センス

アクティブラーニングを教師が行う際に、齋藤氏が問題にしているのが、どうしても実践として行う教師の「センス」が子どもの学習状況を把握するには必要であるということです。実際のところグループ・ディスカッションと一口に言ってもダラダラとした話し合いになることも多ければ、「調べ学習」と言いながらも、学習者がさぼってしまうケースもあります。そうした曖昧な授業が1年間行われても、何が身についたかと言われると生徒は明確に答えられないのではないかというのです。

 

確かに自分が学生のときにおいてもグループ学習は行いましたが、自習のような取り組みに近く、頑張る生徒と傍観する生徒との間に学習の差があったようにも感じます。これであれば、ゆとり教育のような評価になり、まだ伝統的な学力を身につけるほうが結果としては生産的なのではないかと評価されかねません。そもそも、教員養成を行う大学の教員がどれだけアクティブラーニングを実践しているでしょうか。まだまだ、教員養成において大学の授業は昔ながらのものが少なくはなく、そうした授業を受けた大学生が現場の教師になったとしても、現実的にアクティブラーニングを主軸にした授業が行えるかというと大きな不安があります。

 

これに対し、伝統的な学力のような授業は、しっかりと決まった教科書があり、その内容を習得させる授業ならば、一年間の授業の実績は保証されやすくなります。面白い授業にならない危険性もあるが、内容上の水準はキープしやすいのです。そして、アクティブラーニングにこだわらなければ、センスのある教師はそれとは別の形で学習者の意欲を育てるような面白い授業をする力を持っている教師もたくさんいるのです。その教師たちは現行の指導要領においても伝統的な学力を伸ばしつつ、意欲や思考力、判断力などを高める授業をしています。

 

つまり、「新しい学力」を伸ばす授業をするには、教師のセンスが不可欠であり、意欲・思考力・判断力等が何より教師自身に求められます。それさえあれば、アクティブラーニングという手法にこだわる必要はないということも言えます。逆に伝統的な授業スタイルで成果を上げている教師にとってはアクティブラーニング主体に変えることで、学習効果が下がってしまう可能性もあるのです。

 

また、このことは教員養成における大学教育にも不安があると齋藤氏は言っています。大学の教員はそのほとんどは研究を主たる仕事とする研究者がほとんどです。そういった大学教員が授業の場を取り仕切る学習者の意識を活性化させる教育者としてのセンスを併せ持つことは容易ではありません。研究能力と授業というライブ空間を取り仕切る教育力は質的に異なる者なのです。しかし、これからの大学教育では、授業空間をマネジメントし、リードする教育センスが研究能力の高さと共に求められます。そのため、具体的に学習者のひとりひとりの意識が活性化する授業ができているかどうかを見なければいけないのです。

 

実際、自分が教員免許を取ったころは座学的に単位を取るものが多くありました。そして、単位さえ取れれば教員免許は取れるのです。厳選たる資格の認定はなく、多くは厳しい教員試験でふるいにかけられ、実践の中で学んでいくことが多いのだろうと思います。こういったジレンマを私は大学時代に感じました。これは教員だけではなく、保育者も似たようなものかもしれません。結局のところはテクニックではなく、「思い」であったり、「情熱」であったりをどれだけ高い水準で持っているかを見極めないと、本質的なものにはいきつかないように思います。新しい学力においても、その理解はやはり大きなモチベーションがなければ理解できない部分は大きかろうと思いますし、変わるためのエネルギーにはつながっていかないように思います。