5月2021

エピソード記憶

エピソード記憶とは、どのように作られるのでしょうか。自分の生活体験を後で再生できるように、とりあえずDVDドライブに保存しておくようなものでしょうか。ゴプニックはそんなに単純なものではないと言っています。たとえば、雰囲気のいいレストランで食事をしていたとします。しかし、脳裏に浮かぶのは雰囲気のいいレストランで食事をしている自分と誰かです。ですが、実際この情景は自分のうちから見ているはずです。つまり、自分の体験をその通りに再生するのであれば、机を前に料理が口に運ばれる情景のみのはずです。このように記憶においても、自分の目で見た情景だけではなく、客観的に俯瞰した記憶も出てきます。

 

また、エピソード記憶にはスペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故や、9.11同時多発テロのようなおそろしい出来事の後には「フラッシュバブル記憶」と言われる記憶が残ることがあります。この記憶は非常に生々しいものですが、それでも実際の体験とは違ってしまうことがあります。これについて、チャレンジャー事故を人々がどう体験したか、心理学者が調べた研究があります。事故後間もない時期に「あなたは、あのときどこにいましたか?」「テレビで見たのですか、それともラジオで聞きましたか?」などの質問をし、答えを記録しました。そして、3年後にもう一度同じ質問をしたのです。すると、質問された人たちは、爆発の衝撃は今も生々しく残っていて、自己のことは正確に覚えていると答えたにも関わらず、多くの人の記憶に間違いがあったのです。本人が思っているほど、性格ではなく、実際の体験とは少しずつ違っていたのです。エピソード記憶の細部が完全な創作で、ありもしない体験を記憶してしまう例もあります。

 

これにおいて、細かい出来事において、記憶を植え付けることもできると言います。エリザベス・ロフタスと同僚たちが行った実験では、ごく普通の人にも「虚偽記憶」があるという驚くべき事実を示しました。まず、被験者に対し、あなたは幼いときに商店街で迷子になったことがある、という暗示を与えます。たとえば、「お母さんから、あなたが小さいとき迷子になった話を聞きましたよ」といったように伝えます。それから、その出来事を思い出すように促し、細部を少しだけ暗示します。たとえば、「噴水の陰に隠れていたんですってね」などです。すると被験者は、事件者の作り話を最後には完全に信じてしまい、ありもしない過去の出来事について鮮明なエピソード記憶を持つにいたるのです。

 

こういったようなエピソード記憶ですが、他のタイプの記憶と違うのが、感覚の細部まで豊かなことです。エピソード記憶はその時の雰囲気や感触、天気、様々なものが記憶として想像できるのです。一方で、単なる事実の記憶、パリはフランスの首都といったものは感覚は伴いません。しかし、ある出来事を取り上げて、どんな感じだった?どんなふうに見えた?どんな味だった?と聞いていくことで、詳細で具体的な心的イメージを植え付けられることがあります。記憶に関する心理学研究や、精神療法、さらには警察の尋問でも、このような手法によって、本当にエピソード記憶を捏造できてしまうことがあります。つまり、虚偽記憶が本物の記憶のように「感じられ」、其れに取り込まれてしまうのです。そうなってしまうと、意識体験としてはもう、実際にあったことと区別がつかなくなるのです。

記憶と内部意識

赤ちゃんの意識は周りを照らすように周囲に向けられているということをこれまで紹介してきました。それと同時に意識には外の世界に対するものと、心の中に向かうものがあります。心の内部の意識は、過去の記憶や未来への記憶、こだわり、空想などに左右され、過去の情景と未来の間を、まるでタイムトラベラーのように行き来します。これを「内語」と呼ばれます。頭の中で独り言を言うのもこういったことです。

 

このような意識の流れは、自己同一性の感覚と密接な関わりをもつと言います。つまり、自分の体験は、自分に起こることということです。哲学者ルネ・デカルトは、人が確実に知りえるのは内的体験だけだと考えました。つまり、「我思う、ゆえに我あり」とありますが、「我」とは誰のことを指しているのでしょうか。この「我」は内なる観察者として、自分の人生のステージを最前線から見つめるものであり、過去の記憶と未来の希望を統合する不変の自我です。未来を計画し、その計画から利益を受ける者です。つまり、「我」です。乳幼児にこのような内部意識があるのでしょうか。大人と同じような意識の流れがあって、内なる観察者のような司令塔はいるのでしょうか。

 

注意が外部意識と密接に関係しているのに対し、記憶は内部意識と密接な関わりをもちます。心理学者は記憶をいくつかに分類します。まず、一つ目は現在の行動に影響を及ぼす過去の体験です。これはウミウシのような単純な生物もこの種の記憶をもつと言われています。また、「パブロフの犬」が、ある音が聞こえたら電気ショックが与えられたことを記憶したのも、同様の仕組みです。2つ目は、それまでの人生で蓄積された知識があります。たとえば、パリはフランスの首都で、キャットはCATと綴るなど、いつこれらの知識を得たか覚えていないし、体験したわけでもありません。パリはフランスの首都という知識があるだけです。こういった無意識的な記憶に対し、自分の記憶を自分のもの、自分の人生を連続した物語として受け止める意識体験もあって、心理学者はこれをエピソード記憶と呼びます。そして、このエピソード記憶のうち、自分自身の体験に関わるものを自伝的記憶と言います。

 

記憶はそれに関わる脳の部分も、記憶のタイプごとに違います。ある種の脳損傷を受けた人は、新しい情報は学習できてもエピソード記憶をつくれません。有名な事例に、若い頃てんかん治療の手術を受けたH・Mという男性の話があります。手術で海馬を破壊された彼は、新しい技能の習得はでき、時には新しい事実を覚えることもできましたが、エピソード記憶は、手術後はもう作られることはありませんでした。そのため、彼は主治医に会うたびに自己紹介をしたのです。なぜなら、前に会った記憶がないからです。鏡を見るたびにぎょっとして、自分は27歳の男性だという記憶と、目の前の老けた顔の折り合いを付けなければいけないのです。H・Mの意識ははっきりしていたのに、その中身は正常な意識と非常に異なるものでした。新しい出来事も瞬時に忘れてしまいます。過ぎたことをどんどん忘れてしまうのです。

ランタン型意識

ゴプニックは赤ちゃんの意識を「ランタン型意識」ではないかと言っています。つまり、周りのあらゆるものごとを明るく照らし出す意識だというのです。これと対局なのが「フロー」と呼ばれる状態です。これは一つの対象や活動に没頭しきって得られる境地です。これは「ゾーン」とも言われますね。一つの物事に完全に没頭し、それ以外のことは目に映らず、取るべき手順すら意識されない。企図がひとりでに完成していくような、気持ちのいい無意識状態です。

 

ランタン型意識がもたらす幸福感は、むしろ忘我の境地というのに近いのではないかとゴプニックは言います。このような幸福感を得るのは、世界に同化できた時です。禅の鈴木駿流師はこのような状態を「初心」と呼び、初心とは物事に熟達する前の澄んだ心だと言っています。ロマン派の詩人ワーズ・ワースは無限の驚きをもって世界を体験できる幼児期に、特別な価値を置いていました。赤ちゃんは悟りを開いた仏陀のように、小さなお部屋の中で旅を続けています。まばゆいばかりの光明と初めて体験する壁や影や声に包まれているのです。心理学者のウィリアム・ジェイムズはこのような意識を描写しています。それによると「一部の人たちの意識は真っ暗な世界に差し込んだ一筋の光。そうでない人では『あたりはもっと明るく、流星群のように降り注ぐイメージで満たされている。流星はランダムに地上に落下し、そのたびに思考の焦点がズレていく』」と書いています。しかし、この描写は明晰なのに散漫な大人たちのことを表しています。ゴプニックはこの文章の『』の部分の内容が赤ちゃんにこそ当てはまると言っています。

 

もちろん、乳幼児において、いつもランタン型のような意識体験をしているわけではありません。大人よりはその状態が長いとはいえ、むしろ眠っているかぐずっている時間の方がずっと長いでしょう。大人が前回紹介したように、赤ちゃんの意識体験をするにおいて「旅に出る」ことが近いとありました。また、「瞑想」も赤ちゃんの意識に近くなるようです。しかし、この二つの体験を行うためには「旅に出る人」はまずお金をため、出費をし、旅支度をしなければいけません。「瞑想する人」も自分の意識を制御するためには訓練が必要です。しかし、赤ちゃんの場合は大人のそんな苦労などせずとも、そして、望む望ま無しにも関わらず、おのずと旅先や瞑想で得られるような意識状態になっているのです。

 

このような「赤ちゃん研究は意識とはそもそも何なのかを私たちに教えてくれる」とごプ肉は言います。盲視の体験が、行動と意識が解離している可能性を示すように、赤ちゃんは、違う種類の心理学的な能力の間にも解離があり、それぞれが違う種類の意識を生み出している可能性を教えてくれるのです。それはたとえば、学習をしているときの意識は、計画を立てているときの意識とはまるで違う種類のものかもしれないといったことが示唆され、これまで大人の意識についてなされた実験のほぼすべては、注意を集中させ、ごく限定的な課題をやらせるものでした。赤ちゃんはこのようなやり方では、総体的な意識の断片しかわからないことを教えてくれているのです。

 

そもそも、大人と赤ちゃんとでは意識の向け方が大きく違うのです。保育においても、大人の意識を子どもに求めることは多いように思います。子どもそれぞれを信じて、関わることが何よりも大切なことがより見えてきます。大人のロジックでは子どもは動いていないのです。「子どもを丸ごと信じただろうか」と私の恩師である先生が保育において、このように言われていました。今、この言葉の意味がより鮮明に分かるような気がします。

新しい体験

ゴプニックは赤ちゃんの意識状態のイメージをつかむには、大人が見知らぬ国に行ったときに似ていると言っています。なぜなら、見知らぬ国に行くと当然周りは見たこともないものばかりです。新しい情報がどっと押し寄せてくることになります。そして、その情報のどれが大事なことで、何を切り離していいかを判断することが難しく、自分で選り分けることはほとんどできません。自分の意図や判断以上に、外部の物や出来事に左右されるところが赤ちゃんと似ているのです。また、これは会議や商談などといった特定の目的やツアーで決められた訪問地があるわけでもないぶらり旅であれば、その傾向は一層強まります。

 

そうした旅は目的を持たないことが目的といえます。そのため、異文化の手触りを丸ごと楽しむことこそが旅の醍醐味なのです。偶然見つけた品や想定外の出来事から、豊かで生き生きとした情報が得られるのです。旅上手な人は心を空にして偶然の出会いを受け入れられる人だとゴプニックは言います。

 

このように旅をする人は赤ちゃんのように、何が待っているか分からないところで、なんでもいいから新しい発見をしたいのです。旅先では自国では気にしない細かいところにも目が留まります。様々な文化を見て、聞いて、感じてを繰り返していくうちに、自分の文化や国についてもっていた因果マップが修正され、旅先で得た知識から、日本のこと、イタリア的な情熱、フランスのウィットにとんだ生活が想像できるようになります。「旅は心を広げる」とよく言いますが、これは本当ではないかとゴプニックは言っています。旅をしているときの私たちは、子どものように好奇心を解放し、色々な人と出会うだけではなく、自分自身も再発見するのです。

 

確かに、私もいくつかの国を海外研修という形で行かせてもらったことがあります。海外の保育を見ていくことは確かに参考になり、学ぶこともたくさんありましたが、それ以上に海外の保育を見ることは、自分の国の保育を改めて考える機会にもなります。因果マップを書き換えるということをゴプニックは言いますが、そこから見えてくる保育の様子を受けて、多くの引き出しを自分たちに与えてくれることになりました。また、そういったとき、私たちは「外部からの情報を遮断せず、注意と意識が高揚した状態にある」と言っています。そして、「生きていることを強烈に感じる。たった数日の旅でも、あふれるばかりの意識体験を持ち帰れる」のです。たった数日しかいなかったにも関わらず、その経験はかなり鮮明に脳裏に残っているのは、こういった注意と意識が高揚した状態にあるからなのでしょうね。日常的な無意識の中で繰り返される日々より、はるかに刺激的で目に入るものすべてが好奇心の対象であるから、こういった意識に残ることができるのでしょう。

 

赤ちゃんがこういった意識の高揚感のなかで、日々を過ごしているというのは、まさに日常の中で、見るものがすべて新鮮で好奇心にあふれている状態なのでしょう。そう考えると安心基地の必要性やキョロキョロと落ち着きのない様子になるのも納得がいきます。赤ちゃんはすべての環境において、新鮮さしか感じていないのです。そのため、より多くのことを学び、体験することができるようにするには大人は不安になったときに帰ってこれる環境でなければいけないのです。

大人と赤ちゃんの違い

赤ちゃんと大人とを比べた場合、大人の意識というのはスポットライトのように集中したところに意識や注意が向かっていくようになります。それに比べると赤ちゃんはまるでランタンのように周囲をまんべんなく照らすようなものが赤ちゃんの意識であるということが言えます。赤ちゃんは世界の一部だけを拾い上げ、他の一歳を遮断するようなことはせず、すべてを同時に、しかも鮮明に体験しているようなのです。赤ちゃんの脳には神経伝達物質であるアセチルコリンが大量に放出されている一方で、その作用を弱める抑制性の神経伝達物質はわずかなのです。そして、脳も心も、劇的なまでの可塑性を持ち、新しい可能性に大きく開かれているのです。

 

また、赤ちゃんは大人のように無意識状態になることも少ないようです。それはなじみのあるものや熟練して児童的にこなせることが少ないため、馴化された無意識というものがほとんどないからで、気を散らす情報を締め出すことは苦手ですが、その分、広範囲のことを意識するのです。そういった意味では、大人よりも意識していることは多く、はっきりしていると言えます。

 

大人は何かに集中しているときに意識が鮮明になり、その注意が脳の可塑性と結びつきます。何かに注意すると、心も脳も変化するのです。このことを踏まえて考えると脳の可塑性、つまり脳の変化は注意をすることで起きると考えれますし、注意は鮮明な意識であるということも言えます。つまり。赤ちゃんは大人よりも意識が鮮明であるということが言えます。

 

このことから見えてくるのは赤ちゃんが大人より馴化や集中の度合いが低く、脳の可塑性に富んでいることは間違いないことです。赤ちゃんにとっては未知の世界は大人よりもずっと広く、学習される脳も大人よりはるかに多いのです。赤ちゃんが生まれて、初めて世界と触れ合うわけですから、大人のように集中して学習するというだけでは学習しきれないのでしょう。赤ちゃんがキョロキョロと周りを見ているのはまるで、コロコロと床のごみを拾っていく道具のように、様々な情報をあたまの中で処理し、脳はその都度変化を起こしているのですね。

 

ゴプニックはこの様子をさらに大人であればどういったことになるのか?と実に今日意味深い考えに進めています。心と脳を赤ちゃんと同じような状況に置いたら、意識はどうなるのか。ぼやけてしまうのか、それとも鮮明になるのか。赤ちゃんの意識は広く、かつ、鮮明に意識されているということはどういったことなのか。

 

赤ちゃんから見える景色というものが分かると保育においても、関わり方や見方はまたかわってくるかもしれません。