メリットとデメリット

齋藤氏は日本が現在「追いつき、追い越せ」と参考すべきモデルとなる他国はないと考えており、それはPISA調査の問題解決能力の結果で、教育の参考としているアメリカなどの結果よりも日本の方が成績が高いことが物語っているのではないかといっています。そのた、め、単純に「今までのやり方は古臭い」という切り捨てるのは判断の事実的基礎を書いたものではないだろうかといっています。では、歴史的に日本の教育はどういったものだったのでしょうか。

 

齋藤氏がいうところでは、例えば明治維新を成し遂げた人々は、「学力」ということでいえば、徹底的に「素読」を中心とした伝統的な教育を受け、問題解決学習とは程遠いように見える素読をわざとして身に付けた人が、現実に押し寄せてきた植民地化の波から日本をすくい、欧米列強に追いつくような「問題を解決した」と言います。第二次世界大戦後においても、焼け野原から世界第2位の経済大国にまで成長を遂げ、同時に平和で民主的な社会を作り上げてきた人々の中心は、戦前の教育を受けた世代の人たちでありました。そこでは個性や主体性とはかけ離れた教育を受けたよう見える人たちが爆発的な学習意欲を示し、「問題を解決」したのです。これを見ると、近代史におけるもっとも主体的に動いた世代は「伝統的な教育」を受けた人たちであるということは事実であると言っています。

 

そして、現在の教育を見ていても、「教育の逆説」的に個性を尊重しようというスローガンのもと、教育改革を進めてきたにもかかわらず、個性化は進んだろうかと言います。むしろ、明治、大正、戦前の人々の方がより精神的に強く個性的であったのではないかと齋藤氏は言います。ゆとり教育の時期に学校教育を受けた生徒たちが、その「ゆとり」を活用して、以前の世代ができなかった主体的な勉強や知的好奇心を持って学習したのかというのです。

 

また、齋藤氏は現在の日本の教育の中でも、アクティブラーニングはあることを忘れてはいけないというのです。例えば「作文」です。1910年に始まった「生活つづり方」教育は子どもたちの自分の生活を見直して、それを題材に文章を書くことでした。こうして自分の生活を表現します。このような活動は問題解決型の設問をたくさん解いてパターンを身につけ、知的に解決する力を伸ばしていくことではなく、本当の意欲・関心にむけた教育はそういったものとは違う次元のものではないだろうかというのです。これまでの日本で行われてきた教育実践の厚みは世界に誇ることができ、生活つづり方をはじめとした国語教育、強度学習を発展させた社会科教育、実践を重んじた理科教育など、日本の教師たちが積み上げてきた実践は、今求められている新しい学習をまさに実践するものであったと言います。

 

確かに、これまでの内容を見ていると、「伝統的学習」と言われるものにも大きなメリットがあるということが分かります。このことも忘れてはいけない部分であるのかもしれません。アクティブラーニングという言葉だけが独り歩きし、これまでの教育のメリットとデメリットの取捨選択もこれからの教育においては必要となってくると思います。その点、認知的な学びというのは否定されるものでもありません。大切なのはどれを学ぶかではなく、どう学ぶか、学び手側の意欲や関心といった心情的なものをどう捉えるかが大切なように思います。