吉田松陰から学ぶ①

齋藤氏は著書「新しい学力」の中で過去に日本の教育についても例に挙げています。その一例が吉田松陰の松下村塾です。問題解決型の新しい学力を、アクティブラーニングを通して見につけていく環境としては「塾」のような、学び手の側から師を求めてやってくる少人数の画好条件であると齋藤氏は言っています。

 

吉田松陰(1830~59年)の松下村塾は、江戸時代末期にすでにアクティブラーニングが実践されていたと齋藤氏は言っています。海原徹の「吉田松陰と松下村塾」によれば、松下村塾が目指したのはひとりひとりを生かす教育でした。教科書は塾生が選択する場合も多く、何をまなぶか、どのような教科書を学ぶかが塾生には任されていたのです。

 

そうなる一つの要因が年齢や入塾の時期が異なるものが塾生として同時に来ていたという点。また、時間的にも出入りが自由な形式であった点などからの自然な選択があったことです。犯行である明倫館の授業・試験に必要な、『資治通鑑』など官学系の勉学に励むものがいる一方で、明倫館の試験とは関係ないものを勉強する学生もいたのです。もちろん、教師の吉田松陰が良いとされる本をテキストにする場合もあります。従来の武士が無頓着であった経済方面の書物をテキストにすることもあり、塾生の一人である品川弥二郎は「経済は金儲けのことを言うのに、奇妙なことを言う先生だと思った」と回想しています。それは松陰は算術や経済を重んじ、実学的な「経世済民」を目指していたからです。そのため、テキストもおのずと現在の問題にいかに対処するかという問題意識が反映された選択となっています。

 

また、松下村塾には、教卓がなかったとも言われています。吉田松陰は塾生たちの間を移動し、個人指導を行うのです。明確な時間割もなく、来るメンバーや時間もばらばらで、教科書も塾生中心に選ばれていたという状況においては、指導は一斉ではなく個別的になります。松陰は「何のために学問をするのか」と問われれば、「実行が第一である。ただ本を読む学者になってはいけない」と答えています。教師と生徒の関係というよりは、共に学ぶ同士的な関係を松陰は重んじたのです。

 

よい教師の条件の中に「共に学ぶ教師」と言われることがあります。単に子どもに知識を与えることは子どもたちの学ぶ意欲を消してしまうことがあります。大切なのは子どもの問題意識に共に考えることが意欲を伸ばすことに大切であったりするのです。保育をしていても、そのことを感じることは多くあります。自分が良かれと思って子どもたちに教えたり、何かを描いてあげると多くの子どもはそれを真似して描き始めるどころか、また、描いてともってきます。自分で意欲的に考えさせるためには、教える以上に共に考え、その時に、「もうちょっとがんばればわかる」ところまで教えることが重要であるように思います。また、吉田松陰の学舎の興味深い部分が、「異年齢」と「選択」です。様々に多様な環境や人材がいることで、それらが刺激し合い、教え合うことがその場で起きています。以前、オランダのイエナプランの様子を見にいったときにも、先生ばかりが教えるのではなく、教え合う環境が整っていました。「人に教えることで、自分は3倍勉強する」と言いますが、そういった環境を基にした意欲というというのも、もう少し日本は取り入れてもいいように思います。