新しい学力

PISAの学力調査の立ち上げたアンドレアス・シュライヒャー氏の著書を通して見てきましたが、これまでの話を見ていても、どうやらこれからの教育というのはこれまでのものとは大きく変わってくるということが言えるのでしょう。何よりも、社会の中で大きく変わってくるというのが技術革新です。AIの発展により、これまでの知識を覚えるということはデジタルメディアによってとって代わられることになります。情報はより多様にわたり、情報のスピードもかなり速くなってきます。そういった中で必要になってくるのが、その多い情報を処理し、正確な情報を取り出す力です。そして、その正確な情報を次の新たな技術や新たな産業に取り込んでいかなければいけません。そうしていかなければ、これからの情報化社会の中では発展していくことができないのです。知識を持っていることは重要な能力ではなくなるのです。それよりも、そういった知識を生かすことが必要になるのです。

 

そのために、「新たな学力」を模索していかなければいけません。これまでとは大きく違ってきた価値観が求められます。当然、このことは学校教育だけの話ではなく、乳幼児教育においても、同様に言えることだと思います。私は常々学校教育が変わるためには乳幼児教育から変えていかなければいけないと感じています。学校教育に向けて、その土台を作っていかなければいけないのです。しかし、この「土台」という言葉はしばしば勘違いされることがあります。それは「小学校の先取り」のように小学校でするであろう内容を保育の中に取り込んでしまうことです。たとえば、50音や英語教育、こういったものが「英才教育」のように捉えられ、取り入れられることも多くあります。このことに対して、さまざまな園で、さまざまな考えや価値観があるので、言及は避けますが、私の考えとしては、もう少し子どもの教育や保育を「発達ベースで見るべきではないか」と思うのです。

 

「子どもたちはやらせればできる」と言われることがあります。確かにその通りです。教え込むことでできることはあるでしょう。しかし、それがその子にとって「本当にやりたいことなのか」と言われるとそうではないことが多いです。「いろんなことをやらせる中で好きなことも見つかるかもしれない」と言われることもあります。しかし、では、そのいろんなことをする中で好きなことが見つかるかもしれませんが、その反面、その一つを見つけるために多くのものが嫌いになってしまう可能性もあるのです。

 

これは極論かもしれません。すべての子どもにこの考えが当てはまらないかもしれません。すべてのことが好きになるかもしれません。しかし、それは自分で選んだものでもなく、いわゆる他律です。自分で選んだものではないのです。ではなんでも自分で選んだことはどんな選択でも、何しても良いのかと言われるとそれも違います。ただ、それは「何でもいい」ということではありません。大切なのことは自分で選んだことには「責任」があるということです。自分で選び、自分で責任を持つことで、初めて自分を知ることになります。

 

大切なのは「自分で気づく経験」が自律につながることだと思っています。これからの社会では、アンドレス氏がいうように関連付けたり、イノベーションを起こすことが重要な時代になります。そういった時代において、教育や保育はより重要な意味合いが求められてくるだろうと思います。そして、その重要性はこれまでの教育という部分からより、人間性における人格といったところを中心とした教育や保育に視点が送られていくのだろうと思います。