子どもの未来と大人の姿勢

子どもと不利な状況について新しい考えかたを提唱している人々が自説を主張するとき、経済の話をすることがよくあります。それは国家的な規模で子どもの発達へのアプローチを変えていくべきだ、なぜならそれが資金の節約にも経済の改革にもつながるからだと考えるからです。実際、ハーバード大学内の児童発達研究センターの所長ジャック・ションコフは低所得層の親への効果的な支援プログラムを子どもが小さいうちに実施すれば、あとになってから治療教育や職業訓練を現行のアプローチよりはるかに費用がかからないうえに、効果もずっと高いと主張しています。ジェームス・ヘックマン氏はもう一歩計算を進め、ペリー・プレースクールは1ドルの投資に対して7ドルから12ドル分の利益をアメリカ経済にもたらしたとしています。

 

しかし、タフ氏が共感を覚えたのは、経済の話ではなく、個人的な主張の方だったと言います。彼は逆境に育つ若い人々と一緒に過ごしたとき、二つの感情がこみ上げるのを抑えきれなかったと言います。一つは、彼らがすでに何かを逃してしまったことへの怒りです。たとえば、ケウォーナがミネソタのミドルスクール時代に他の子どもたちが数学や比喩の勉強をしている間にポップコーンを食べながら映画を見て過ごしたという当時の気持ちを語ったときに、タフ氏は彼女のことを思うと怒りすら感じるというのです。なぜなら、彼女は結果として、いまになって倍も懸命に勉強しなければならないからです。

 

しかし、その反面、タフ氏はケウォーナが実際に倍の勉強をしていることに対して、二つ目の感情、賞賛と希望を感じたと言います。それは避けられない運命と見えたものに背を向けてよりよい道を行くという、苦痛を伴うはずの困難な選択をする若い人々を見たときに感じたと言います。ここで登場した彼らや彼女らは自分が10代だったころより自分を作り直すためにはるかに真剣に勉強している。そうやって毎日もう一段、さらに成功に満ちた未来へと梯子をのぼる。

 

このときにタフ氏はあるたとえをしています。「そのときまわりにいる私たちは、彼らの努力に拍手喝采をおくり、いつかもっと多くの若者が彼らに続いてくれることを望むだけは十分とは言えない。彼らだって一人でそのはしごに身を引き上げたわけではない。彼らがそこにいるのは、誰かが一段を登る後押しをしたからだ」

 

私は教育は導くものではなく、フォローしてあげるべきものではないかと思わなくもありません。本来の教育のあり方は、学習であり、そこには主体性があります。つまり、学びたいものを選ぶのは子どもであり、「学ばせる」というのは子ども主体ではなく、大人主体なのです。そして、「学ぼう」と思うのであれば、そこに「学ぶ目的」がなければ、なかなか学ぶのはつらいものになります。そして、その目標は「夢」であると思います。今の日本でどれほどの子どもたちが夢を持って「まい進」できているのでしょうか。貧困などの経済状態も家庭にはあるでしょう。そういった子どもたちが夢を持てるようにどれだけ支えれているのでしょうか。ポール・タフ氏の話は自制心や実行機能、など今求められている子どもの能力を紹介していますが、その下支えとなる大人のあり方も大いに影響のある内容として描かれています。では、どういった環境を作ることが必要なのか、それが子どもの将来のために役立てるのであろうか。そんなことを考えます。