根底にあるもの

齋藤氏は「新しい学力観においては、学ぶ意欲自体が評価される」としています。そのため、積極的な問題解決に向かう姿勢を見せることが求められます。だからといって、従来の伝統的な学力を身につけ、試験に臨んできたものたちが意欲に欠けていたと考えるのは妥当ではないといいます。自分の関心や好奇心に従って、問題を考え、レポートにした人間だけが意欲があるというとそうではなく、体系的な知識内容を地味にトレーニングする「耐える学力」も重要なのです。

 

齋藤氏はこういった力は社会に出てからも必要だと言います。仕事において、必要な知識内容が自分の興味関心が持てるとは限らないのです。部署が変わるごとに必要な基礎知識はその都度新しく大量に提示されます。それを記憶し、活用するためには、むしろ伝統的な学力をトレーニングしてきた人間が得意とするところだといいます。

 

確かにその通りです。しかし、果たしてそうなのでしょうか。伝統的な学習観があるからできるのでしょうか。アクティブラーニングで問題解決型の学習ではできない能力なのでしょうか。問題解決能力を発揮することで、かえって粘り強く勉強するということに繋がらないのでしょうか。内容を見ていく中で、疑問点が浮かびます。覚え込むことや記憶する学習が必要ないとは思いません。問題解決能力ばかりであると記憶する学習はしないとも思わないのです。当然の話ですが、問題解決能力に向けた学習においても、伝統的な学習においても、根本的に必要なことは「学ぶ意欲」をいかに持たせるかということであると考えます。最近では「レジリエンス」という言葉をよく聞きます。レジリエンスは「跳ね返る、弾力」といった意味を指します。逆境に打ち勝つだけの粘り強さが必要とされるのです。これが最近言われる非認知能力の重要性です。そして、認知能力のまえに非認知能力が土台と言われる所以です。ここで言われる伝統的な学習は自分のスピードで自分の発達にあったものではありません。意欲があっても、できないで、単元が進んでいってしまう。確かに「できる」子どもたちは齋藤氏の言うように、その状況の中でより伸ばしていくでしょう。しかし、「できない子どもたち」はどうなるのでしょうか。「ケーキの切れない非行少年」にある子どもたちはどういった状況で起きてきたのでしょうか。

 

保育をしている中で子どもたちが意欲を持っているときとはどういったときでしょうか。先生から言われたことをするときに意欲を感じるでしょうか。それとも自分自身でやりたいことを見つけ遊んでいるときに意欲を感じるでしょうか。これは乳幼児だけではなく、学校でも同様のことが言えるように思います。「学び知る楽しさ」を感じたときに意欲が出ると齋藤氏は言っています。私も同感です。それを見つけるには伝統的な学習のように先生からの提案を受けるほうがそう感じるのか、それとも問題解決型のように自分たちで課題を考えるところから始めたほうが良いのか。その根底には、結局、どちらにも「環境」が大きな要因であるように思います。