教師の質 2

改革者たちがよりよい教員集団を生み出すにはどうしたらいいのか、そして、教員の質に関する国の支援策を進めている中で異論もかなり起きているとタフ氏は言います。たとえば、教職組合は、自分たちがこれまで数十年かけて勝ち取ってきた職業上の保護の多くを露骨に侵害する試みであると危惧していました。そして、組合に関する意見はどうであれ、実は教員についての教育のいくつかの大事な部分でまだ結論が出ていないとも言っています。

 

まず、与えられた期間内にどの教員が高い成果をあげることができるかを判断する確実な方法が分かっていないのです。怠慢に見えた教師が生徒とともに突然大きな進歩を遂げることがあります。反対に有能な教師が突然坂を下り始める事だってあります。それに優秀な教員の一団なら低所得層の生徒の成績に効果を積み上げていけるのかどうか、ほんとうのところはまだわかっていません。3年間たてつづけに優秀な教師が担当すれば、一年だけ見た場合の3倍の成果をあげることになるだろうと考えるのは理にかなっているように思われる。しかし、そうはならない可能性もある。もしかしたら効果は一年で消えてしまうかもしれない。どちらに転ぶか、今のところ確固たる証拠がないと言います。

 

確かに、これと似たようなことが保育をしている中でありました。以前、まだ自園が一人担任で一クラスを見ていたころの話ですが、ある優秀な先生が一つのクラスを持っていました。周りから見ると先生の話をよく聞いたり、静かにしていたりと行儀のいいように見えたのですが、ある時、その先生が体調不良で休んでしまいます。その時に代理でフリーの先生が入ったのですが、いつもの行儀のいい様子がうそのように落ち着かない様子になっていました。つまり、子どもたちはその先生の話は聞くのですが、他の先生の話は聞けなくなっていたのです。多くの人はそれは「フリーの先生の能力不足」と思っていたそうです。しかし、逆を言えば、その休んだ先生の影響が子どもたちにとって非常に重いもので重要だったとも読み取れます。つまり、特定の人の価値観に縛られていたのかもしれません。つまり、あたる人によって様子が変わってしまいかねないということです。それでは「身についた」とは言いません。ましてや、これから社会においては多様性が叫ばれているように一つの価値観に縛られると多様な社会の中で柔軟な発想はできなくなります。

 

しかし、もう一方で「フリーの先生の能力不足」というのが事実の場合もあります。しかし、それもどうなのでしょう。逆に言えば、その先生にあたってしまった子どもたちはうまくできることが少なくなってしまいます。つまり、「はずれ」を引いたことになるのです。この低い能力の先生にあたってしまう環境というのがアメリカでは普通になっていたのです。タフ氏は現行のシステムでは、上手に教えることの最も必要な生徒たちに最も能力の低い教員が割り当てられる自体が長年の間続いていたと言っています。そして、このことは深刻な問題として考えられていました。

 

このように貧しい子どもたちがより良い人生を送れるための国家的な取り組みにおいて、教員の在職資格の改変が政治の中心的な話題になっていました。しかし、現在の研究においては、教員の質のばらつきがあることが生徒たちの成績の差に及ぼす影響はせいぜい10%以下だろうと結論付けています。それはどういったことなのでしょうか。