差を縮める

カリフォルニア大学の経済学者、フィリップ・バブコックとミンディー・マークスが1920年代から現在までの大学生の時間の使い方を調査しました。二人の発見によれば、1961年の平均的な大学生は週24時間を授業外の勉強に使っていた。1981年になるころにはそれが週20時間に減り、2003年には週14時間まで減りました。この現象に境界はなく、「人口統計上のどのグループの学生も勉強する時間が減っていた」と二人は言っています。しかも、それはアルバイトの有無や専攻内容に関係なく、あらゆる学位制度、あらゆる難易度の4年制の大学でも起きてる現象だというのです。

 

では、その時間はどこにいったのでしょうか。実際そのほとんどは社交と娯楽であったそうです。カルフォルニア大学の6300人の学部生を対象とした単独の調査では、学生は12時間を友人との遊びに使い、14時間を娯楽や趣味に使い、10時間を「楽しみのためにコンピューターを使うこと」に費やし、6時間を運動に使っていました。このことを見てどうおもいでしょうか。どの国も大きく変わらないようにおもえます。実際、私自身に置き換えてみても、程度の差こそあれど、同じようなことを大学時代であったように思いますし、勉強時間というものも大学受験の頃に比べると大きく時間に差はあったのは否めません。

 

ましてや、アメリカの大学と違い日本の大学は暗記中心の試験形態でいい点を取れば合格できるという形式です。アメリカやイギリスの大学の選抜は、学力試験に加え、高校での課外活動やエッセイ(論文)、面接など、多面的に志願者を見ようとする方法がとられており、同じ大学入試とはいえ、その様相は大きな違いがあります。日本の場合志願者はその大学で学びたいという熱意や志、潜在性や人間性といったものにはあまり重視されません。結果、受験生は自然、学科試験で高い点数を取ろうと、受験勉強に全力で取り組みます。そのため、入学することが 目的になった受験勉強で「燃え尽きた」大学生は「何をまなぶか」よりもはじけた生活をしてしまうと言います。むしろ、アメリカよりも課題が多い状況かもしれません。

 

ネルソンはこの状況をみて、生徒にとってはチャンスだと思います。つまり、大学に入るのにそんなにあくせくしなくてすんだ学生は大部分がそのまま惰性でやってきます。そんな中、「しなやかな心」をもった子どもたちであったら、こつこつと勉強し、教授といい関係を築き、訓練してきたすべてのスキルを使いながら学生生活を送るなら、ギャップを埋めることができるのではないかと思うのです。

 

入学時に他と劣るところがあっても、どこを目指して、なぜそれを目指しているのかをしっかりと自覚していることができれば、自分の能力を、やり抜く力であれ、誠実さであれ、レジリエンスであれ、満足を先延ばしにする能力であれ、うまく使いこなせるというのです。それはまるでウォルター・ミシェルのマシュマロ実験の深刻な拡大版に参加してるかのようだった。こちらで差し出された選択肢は、マシュマロを今食べるか、あるいは4年間常に倹約し、徹夜をし、苦闘し、いろいろなものを犠牲にしながら必死に勉強をするかです。

 

このことはワンゴールにいる生徒の事例であったことですが、だからといってワンゴールで行われているリーダーシップ・スキルが大学生活を乗り切れるほど強力なものかはあと数年しなければ分かりません。しかし、いまのところワンゴールの全般的な在学数はかなり良く、在学率は84%にものぼるのです。ワンゴールに在学している生徒は大学に行ける可能性の特に低そうな生徒をわざと選んでいることを考えると、この数字はさらに重大な意味を持ってくると言います。

 

この研究結果においては日本においても、よく考えていかなければいけない内容のように思います。特に今の時代「非認知的スキル」や「しなやかな心」をもつことは日本でもなおさら必要な力です。だからこそ、乳幼児からどういった保育環境が子どもたちにとって必要なのか、どういった関わりが子どもたちにとって重要なのかを考える必要があります。