3月2021

いい経験を体験するために

木村さんは日常生活の中で、「追いかけること」や「逃げる」「転ぶ」「投げる」「捕る」「打つ」「押す・引く」「よける」「切り返す」という運動機会を取り入れることが必要と言っています。これは運動の動作ができているかどうかではなく、あくまで機会を与えることが重要になると言います。このときに注意しなければいけないのが、「ああしなさい」「こうしなさい」と大人が過剰なアドバイスをしてしまうことだと木村さんは言います。大人は安全を確保して見守っているだけで十分だといいます。そうすることで子どもは自主的に遊びに取り組み、子どもの集中力はどんどん深まってくるというのです。このことは遊びの中で大人がどう援助してあげればいいのかということにも通じます。

 

また、「良い経験」とは自分で考えて取り組み、それを大人に否定することなく励まされれば、身体を通して子どもの記憶に刻まれると木村さんは言っています。これは自己肯定感を得るプロセスにおいても同じことが言えるように思います。大切なことは「自分で考えて取り組む」といった過程が重要です。こういった過程を経ることで子どもたちは達成感と同時に取り組む見通しと「やる」と決めた責任も得ることになります。このことについて、私は保育においても重要なことであると同時に、これが子どもたちの「主体性」を持たせることであると思います。

 

大人にとっても、自分で選んだことを子どもがするので、初めて「叱る」ことに意味が出てきます。大人にさせられたものは子どもにとって責任はないのです。なぜなら「あなたがやれといったから」というように自分で選んだわけではないので、子どもからすると大人に責任転嫁をしてしまうことがあります。しかし、自分考えて取り組むということは「自分で選んで『やる』と決めたのは誰?」と「誰のせいか」をはっきりと伝えることができます。そのため、見通しをもって考えなければなりません。主体性を持たせることは子どもが自分で考え、自分をコントロールしなければいけないのです。こういった自分でコントロールできる活動を通すことで「できなかった」ときに大人の励ましや援助に「救い」として意味が出てきます。「主体」の取り方で子どもの見方は大きく変わってきます。

 

木村さんはこういった体験を日々行うことは、脳の欲望や感情を扱う大脳辺縁系を刺激し、運動が「楽しい」「達成感」という意欲につながるといいます。そして、ここで得た達成感は「次は何をやろうか?」といった意欲につながり、次の計画の予定の計画づくりのイメージを持たせることになります。こういった過程を繰り返すことで、様々な知的活動を行う大脳皮質を使いつつ、脳の全体のネットワークにつながることにもなると木村さんは言います。

 

子どもたちが行う「良い体験」というのは脳のネットワークをつなげることに大きな影響があるのですね。木村さんはこのことを身体運動を切り口に話をしています。確かに乳幼児期の子どもたちにとって身体運動の行う意味はすごく大きくあるということは理解できます。そして、それだけなく、「運動のとらえかた」や「活動の進め方」は遊びの環境作りにも大きな関係があるのではないかと木村さんの記事を読みながら感じます。そして、「自分で考え取り組む」ことや「大人が否定するのではなく励ます」といったことは見守る保育にも共通するものであり、やはり大切な関わりなのだろうと思います。

 

木村さんは最後にこう言っています「『子どもにはどんな習い事をさせたら将来のためになるか?』と考えることもよいことですが、難しく考える必要はありません。思い切り身体を使って遊ばせることで、子どもの身体も脳もしっかり成長していきます」

 

先日の小西行朗氏の話でも共通することですが、大切なことは子どもに追求することや押し付けることではなく、こういった環境を大人がいかに作って上げれるのかが問われているように思います。

熱中できる遊び

IWA ACADEMYチーフディレクターで、子ども発達科学研究所の木村匡宏さんは子どもが脳全体のネットワークを高次元でつながることを促すことに、おいかけっこやドッチボール、サッカーといった楽しく、気持ちよく身体を動かすことで促されると言っています。そして、そういった体を動かし、脳全体のネットワークを高次元で繋げることで、複雑なことを考える力へとつながっていくと言っています。子どもが夢中で遊んでいるとき、脳ではシナプス同士がぱちぱちと光を放ちながら、興奮状態に入っているのです。時間を忘れるくらい夢中になって遊ぶということは、物事に取り組むときの深い集中力をはぐくむのです。

 

木村さんによると結果的に子どもたちが興奮して「遊び込んでいる」ことが重要であるというのでしょう。であるとすれば、これは身体を使って遊ぶということだけではなく、何かに「夢中になって遊ぶ経験」が脳にとっていいのではないかと読み取れます。

 

また、木村さんは「興奮させてばかりいると、コントロールの効かない、落ち着きのない子になるのでは?と心配される方もいるかもしれません。これは全くの逆です。」と言っています。正当な興奮を味わった脳のほうが、むしろコントロールが効くようになるというのです。それは「興奮を経験する」ということは、逆に「興奮を抑える経験」を増やすことにも繋がるからだと木村さんは言います。ただ、ここで注意が必要です。興奮を経験することが重要であるとはいえ、「興奮の質」にも気を付けなければいけないというのです。

 

では、「興奮の質」とはどういったことをいうのでしょうか。それはスマートフォンやゲームから得る興奮ではなく、木村さんが言うには「スポーツのようにさまざまな感覚、身体のあらゆる場所への刺激を伴う興奮こそが本物の興奮で、子どもの脳の発達を促す」というのです。そこで「身体を動かす」ということにつながるのです。しかし、考えてみると「様々な感覚、身体のあらゆる場所への刺激」というのは何も「身体を動かす」ことだけではありません。散歩や遊びの中でも、五感をつかうことはたくさんあります。大切なのは「実体験」として経験することなのでしょう。

 

木村さんも「『運動=スポーツ』ではない」と言っています。ルールのあるスポーツだけが運動ではなく、例えば、大人の場合だと通勤で階段や坂道を歩く、買い物をする(荷物を持つ)、洗濯物を干すというように、日常生活の中にも運動はたくさんあります。このように子どもたちの生活でも、様々なところに運動はあり、その多くは「遊ぶ」ことにあるのでしょう。たしかに、一つの場所にとどまって行うスマートフォンやゲームでは身体を動かすことはありません。

 

ドイツに行ったときに、「運動」について話を聞くことがありました。そこでも「運動=スポーツ」ではなく「運動=遊び」ということが言われており、特に環境に「体幹」を使うような不安定な場所や揺れる遊具などを用意していました。遊びの中で「体幹」を鍛えることで様々なスポーツの基礎につながると考えられていたのです。そして、「スポーツ」をすることは課外教室などで行うそうで、日本のように「スポーツ=運動」と考えるよりも、「スポーツ=スポーツ選手」というような捉え方をしており、「野球選手にしたいなら野球をする」というような感覚であったようです。日本と「運動」における捉え方が大きく違います。

 

そう考えると子どもたちの遊びも立派な運動になります。むしろ、熱中して遊び込むような活動こそが乳幼児において、最も脳にもいい活動であるのだろうと思います。そういった環境を作っていってあげたいものです。

運動と脳

2021年3月6日の東洋経済オンラインに「子どもの学力を上げたい親が知るべき『運動の重要性』」という内容の記事がありました。これはIWA ACADEMY チーフディレクターであり、子どもの発達科学研究所の特任研究員である木村匡宏さんが記事を書かれていました。ここには「運動すると頭がよくなる」と話しているのです。

 

「頭がよくなる」ということと「運動」とは一見、つながっていないようにも思いますが、木村さんは「勉強」と「運動」を見たときに「脳を使う」という共通点から言うと非常に関係性があるのではないかというのです。このことについて木村さんは「人間が脳を使うのは勉強のばあいに限ったことではありません。走ったり、歩いたり、ジャンプしたりと、身体を動かすときも、人間はすべて脳からの指令を受けています。計算問題を解いたり、漢字や英単語を覚えたりすることだけが脳の働きではなく、考える、怒る、泣く、楽しむ・・・これらの感情の動きもすべて、脳の働きによるものです」というのです。

 

確かに、考えてみると体を動かすことに関しても、脳の指令から身体は動きますし、脳を働かすという点に関しては、勉強と運動は共通するところがあります。そこで「身体があって、脳がある」という前提を覚えておく必要があると言います。そして、人間の脳はバランスよく全体的に発達するのではなく、場所によって司る役割が決まっており、順を追って発達していきます。特に幼児期は運動をコントロールする「運動野」が発達します。そのため、この時期の子どもたちはとにかく走り回ったりして動きたがると言います。確かにこの時期の子どもたちは落ち着きがなかったり、障害物が無かったりすると走りたがるのはこういった発達段階だからなのでしょう。

 

しかし、昨今の子どもたちは運動不足が指摘されています。それはデジタルコンテンツの普及やゲーム、あと遊び場が少なくなっていることなども挙げられ、文部科学省・スポーツ庁「体力・運動能力調査」によると昭和29年度生まれと平成元年生まれを比較すると,昭和29年生まれの方が,いずれのテスト項目においても到達する最高(ピーク)値が高いことが見えてきます。平成元年から今では徐々にその運動率は良くはなっていますが、昭和29年に比べると未だに運動面は弱いことが見えてきます。

 

また、このデータからは「幼児期に外遊びをよくしていた児童は,日常的に運動し,体力も高い」ことや「幼児期に外で体を動かして遊ぶ習慣を身につけることが,小学校入学後の運動習慣の基礎を培い,体力の向上につながる要因の一つになっていると考えられる。」ということも読み取れるようです。木村さんも「本来、身体を使って遊ぶことが大切な時期に、身体を動からないことが習慣化すると、深刻な運動不足になっていく危険があり、実際に子どものロコモティブシンドローム(運動器の障害のために移動機能の低下をきたした状態)も多くみられるようです。そして、これは単純に身体、運動の発達の問題だけではなく、脳の発達の問題でもあるようです。

教育って

小西氏はある講演会のあとで、1人の母親からこういわれました。「早期教育は、我が子の将来を案じるがゆえの親心ではないでしょうか、親を越えてほしいというのは親の共通した願いです。早期教育を否定されるなら、親はなにを目指して子育てをすればよいのでしょうか」この言葉に対して、小西氏は「親並みで良いのではないでしょうか」と答えたのです。その真意は「子どもたちはいずれ、私たちの手を離れ、独り立ちをします。体力的、精神的、社会的、あるいは経済的に親をこえる瞬間を迎えるでしょう。我が子の成長を実感することは親の喜びであり、親としての役割の一つの区切りとなります」というのです。

 

「我が子の幸せを願う親心に疑問を持つものではありません。」と小西氏は言います。どの親でも子どもに対して不幸を望むことはないでしょう。しかし、乳幼児への早期教育は「我が子が他人よりも優秀であってほしい」「親にできなかったことを実現させたい」「夫のようになってほしくない」といった親の自信の無さや現状不満の裏返しに感じられるというのです。そして、「何をもって親を越えたというのでしょうか」それは学歴でしょうか。社会的地位、経済力でしょうか。しかしそれはあくまで人の一部でしかなく、ともすれば、非常に表面的な部分です。

 

また、ある人は「これからの子どもはかわいそうだ」という人もいると小西氏は言います。受験競争、少年犯罪、年金問題、少子高齢化、子どもたちの未来が複雑で混とんとしたものと予想されるからです。しかし、小西氏は「このような社会にしたのはほかでもない私たち自身であることを忘れてはならない」と言っています。そして、「子どもの将来を案じるのは親として当然です。しかし、早期教育によって人よりも優秀な子どもに育てることが親心ではないと私は思います。ましてや社会の責任を子どもたちに押し付けないためにも、まず親自身が日々イキイキとした人生を送り、一人一人にできることを実践することが、子どものよい手本となるのではないでしょうか。」

 

私は常々、教育や保育とは「人生を豊かにするもの」であってほしいと思っています。しかし、今は教育は「豊かにするもの」ではなく、「ランク付けされるもの」であったり、「しなければいけないもの」であるということが前に出すぎているように感じます。確かに、学問や教養といったものは必要です。しかし、それらのものは個々によるものもあるのではないかと思うのです。幸い日本は平和な国で紛争や戦争に巻き込まれるということも少ない国です。だからこそ、いろんな選択肢があるはずです。しかし、その選択肢を選ぶことができない人が多くなっているように思います。日本は海外に比べ「夢」を持っている子どもたちが少ないと言われています。それが今の社会を物語っているようにも思うのです。それが今回取り上げた赤ちゃん学会の小西氏の「早期教育」の話でもあるように、いつのまにか大人の願いや社会の責任を子どもに押し付けてしまっている部分もあるように感じます。

 

見守る保育には「こどもを丸ごと信じただろうか」という言葉があります。この「信じる」ということには子どもを一人の人格者として見ていこうという願いが込められています。そして、これは子どもの権利条約においても大切にされていることです。子どもにとってどういった環境を作ることが大人としての役目なのかよく考えさせられます。

相撲大会

先日、幼稚園の中庭で「相撲大会」を子どもたちがしていました。先生の話を聞くと、「去年からも、相撲をすることはあったのですが、子どもに『誰が強かった?』と聞くと『(去年卒園した)○○』というように名前が出てきたんです。この名前を聞いて、子どもたちに憧れを持っているのかなと思った」と言っていました。その名前が出てきた子どもは園ではワリとヤンチャな子どもであったのですが、相撲を通して、ヤ落ち着いてきたりしたそうで、意外と子どもの気持ちの発散にもなっているようです。こういった子どもたちの相撲を楽しむ様子から「今年の集大成として、相撲大会をやってみよう」という話になったそうです。

 

そんな相撲ですが、その起源はどこにあるのでしょうか。日本相撲協会のHPを見ると「古事記(712年)や日本書紀(720年)の中にある力くらべの神話や、宿禰(すくね)・蹶速(けはや)の天覧勝負の伝説」があるように太古の昔からこういった勝負として相撲はあったようです。この天覧試合の戦いは野見宿禰(のみのすくね)が相手を絶滅するまで執拗に攻撃を加えていることから、相撲というよりは死闘をもって力比べをした話ですが、この二人の死闘が相撲の始祖のようです。

 

そこから「その年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われるようになり、これが後に宮廷の行事となり300年続くことになった」というのです。それから鎌倉時代から戦国時代にかけて、武士の戦闘訓練として盛んに行われるようになります。織田信長も相撲愛好家であったそうです。そして、江戸時代になり、浪人や力自慢の物の中から、相撲を職業とする人が現れ、興行としての相撲になっていきます。そして、相撲は歌舞伎と並んで庶民の娯楽として大きな要素になったそうです。

 

 

さて、相撲大会に話を戻すと、子どもたちの相撲大会にはいくつかのルールがあります。「首から上に危害を加えてはいけない」「先生のいないところではしない」「蹴ったり、殴ったりしない」といったものでした。また、大会というだけあり、しっかりとトーナメント表やメダル、トロフィーなども用意されていました。子どもたちも自分たちがやりたい大会だからこそ、目的意識をもって話を聞きます。

 

以前、ドイツの保育を見学させていただく中に「参画」という言葉を聞きました。参画の言葉の意味は「計画の相談に加わること」とあります。ドイツの保育の中では子どもでも活動に「参画」します。つまり、計画を子どもも一緒に考えるのです。これは子どもの権利条約 第三条における「子どもの意見の尊重」に通じるものであります。しかし、この「子どもの意見の尊重」というのは日本が教育や保育において弱い部分とも言われています。

 

このとき職員の先生と話したことですが、「最初は職員と子どもが関わりながら一つの活動を作り上げることで、子どもたちはモデルを得ることになってるんだろうね。そして、こういった経験を積み重ねることで、小学校に入学した後に『アクティブラーニング』という『自分で計画を立てて活動する』といった能動的な学びができるようになるんだろうね。」と話をしました。はじめから自分たちだけで計画を当たり前に立てることはできません。小学校からいきなり「能動的な学習」といっても土台がなければできないのです。こういった遊びの中から面白がって計画を提案したり、みんなでたてる経験を積んだり、先生の手をかりて経験を通して学ぶことは勉強だけではできません。一見、遊びの中からのちょっとしたきっかけで始まった大会ですが、子どもたちは遊びから大切なことを学んでいるのです。