非行と自己評価

非行少年に共通する特徴として4つ目に挙げられているのが「不適切な自己評価」です。これはある少年に不適切な誤りがあった場合、その少年がそれを正したいという気持ちを持つには、まず“自分の今の姿を知る”といったプロセスが必要になります。自己の問題に気づかせ、“もっといい自分になりたい”といった気持ちを持たせることが、変化のための大きな動機づけになるのです。ところが、もし、多くの問題や課題を抱える人が、“自分には問題がない”“自分はいい人間だ”と信じていて、自己の姿を適切に評価できていなければどうなるでしょうか。自分へのフィードバックが正しく行えず、「自分を変えたい」といった動機付けも生じないので、誤りを正せないばかりか対人関係においても様々な不適切な行動につながってしまうのです。

 

たとえば、少年院では「自分のことは棚に上げて、他人の欠点ばかり指摘する」「どんなにひどい犯罪を行っていても自分は優しい人間だという」「プライドが変に高い、変に自信を持っている、逆に極端に自分に自信がない」といった少年が見られたそうです。殺人を起こしている少年でさえも、「自分は優しい人間だ」といったことには驚いたと宮口氏は言っています。しかし、それと同時に「この自己への歪んだ評価を何とか修正せねば更生させることはできない」と課題の所在も強く感じさせられたと言っています。

 

では、彼らはなぜ、適切な自己評価ができないのでしょうか?その理由は「適切な自己評価は他者との適切な関係性の中でのみ育つから」なのです。たとえば“自分と話しているときAさんはいつも怒った顔をしている。自分はAさんから嫌われている気がする。自分のどこが悪かったのだろう”とか、“あのグループのみんなはいつも笑顔で私に接してくれる。きっと私はみんなから好かれているんだ。意外と私は人気があるのかも”といったように、相手から送られる様々なサインから「自分はこんな人間かもしれない」と少しずつ自分の姿に気づいていくのです。

 

心理学者のゴードン・ギャラップは集団の中で育ったチンパンジーと集団から隔離したチンパンジーの自己認知の発達を比較しました。すると、隔離していたチンパンジーには自己認知能力を示す徴候が見られなかったことが判明したのです。そして、それは人間も同様だと宮口氏は言っています。無人島に1人住んでいると「本当の自分の姿」は分からないのです。つまり、自己を適切に知るには、人との生活を通して他者コミュニケーションを行っていく中で、適切にサインを出し合い、相手の反応を見ながら自己にフィードバックするという作業を、数多くこなすことが必要なのです。ところが、もしこちらが相手からのサインに注意を向けない、一部の情報だけ受け取る、歪んで情報を受け取る(相手が笑っているのに怒っていると受け取ったり、怒っているのに笑っていると受け取ったり)と自分へのフィードバックは歪んでしまいます。適切な自己評価には偏りのない適切な情報収集力が必要なのです。つまり、ここで一つの目の「認知機能」が相手の言葉や表情を読み取ることに大きく影響してくるのです。逆に自己評価においては「自分が嫌い、良いところが自分にはない」と自己肯定感が極端に低い少年もいます。そうなると「どうせ自分なんて」と被害感がつよくなり、ひいては怒りへとつながる可能性があります。つまり、何事においても自己評価が不適切であれば、対人関係でトラブルを引き起こすことになるのです。

 

「自己評価は高すぎてもいけなく、低すぎてもいけない。」というのではなく、相手があってこそであって、自分の方にばかりベクトルが向いていることが、結局犯罪とは言わないまでも対人関係でのトラブルになりかねないのでしょう。こういった関わりになってしまうというのはよく聞きますし、昨今の人とのコミュニケーション能力に問題があるのは結果として相手を意識されてたものではないからだと思っています。つまりは宮口氏がいうように適切な他者との関係性というものが希薄になているからなのかもしれませんね。