4月2020

融通の利かなさ

非行少年の特徴の3つ目の特徴は「融通の利かなさ」です。私たちは何か困ったことがあれば、いくつかの解決案を考えます。そして、その選択肢からどの方法がいいか吟味し、選択して、実行し解決を目指します。うまくいかなければ他の選択肢を選び直し、再度実行していきます。ここで重要になってくるのは解決案のバリエーションの豊富さと状況に応じて適切に選択肢を決める「融通を利かせる」力です。これは頭の柔らかさと言い換えてもいいのかもしれません。一つの問題に対して、融通が利かない、頭が硬いとどうなるでしょうか。解決策の方法が少なく、その時に不適切な行動による解決策しかおもいつかなかったとしたらどうなるのでしょうか。宮口氏はこのように不適切な行動を繰り返してしまうことに対して、こういった「融通の利かなさ」があるということに非行少年たちと面接をしていく中で気づきました。

 

宮口氏は非行少年たちの面接の中で「日本版BADS(遂行機能障害症候群の行動評価)」という神経心理学検査を少年たちにしたときに、この融通の利かなさに気づいたと言います。BADSはもともと、高次脳機能障害などの脳損傷患者の遂行機能を評価する方法として開発されたものです。遂行機能は実行機能とも呼ばれ、日常生活で問題が生じた際に、それを解決するために計画を立て、効果的に実行する能力です。この機能に関しても、ポール・タフ氏の著書に紹介されていましたね。そこでは、実行機能を混乱していたり予想がつきづらかったりする状況や情報に対処する能力のことであると言われていました。どうやら宮口氏の言っているものと同じであるということが言えます。

 

高次脳機能障害ではIQは問題がないので周囲になかなか理解されず、日常生活で様々な困難が生じますが、BADSを使うとその困難の程度がよくわかります。宮口氏はこれを非行少年たちにも行いました。それは非行少年たちの中にはIQは高いのにどうも要領の悪い少年や、逆にIQは低いのに要領がよくて賢いなと思わせられた少年が何人もいたからです。結果、IQを図る検査では彼らの真の賢さを適切に評価できていないことに気づいたのです。

 

BADSの検査の中には「行為計画検査」というものがあります。透明な筒の中にコルクが入っており、その隣には真ン中に小さな穴が開いた蓋がかぶさった水の入ったビーカー、そして、手元には先の折れ曲がった針金、透明の筒と蓋が置かれています。ルールは手元の針金と透明の円筒所の筒と蓋の3つを使ってコルクを取り出すこと。コルクの入った筒やビーカーに手を触れることはできません。この問題の答えは、まず透明の筒に蓋をし、針金でビーカーの蓋を取ります。そして、コップの形状にした筒と蓋で水をすくい、ビーカーにそそぐことでコルクを取り出します。この実験に関して言うと、何手か先を見通さなければいけませんが、健常児ならばすぐにできるような実験です。

 

では、融通の利かない非行少年たちはどうするのでしょうか。少年たちはいきなり針金をつかって細長いコルクの入った筒をつつき、コルクを取ろうとします。しかし、針金は短いので、コルクを取ることはできません。無理とわかっていても、ひたすら続けたり、コップを作る筒や蓋でコルクの入った長い筒をペタペタ叩いたりして、制限時間が過ぎてしまいます。横においてある水の入ったビーカーには目を向けなかったのです。「どうしてこんなところに水があるのだろう」といった疑問すらわきません。目の前のコルクにしか目が向かず、水を使うといった解決策が出てこないのです。これでは悪友に悪いことを誘われたら躊躇なくやってしまうことにつながると宮口氏は言っています。

感情統制の必要性

非行少年は感情統制に問題が多く、多くのストレスを感じているということを宮口氏は言っています。しかし、これらは非行少年に限ったことではありません。イジメ被害や人との関わりにおける被害意識、自分に自信がないことや相手に対する固定観念。これらのことが紹介されていましたが、そのどれもが非行少年に限らず、私たちそれぞれにも日常的に起きるストレスであります。

 

宮口氏は感情統制の大切の理由のもう一つは「感情は多くの行動の動機づけになっている」ということを言っています。つまり、人は「こういったことをしたい」「○○をしたい」という気持ちがあるから、何らかの行動が生起されるというのです。無条件反射を除くと、感情が人間のほとんどの行動を支配しているというのです。つまり、保育でいう「心情・意欲・態度」ですね。まず、心情(やってみたい)という気持ちがあるから、意欲(やってみようかな)という気になり、態度(やってみる)という行動につながるということですね。そもそも、その瞬間の気持ちがなければ行動は写されないのです。

 

ただ、非行少年によっては「ストレス発散に、○○をしたい」という文章の○○に「万引き」「痴漢」などといった不適切な言葉が入る場合があるというのです。不適切な感情が不適切な行動を生み出してしまうのです。ここが普通の人の感情統制とはちがうのかもしれません。一定のブレーキが利かなくなっているのです。仮に思ったとしても、そこで留まれるのと、そうではないのとでは大きく違うのです。

 

宮口氏はその時の対処として①ストレスがたまらないように生活を見直す。 ②○○に「スポーツ」「買い物」などを代わりに入れる ③○○したい気持ちを下げる といったものが考えられると言っています。①と②はその場ですぐに対応できるものではなく、時間と労力が必要ですが、いったんうまくいけば効果が生まれます。一方で③は気持ちを下げればいいので即効性がありますが、どうやって不適切な気持ちを下げるかが大きな課題になります。「○○したい」という気持ちは、その人間のそれまでの生育歴、生活パターン、思考パターン、対人関係パターン、倫理観などが関係してきます。これらを考えることはなかなか困難です。認知康応療法はおもに不適切な思考パターンを振り返ることで、修正を図っているのだと宮口氏は言っています。

 

つまり、私たちの場合、不適切な行動をする前に、一度その行動が適切かどうかを振り返ります。それこそが認知行動療法と同じプロセスと言えるのです。しかし、その時に「怒り」によって感情統制がとられない場合には勢いに任せて正常な判断ができず、振り返る前に行動に移してしまうということになるのでしょう。これはDVを働いてしまう人や、万引きをしてしまう人にも同じことがいえるのでしょうね。

 

今の人は以前、ポール・タフ氏の著書にあったようにメタ認知(思考についての思考)が弱いのだと思います。やはり宮口氏の著書の内容を見ていても、ポール・タフ氏が挙げているような「性格の強み」というのは教育現場においても、子どもを育てる環境においてももっと考えていかなければいけない内容であるように思います。

怒りの背景

宮口氏は官女の感情統制の中で「怒り」が最も厄介だと言っています。それは対人トラブルの原因が大体「怒りからくる」ものであり、「自分の思い通りにならない」「馬鹿にされた」といったものから起こることがもとになるからなのです。また、これらはさらにそれぞれの個人の思考パターンによって怒りの程度が異なります。

 

例えば、AさんとBさんがいたとします。二人が同じ作業をしていて、Cさんが「それは違うよ」と注意をします。その時にAさんは「なるほど、Cさんありがとう」と考え、Bさんは「うるさい、馬鹿にしやがって」と考えます。AさんとBさんとではCさんの言葉の受け止め方は大きく違います。このように好意的に受け取るか、被害的に受け取るかは、それぞれの思考パターンによって違うのです。そして、どちらの方が「怒り」につながるかは、容易に想像できます。では、このような被害的な思考パターンはどのようにして生まれてくるのでしょうか。宮口氏はその多くの場合、それまでの対人関係のあり方(親からの虐待やいじめ被害を受けていたことなど)に基づく要因と、B君の自信の無さが関係していると言っています。

 

自分に自信がないと自我が脆くて傷つきやすいので、「また俺の失敗を指摘しやがって」と攻撃的になったり、「どうせ俺なんていつもダメだし・・・」と過剰に卑下したりして、他者の言葉を好意的に受け取れないのです。自信が持てない原因には「対人関係がうまくいかない」「勉強ができない」「じっと座っていられず注意ばかりされている」「忘れ物が多く叱られている」「スポーツができない」「運動が苦手」などがあります。さらにそうなる原因として発達障害、知的障害、境界知能があることもあります。

 

怒りのもう一つの背景として、「自分の思い通りにならない」といったものもあります。これは「相手への要求が強い」「固定観念が多い」といったことが根底にあります。相手に「こうしてほしい」という願いの要求や「僕は正しい」「こうあるべき」といった歪んだ自己愛や固定観念が根底にあるのです。たとえば、道ですれ違う人と肩がぶつかるときがあります。こっちが誤ったのに相手が何も言わなければ、ムカッとするかもしれません。しかし、それは「ぶつかったら謝るべき」という固定観念があるからなのです。当然、相手が自分音思い通りに動いてくれることは稀です。すると固定観念に反した相手に対する「怒り」が生じ、その行動は「怒り」に基づいたものとなり、うまく処理できないと突然キレたりするのです。

 

このように宮口氏は怒りにはこういった背景があるということを言っています。しかし、こういった背景は非行少年に限らず、普通の人でも起こりうる反応です。非行少年はこういった「怒り」に対して、過剰に反応が出てくるのだと思います。また、「怒り」がおこる背景の中に「自信がない」ということが言われていましたが、その背景も紹介されていますが、私はそこにはもう一つ「過保護」も入っているのではないかと思います。今の時代は少子化社会です。子どもに対して大人が多くいる時代です。そのため、大人が子どもを容易に統制できてしまうのです。これは保育においても非常によくある話であり、「子どもたちは教えなければできない」という観念が非常に強いように思います。いわゆる「白紙論」ですね。そのため、「子どもは未熟である」という観念から、指示を出しがちです。また、その指示に乗らない子どもたちは怒られたりするのですが、特に問題行動を起こす子どもはこういった時に怒られがちであり、それによってますます自信を無くしていき、問題行動はかえってひどくなります。

 

仮に指示に従順に従っている子どもも、自分で考えるのをやめ、自分で考えるのではなく、周りに合わせるため指示を待つようになってきます。これでは子どもたちにとって主体性も自主性もあったものではありません。現在の教育現場においては主体性が叫ばれているもののそれが保障されているかというとそうではないことが多いように思います。非行少年に限らず、今の子どもたちの環境は非常に自信の持ちにくい環境のように思えてなりません。そして、その窮屈な環境の中にあることでスクールカーストやイジメ問題などが起きているように思います。

感情統制の弱さ

非行少年に共通する特徴の2つ目が「感情統制の弱さ」です。人の感情には、大脳新皮質より下位部位の大脳辺縁系が関与しているとされています。5感を通して入った情報が認知の家庭に入る際に「感情」というフィルターを通るので、感情の統制がうまくいかないと認知過程にも様々な影響を及ぼすというのです。これは大人においても同じことがいえ、カッとなって感情的になると冷静な判断がしにくくなるのはこのためだと言われています。したがって、感情の統制の弱さは不適切な行動にもつながってくるのです。

 

非行少年のなかには言葉で表すのが苦手で、すぐ「イライラする」ということや、カッとなるとすぐに暴力や暴言が出るという子どもたちがいます。こういった子どもたちは何か不快なことがあると心の中でモヤモヤしますが、いったい自分の心の中で何が起きているのか、どんな感情が生じているのかが理解できず、このモヤモヤが蓄積しやがてストレスへと変わっていきます。もちろん、時間がたつことでストレスは次第に減っていくことにはなるのですが、不快なことが続くとどんどんストレスはたまっていくことになります。すると、それを発散しなければいけなくなります。しかし、その発散方法を間違えれば、いきなりキレて暴力事件や傷害事件、性加害といった犯罪をおこすという結果につながりかねないのです。

 

こういったストレスをいっぱい溜め込んでいるいる少年たちの中に、性非行を行う少年が多いという印象を宮口氏は持っていると言っています。そして、その非行少年のほぼ95%くらいの子どもたちは、小学校や中学校でいじめ被害に遭っていたというのです。いじめ被害で計り知れないストレスをため、そのストレス発散に幼女へのわいせつ行為を繰り返いしていたというケースがほとんどだったそうです。

 

宮口氏はある性犯罪を起こした少年に「気持ちの日記」というその日に「よかったこと」「悪かったこと」とその時の気持ちを書かせたことがあるそうです。その対象の少年は感情の表現するのがとても苦手だったそうです。初めの10日間ほどは「何もありません」が続いていました。やはりかけないかと宮口氏があきらめかけたとき、11日目から「悪かったこと」の欄にとても小さな字で枠いっぱいにびっしりと書き始めたのです。そこには「僕はみんなと同じように掃除をやっていたのに、先生は僕だけしていないといったので、むかついた」「なぜ、先生は僕ばかり注意するのか腹が立った」というようなことが書かれていたそうです。

 

しかし、こういった不平不満は日記には書かれていましたが、実際に彼はこれらの言葉を出すことはなく、悶々と怒りを貯めていたのです。この傾向は学校でいじめにあっていたころから持っていたと思われ、彼はストレス発散のために、毎日のように小さい女の子を見つけては公衆トイレなどに連れていきわいせつ行為を続けていたのです。

こういった感情統制において、乳幼児教育は決して無縁ではいられないと思っています。また、こういった犯罪の一つの大きな要因は核家族の増加や、乳幼児期の子ども集団が少なくなってきたことに問題があるように思います。ここに紹介される非行少年のように自分の気持ちを主張することができるためには子ども同士が関わることの多い集団の中にいる経験はとても大きいように思います。

 

というのも、実際私が保育をしていく中で、3歳児まで家庭にいた子どもと、0歳から園にいた子どもとでは子ども同士の関わり方に違いが見られます。語彙の量の違いが見られるように思うのです。しかし、ここには一定の条件が必要です。それは乳児の頃から大人の介入を少なくし、子ども同士を関わらせる経験を多くするのかということです。自分で関わろうとする力をいかに生かすような環境を残すかが重要なのです。つい大人は子どもの問題に介入し、解決しようとしてしまうことがあります。それでは子どもが自分で解決する力をつけることにはなりません。なんでも大人が解決してしまうのは子どもの育ちにおいては「お節介」にもなりえるのです。しかし、ただ、だからといって放っておいてもいいわけでもありません。あくまで「できるだけ子どもたちが解決できる環境」を作らなければいけないのです。「子どもたちだけで解決できそうもないとき」は介入しなければいけないのです。

 

無理な時は近くに居る大人が助けてくれる、こういった安心感が、自分で関わろうとすることにもつながり、こういった経験を通して自信をつけていくことにもなるのだろうと思います。次に宮口氏は子どもたちの「怒りのコントロール」にも触れています。

見る力 聞く力 想像する力

では、宮口氏のいうように「見る力」「聞く力」「想像する力」がないとどういったことがおきるのでしょうか。「聞く力」が弱いと先生が注意しても、何を注意されているかがわからないので、同じ失敗を繰り返すことにあります。これは保育をしていてもよくあることです。子どもたちに注意をして、その時は神妙な顔をしているのですが、同じことをして、また注意されています。実際のところ、改めてその子に何について怒られているか尋ねてみると、分からなかったりすることがあるのです。これでは注意をしていても意味がありません。その子が悪いのではなく、こちらの注意が一方的であり、その子にとって分からない言い方をしていたり、相手の子どもに共感せず、感情的に言っていることもあるのかもしれません。

 

では「見る力」が弱いとどうなるのでしょうか。見る力が弱いと、文字や行を読み飛ばしが多く、漢字が覚えられなかったり、漢字が覚えられない、黒板が写せない(先生が次々に書いていくと、どこを追加したか分からない)といった学習面の弱さが生じるだけでなく、周囲の状況や空気を適切に読めないため、「自分はみんなから避けられている」「自分だけ損をしている」など被害感や不公平感を募らせることにもつながると宮口氏は言っています。

 

宮口氏は非行少年には限らず、学校で困っている子どもたちにはこれに類することが多く起こっており、不適切な言動に結びついているのではないかということを感じていると言っています。これらの見る力や聞く力においては、保育の中でもよく起きることです。それだけ、今の子どもたちはこういった環境においては恵まれていないということが分かります。まさにコミュニケーション能力においてこういった部分の弱さは子どもたちの育ちの中に大きな問題になっているということがいえます。

 

そして、三つ目の「想像する力」の弱さです。見えないものを想像する力が弱い子どもは具体的な目標を立てるのが難しくなります。そして、目標が持てないと努力もしなくなると言います。そうすると成功体験も達成感も得ることができないため、自分に自信を持つことができず、自己評価も低いところからぬけだすことができなくなるのです。そして、もう一つ困ったことが、自分が努力できないと「他人の努力を理解できない」というのです。とりわけ非行少年にとってはこういった他者理解が大きな問題になるようです。他人の努力が理解できないことで、簡単に盗んでしまったりするのです。想像力が弱いことで、「今これをしたらこの先どうなるのか」といった予想もたてられず、その時がよければいいと、後先考えずに行動してしまったりします。このように認知機能の弱さは勉強が苦手というだけではなく、さまざまな不適切な行動や犯罪行為につながる可能性があるのです。そのため、認知機能が弱い非行少年は矯正教育を行っても積み重ねができないのです。そもそもの根本的な認知機能の底上げから始める必要があるのです。

 

宮口氏は同じことが学校教育でも当てはまると言っています。悪いことをした子どもがいたとして、反省させる前に、その子にそもそも何が悪かったのかを理解できる力があるのか、これからどうしたらいいのかを考える力があるのかを確かめなければなりません。もしその力がないなら、反省させるよりも本人の認知力を向上させることの方が先だというのです。

 

この考えには私も同感です。学校教育だけではなく、保育の現場においても、同じことを考えなければいけません。よくあるのが「ごめんなさい」を言わせることです。この言葉ばかりを求めるとこの言葉を言えば、とりあえず解放されるとおもう子どもが出てきます。結果、相手にとってどんな嫌なことをしたのかが分からずに喧嘩が終ることもあります。実際のところ、自分の気持ちと相手の気持ちとの折り合いをつけることが喧嘩をする経験の一番の大切なところですが、大人の介入によっては、その経験をしないまま、大人の都合で終わらされることも多いように思います。今回出てくる非行少年たちは知的な遅れもあるのだろうと思いますが、こういった心情は仮に多少のハンデはあっても養えることがあるのではないだろうかとも感じるのです。自分の経験上、幼児期に手が付けられないほど荒れていた子どもたちでも共感や関わりを基にした保育を経験していく中で、落ち着いていくさまをいくつも見てきました。小さい頃からの発達の積み重ねや連続性はこういった将来の非行や問題行動に大きな影響を与えるのは間違いのないことだと保育を見ていて感じます。