて、不安状態にあるかないかを評価した後、74人の子どもを無作為に4つのグループに分けた。
半分の子どもたちはオモチャでいっぱいの部屋に連れて行かれ、一人で、あるいは仲間の子どもたちと15分間遊んだ。残り半分は、一人または複数の子どもと一緒に小さなテーブルに座らせ、15分間教師が語る話をきかせました。その後、子どもたちの不安レベルを再び評価した。すると、もともと不安だった子どものうち、遊んだほうの子どもは、話を聞いた子どもに比べて不安レベルが半分以下に下がった(初めから不安を感じていなかった子どもの不安レベルはほぼ同じままだった。)と言います。
子どもたちは遊んでいる中で、さまざまな影響を受けているのですね。あそびは大人にとってもストレス解消になるというのはこれまでも話してきましたが、解消するだけではなく、不安レベルに対する耐性のつくということも分かってきました。いかに子どもが自由に発想し、遊ぶことが子ども期には必要でそういった時間を確保すること、保障することが大きな影響をあたえるのかということが分かります。また、この実験において、非常に面白いことが分かってきました。それは遊ぶための関係性と遊びの種類です。
2020年8月16日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
ペレグリーニは社会的スキルの中でコミュニケーションはほぼ間違いなく最も価値の高いものだと言っています。そのため、社会的スキルの発達においても仲間との遊びは非常に価値のある者だと言うのです。いくつかの研究において、子どもたちは大人と遊ぶときよりも、子ども同士で遊ぶときのほうがより洗練された言語を使うことが分かっているそうです。
例えば、ごっこ遊びでは「実際には存在していないものについて話し合わなければならないので、仲間に自分が言おうとしていることをうまく伝えられるように、込み入った言葉を使わなければならない」と言います。ところが相手が大人であると、大人の方が足りない部分を補ってしまうので、子どもは楽をするというのです。このことは保育の中でも、多々あります。大人はニュアンスで理解してしまうのに長けています。そのため、子どもの言葉を最後まで聞くのではなく、先回りしてしまうことすらあるのです。それでは、子どもは自分でどのように伝えるのがいいのか、ということを考えなくなります。私の園では異年齢で過ごしているので、年長児が年少の子どもたちに話しかけている姿を見ると、同年齢の子どもと話しているのでは、話し方も話す速さも違っているのが分かります。
このように遊びが子どもの社会化を助けるなら、遊びの不足は社会科的発達を妨げるはずです。それを示唆する研究が、ミシガン州イプランティの教育研究財団 ハイ・スコープ・エデュケーショナル・リサーチ・ファンデーションが1997年に発表した論文です。この論文では落ちこぼれになる可能性が非常に高い貧しい家庭の子どものうち、遊びを重視する保育園に通った子どもは、絶えず教師によって命令される幼稚園に通った子どもよりも、大きくなってから、より社会的に適応していることが示されました。教師から絶えず指示される幼稚園に通った子どもの1/3以上は、23歳までに重罪で逮捕されていたそうです。一方、遊びを重視する保育園にいた子どもたちの場合は、逮捕者は1/10に満たなかった。そのうえ、遊び重視の幼稚園に通った人のうち大人になってから停職処分を受けたのは7%未満なのに対して、直接教師から命令を受けていた人たちの1/4以上が停職処分を経験していたのです。
逮捕者や停職処分を受けた人がこれほどまでに数が違っているのか、そこには自由遊びが大きな要因であると言っています。実際のところは、子どもたちが主体的に考え、関わり合いながら自分たちで問題を解決したり、決めていくということが大切になってくるというのが分かります。そして、そこで培った非認知能力などの社会的スキルが社会に出たときに大きな力となり、子どもたちの人生に影響が出てくるというのです。そして、そういった力を得やすい環境というのが「遊び」であり、自由遊びは文字の通り、「自由」なだけに、より子どもたちの能力を発揮しやすい環境となるのでしょう。「自由」というのはなかなかに難しいものです。「なんでもいい」と言われるよりも「ある程度の条件」を出してもらった方が楽だったりします。「自由遊びは目的がない」とこれまでもありましたが、目的がなくできることというのは意外にも難しいものなのです。その目的を自分で見つけることや、価値を見出すということは確かにとても重要な経験になるということが分かります。
2020年8月15日 5:00 PM |
カテゴリー:教育, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
どうやら、自由遊びには系統だった遊び以上に、自発性が保障されており、そのことが非常に重要な意味があるということなのですね。子どもたちは自由遊びをする中で、想像力を使って、新しい活動や役割を考え出すことを行います。そして、それだけではなく、社会的スキルも同時に発達するというのです。
ペレグリーニは「先生の言うとおりに行動しているだけでは、社会的競争力を見につけることはできない」そして、「そういったスキルは仲間と交流して、何が許容され、何が許容されないかを学ぶことで習得するのだ」と言っています。子どもたちの遊びを見ていると、大人が設定する活動を見ていると、子どもたちの質問は当然、それを示した大人にします。しかし、遊びの中でうまくいかない時は当人同士で話合うことになるのです。こういった子ども同士が遊びの中でお互いの意見を調整し合うことで、子どもたちは公平さや、交代することを学ぶのです。
自分のやりたいことだけを主張し、他の友だちの意見を聞かない子は遊び仲間を失ってしまいます。ペレグリーニは「子どもたちは遊びをずっと続けたいので、喜んでちょっと我慢して、他の子の願望を満たしてやるのだ」と言っています。子どもたちはその活動を楽しんでいるため、欲求不満に直面しても、算数の問題が解けない時と違って、簡単にあきらめたりはしない、こうして粘り強さと、交渉能力が育っていくのです。
このことは最近よく言われ、これまでのブログでも紹介した「非認知能力」というスキルです。つまり、子どもたちは自由遊びの中で、特にこの非認知能力を得ているというのです。ここから言えるのは、これまでも非認知能力の大切さは話してきましたが、大人だけの力では育たないということです。前回、森口佑介氏の「自分をコントロールする力」という中では、大人のアタッチメントが言われていたり、子どもたちに対して、応答的な関わりをもつことが大切だと言っていました。それはなぜなのか?なぜ、応答的な関わりを持つことが大切なのかということはここで言われているように、自分で考え、判断し、周りの意見と調整することが大切だからなのです。そのため、大人の介入は必要以上に入ることはかえって弊害をもたらしかねないのです。子どもにとっては、先の成長を考えると「大きなお世話」になってしまうのです。
子どもの世界を保障し、子どもが不安になった時に支えてあげられることが大切なのです。遊びにはそういった意味があり、こういった遊びの本質に関わる内容が研究されていることを知ることは大切ですね。また、ここで繰り広げられているコミュニケーションについてより、もう少し掘り下げてペレグリーニは言及しています。
2020年8月14日 5:00 PM |
カテゴリー:乳児, 乳幼児教育, 幼児 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
私は「志」や「誇り」という言葉に強い意志を感じます。そして、この言葉はどの仕事においても、重要なことであると思っています。先日、テレビ番組「半沢直樹」を見ていても、それを感じることがありました。
そこでは主人公の半沢直樹が「私は勝ち組、負け組という言葉が大嫌いだ」というセリフがあったのです。そして、「子会社だから、親会社だからといって、遠慮することはない。」ということも言っていました。ほかにも「信念を持って事に当たる。真に顧客のお客様の利益になるために」と言葉は正確ではないですが、そういったニュアンスのことを言っていました。
この言葉も、どの職業にとって、重要な意味合いがあるように思います。私は保育の話を職員にするときに必ず「理念を持って保育をしよう」と話すことがあります。一体自分たちが何のために保育をし、何のために今の仕事があるのかを考えてほしいと思っています。そして、この言葉を話しながら、自分にも言い聞かせるようにも戒めています。
今回の新型コロナウィルスでもありましたが、この仕事は比較的に国に守られた仕事です。コロナ禍でも仕事は休業要請からも外れ、仕事はありました。飲食業やその他の仕事は今の時代非常に苦しい時代でもあると思います。しかし、こういった社会インフラの仕事というのはそれだけ社会において重要であるということも言えるから確保された現状があるのです。この意味をよく考えなければいけないとふとドラマを見ていて改めて感じました。
「保育」というのは人を育てる仕事です。つまり、その先の社会に「生きる人材」を作ることが仕事です。そういった意味のある仕事であり、ただ子どもを預かっている仕事ではないのです。そのため、私の師である先生がいつも言うのですが「保育は子どもたちが社会に出た時に活躍するためには、未来のことを予測して保育しなければいけない」とおっしゃっていました。それほどまで、高い理想があるということをいわれなければ感じない私もまだまだ未熟であると思いましたが、それが実際のところ真に考えなければいけないことであり、こういったマインドを持って保育を組み立てていかなければいけないのだろうと思います。
今の保育の現状は「職場の人間関係」や「保護者との関係」で1年もたたずやめていく職員がいるという話を聞きますし、保育士不足も深刻です。しかし、こういった時代だからこそ、この仕事が一体、社会にどれだけ貢献し、どれだけやりがいのある仕事かということを改めて感じることが大事なのだろうと思います。でないと、仕事の意味ややりがいを感じません。なによりもそういった気持ちが持てるような保育士施設にしていくことが大切なのだと思います。
しかし、こういった思いを持たせるということはなかなか簡単なことではないというのは身をもって感じています。だからこそ、自分はもっとより高い信念を持たなければいけないのだろうなと感じました。変な話ですが、こういったドラマを見ると改めて奮い立たされるところは多くありますね。
2020年8月13日 5:00 PM |
カテゴリー:あいさつ, 社会 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
先日、大人にとっても「遊びが大事」と言っていました。しかし、私の言っていた趣味としておこなう「遊び」というのはここで言われる「自由遊び」ではありません。規則があり、一定のルールがあります。このことを子どもたちの遊びに当てはめて見ましょう。たとえば、子どもたちに「運動をする遊び」というとどういったことを思い浮かべるでしょうか。多くの人は、サッカーや野球などの遊びが出てくるのではないでしょうか。では、そこに「自由遊び」の要素はあるのでしょうか。こういったサッカーや野球などはルールがあります。専門家はこういったゲームや系統だった活動は「自由遊びを侵食している」と言っています。
こういった系統だった。規則に従うゲームは面白いし、学習体験としても大切なことが言われています。ミネソタ大学の教育心理学者ペレグリーニも、そうしたゲームは社会的なスキルや集団の団結力といったものを伸ばすだろうと言っています。しかし、その反面「ゲームには、あらかじめ決められ、従わなければならない、優先されるべきルールがある」と言っています。そして、「ところが遊びにはそうしたルールがないので、より創造的な反応ができる」というのです。たしかに、ゲームや競技といった系統だった活動というのはルールがある分、あらかじめ、それを守ることが求められます。一方で、自由遊びというはその場で起きることはイレギュラーなことも多く、その都度、ルールを作っていかなければいけないですし、ある意味で「フリースタイル」です。
そして、このような創造的な側面は、発達中の脳にとって、あらかじめ決められたルールに従うよりも良い刺激となるため。極めて重要だといいます。自由遊びでは子どもたちは想像力を使って新しい役割や活動を考え出すことが求められるのです。
子どもたちが自由に遊んでいる中では、さまざまな場面が見られます。たとえば、ままごとではそれぞれがそれぞれの役割を演じたり、子どもたちの戦い遊びなども、今の子どもたちを見ていると決して「ヒーローと悪者」という構造ではなく、「ヒーロー対ヒーロー」になっていたりと役割が混とんとしています。こういったように自由遊びにおける遊びのあり方の定義は非常に多岐に渡ります。
さらに自由遊びには、動物にみられる遊びに非常によく似ていることから、重要な進化的ルーツがあることが示唆されています。「Genesis of Animal Play(動物の遊びの起源)の著書 バーガード氏は、18年をかけて、動物を観察し、遊びをどう定義したらよいかを学びました。そこでは「反復的であること」「自発的であること」「ゆったりとした状態で始められること」が条件だと言っています。動物も子どもも、栄養を十分に与えられないときや、強いストレスにさらされているときには遊ばない。最も大事なことは、観察されている状況において、その活動に明白な機能があってはならないことだ。つまり、明らかな目的がないことが条件だというのです。
「自由遊び」とは「明らかな目的がない」ことが言えるのです。確かに子どもたちの遊びには「目的はない」ですね。「楽しいからやってみる」といったことが言えるのかもしれません。それに比べ、最近ではルールのある遊びをさせようとさせすぎているところもあるのかもしれません。現場を見ていると「柔軟性」というものがなかなかできないことが多いです。それは私自身も人のことは言えません。その部分の裏にはこういった系統だった遊びが進められており、「自由遊びは悪」といった風潮があるからなのかもしれません。
2020年8月12日 5:00 PM |
カテゴリー:乳幼児教育, 教育 |
投稿者名:Tomoki Murahashi
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